田川市立図書館/筑豊・田川デジタルアーカイブ

年表一覧
年表1   年表2

西暦    :       ~               
No 元号年 西暦年 事項文 備考 関連
1 天保一 1830

この年

▷肥前東松浦郡浪瀬村で焚石発見,採掘をはじめる.出炭高1ヵ月およそ24万斤~25万斤(安政6年~万延1年頃よりようやく盛大となり1ヵ月の出炭高180万斤を越える). 149

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2 天保一 1830

この頃

■平戸藩北松浦郡中里村草刈太一左衛門(草刈新田の開発者)は,石炭仲買商から石炭輸送業に転じて成功.その後,中里・相浦・小佐々各地の石炭採掘に進出. 184

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3 天保二 1831

4

6

〔2.24〕 佐賀藩,多久領別府山採掘の生炭を領内で売りさばきかね,試みとして肥後へ船1艘分の旅出が許可される.〔2.27〕炭山仕法制定の上,運上銀賦課の旨,小物成方より俵銭方へ通達. 298

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4 天保二 1831

4

12

〔2.30〕 佐賀藩多久領屋形は,同領別府山石炭旅出分の運上銀賦課に関連して,本藩より従来納付しなかった運上を賦課される懸念もあり,別府山石炭の採掘をさし留め,〔3.4〕御屋形で掘り方改正を評議. 298

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5 天保二 1831

〔4.-〕 阿州撫養浜・斎田浜,播州赤穂西浜・東浜,備後富浜・吉和浜・天女干浜,芸州竹原浜・生口浜,備後松永浜・野島浜の浜人間で,塩の生産調整を協議すること,塩ならびに石炭相場を時々相互に連絡することを申し合わせる. 4

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6 天保二 1831

10

8

〔9.3〕 長門宇部村百姓惣代45人連署して,村経費収支明細書の公開,石炭運上の廃止など8ヵ条を領主福原氏へ提出. 32/551

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7 天保二 1831

12

5

〔11.2〕 播州赤穂藩において塩浜に対する定法令達.文政6年から石炭焚きになったが,経験が浅いため煙の逆流を防ぐなどの諸注意を与え,問屋が買付けの時欠石なきよう配慮.また石炭を塩浜人が買入れの時,浜人・問屋を立会わせ,品質・値段などを石炭問屋にまかせないようにする. 4

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8 天保三 1832

〔3.-〕 阿州斎田浜,播州赤穂浜,豫州波止浜,備後松永浜,芸州竹原浜・海老浜,備後肥浜・吉和浜・富浜,防州三田尻浜の浜人間で,塩の生産調整協議の際,塩・石炭の相場を時々通報することを申合わせる. 4

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9 天保三 1832

10

22

〔9.29〕 佐賀藩多久領北方山狩谷山石炭採掘に関して,5年間正銀6貫目ずつ運上銀を徴収してきたが,鉱害を生じるなどのこともあり,6月限りで採掘を禁止.請元中よりの嘆願により,閏11月まで採掘を許可.その後は売りさばきのみするよう請元へ厳達. 298

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10 天保三 1832

この年

▷肥前東松浦郡平山下村字ウバノツクラおよび丸石にて,同村小野又左衛門石炭発見(ウバノツクラは'79年12月開坑,稼行人小野勝平,'81~'83年休業.丸石は'80年11月開坑,稼行人小野芳平,出炭高,'81年3万斤,'82年9万斤,'83年11万斤). 153

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11 天保三 1832

この頃

▷肥前有田の正司考祺,≪倹法富強録≫5巻を著わす.この中で,佐賀藩では石炭は三池・平戸から来るが,その価額は少額で,また国家大用の品でないから他藩から入ってきても妨げにならないと述べている. 680

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12 天保四 1833

4

27

〔3.8〕 播州赤穂藩において,<石炭取締及問屋礼銀之事>が触れ出され,薪問屋は石炭問屋となり,石炭取締りと礼銀差上げを願い出る. 4

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13 天保四 1833

〔4.-〕 播州赤穂塩田の主な入津炭は,岩ケ浦炭・本浦炭・唐津炭・松島炭・柿ノ浦(蛎ノ浦ヵ)炭などの九州炭,運搬船のうち他所船は波止浜・備前児島・周防・伊予・麻里府・上ノ関・豊前・平戸などの船を使用. 4/127

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14 天保四 1833

この年

▷安芸国豊田郡中野村塩浜において,薪問屋鍵屋壮平,石炭問屋土井又五郎に代り石炭問屋を引受け.弘化4年又五郎の孫只助より問屋職の返還を要求.嘉永1年石炭問屋を村方が引受け,問屋事務は組頭・長百姓・十人頭等5人で引受け,加地子金年13両を村方に入れる(以後,石炭値段高騰のため文久1年より15両,元治1年より25両,慶応2年より文久2年にさかのぼり40両となる).〔嘉永4年6月〕村方石炭問屋の不正事件のため,浜人・問屋等関係者一同豊田郡役所に呼び出され取調べ,〔明治4年3月〕落着. 717

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15 天保四 1833

この年

*播州赤穂西浜の石炭問屋柴原家の3月~11月の石炭受入れ643艘,1艘分の問屋上納銀1匁5分,計964匁5厘(分ヵ). 4

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16 天保五 1834

4

27

〔3.19〕 防州三田尻浜,阿川斉田浜,播州赤穂浜,芸州竹原浜,備前仁方浜・海老浜,備後松永浜・天女干浜・天女浜・富浜・吉和浜の浜人21人,厳島に集まり,塩・石炭の相場を時々通報しあうことをきめる. 730

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17 天保五 1834

この年

▷周防三田尻浜では石炭購入の際,以前は1振ごと掛改めて受取っていたが,問屋・炭船の者に不都合あり,この年より上荷船に例木(ママ)を打ち,100振・150振を改め購入するようになる. 730

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18 天保六 1835

この年

▷柳河藩士小野寛隆,筑後平野山の地を買い,大谷・本谷・満谷・梅谷・西谷・炉谷の6ヵ所に開坑. 436

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19 天保六 1835

この年

▷讃岐の塩田,松葉焚きを改めて石炭を試用,好結果を見ず.漸次改良を加え,天保12年にはすべて石炭を使用. 37

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20 天保七 1836

8

12

〔7.1〕 嶋原藩小浜村亀八,肥前東松浦郡梶山村石炭山元方幸左衛門山掘子として従業中.〔6.29〕出水の際,石土場の石炭が流失しないよう片付けた後,川へ泳ぎ出して行方不明となった旨,梶山村庄屋忠蔵・同村仁平治より御代官役所へ届出る. 516

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21 天保七 1836

この頃

■肥前山代郷より防州三田尻塩田への旅出石炭は,〔文化10年8月~11年8月〕4000盃(百斤入)にはじまり〔文政初年〕6000~9000盃,〔文政5年〕1万盃,〔文政7年〕2万盃,〔文政8年~天保7年〕毎年2万5000盃. 26

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22 天保八 1837

この年

▷肥前山代郷より防州三田尻塩田への旅出石炭5万盃に急増(天保10年をもって杜絶). 26

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23 天保九 1838

3

6

〔2.11〕 佐賀藩多久領焼米村石炭山で,横辺田郷下小田村和三郎と豊前者新吉が口論,和三郎は頬に鶴嘴をうちかけられて気絶,〔2.20〕死亡.新吉は捕縛中何者かが逃亡させる.掛り村役は石炭掘方の年限更新にさしつかえることを恐れて無届内済にしたが,風聞たち事情聴取さる.〔3.17〕川浪瀬左衛門より請役所・当番目附衆へその旨書付提出. 298

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24 天保九 1838

〔10.-〕 佐賀藩多久領焼米村より同領御屋形に対し,石炭採掘再開を出願.以前より炭質悪く焼ガラにできぬため旅売していたが,中断していた旅出(生炭4万樽)を再出願,冥加銀として定銀240目負担. 298

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25 天保一〇 1839

〔12.-〕 佐賀藩多久領山方役,御屋形へ,文政11年大風災害後の竹木仕立について,近年凶作続きで百姓の出夫困難なため,売山代・石炭運上による日雇仕組方を上申. 298

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26 天保一〇 1839

4

26

〔3.13〕 佐賀藩諫早領長尾村幸之介は,石炭山稼として,昨年より唐津領梶山村広作石炭山で従業中,当年正月より持病を再発したので,国元までの継送りとなる. 516

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27 天保一〇 1839

〔3.-〕 肥前山代郷において,石炭山一式御仕組が行われ,これまで山代1年1ヵ所につき銀30匁ずつ上納してきたのを改正し,炭1樽につき冥加銀員数をきめられたので山元の仲間中集まり評定.炭立の厚薄,船場の遠近もあるので,数年掘方・試掘の場所22ヵ所17人には2文~5文の冥加銭段取で納めるよう出願. 26

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28 天保一〇 1839

〔9.-〕 佐賀藩多久領焼米村石炭山,東低部を掘り尽し,西小谷北部に新間歩を出願.竜王堤へ悪水流入の危険がなければ見分の上許可する旨口達. 298

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29 天保一〇 1839

〔11.-〕 安芸賀茂郡竹原塩浜において,石炭使用の代償として,薪積出しの奥筋8ヵ村に従来渡していた償銀を36貫目渡し切りで以後償銀手切れ,双方和談成立(文化2年竹原塩浜に石炭導入以来度々浜方と奥筋村々紛糾.文化15年広島藩の裁定で毎年奥筋8ヵ村に銀7貫920匁償銀を出すことで,石炭使用全面許可). 717

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30 天保一〇 1839

この頃

■安芸豊田郡中野村塩浜にて石炭焚きに全部きりかわる. 717

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31 天保一一 1840

この年

▷佐賀藩武雄領で石炭業を同領の直営事業とし,煉瓦製造用として成瀬土場から積み出す(天保初年,花島から永島にわたる野間山に開坑). 700

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32 天保一一 1840

この年

▷湧水の多い長門中宇部の竪坑で,亀浦の人向田七右衛門・九十郎兄弟が南蛮(なんば)と称する水汲機械を発明100尺以上の掘さくが可能となる.のち長州南蛮と称して九州にまで普及. 31

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33 天保一一 1840

この年

▷周防三田尻宰判西ノ浦柳屋浜の塩田小作で,生産費15貫245匁6厘のうち石炭代4貫729匁7分4厘,労賃とともに高い比率(31%)を示す. 366

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34 天保一一 1840

この頃

■唐津炭田において,石炭問屋の買いたたきが行なわれ,石炭山は窮迫. 44

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35 天保一二 1841

〔閏1.-〕 佐賀藩多久領にて,久松清兵衛与(くみ)深町庄三郎,焼米村石炭運上不埓につき,出炭分を封印中,庄三郎手代進六勝手に封印を破り,下し方の者共数人にて浜出し,数百樽を中山菊太郎受け取り,同領当役より庄三郎に呵申付け科銀2枚,進六に永逼塞を申付ける. 298

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36 天保一二 1841

4

5

〔2.14〕 佐賀藩多久領において,焼米村善七外5人,農業の余力をもつて同村の石炭山を世話中,間歩普請と出水に存外の出費のため,元方そのほかが逃げ出し,諸筋借金かさみ,佐賀柳町武兵術に元利25両の借用手形を出したが返済不能のため,上訴となり同領当役より御呵り. 298

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37 天保一二 1841

〔8.-〕 広瀬淡窓,旭荘の浪華に帰るを送って赤馬関に遊ぶ.その日記に<魚臭及び石炭の気,満街鼻に薫ず>と見えている. 749

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38 天保一二 1841

〔8.-〕 肥前西松浦郡久原村字山ノ神にて開坑,稼行人同郡同村の中原善蔵(天保14年より安政6年頃まで盛況.万延1年より次第に衰え,慶応3年再興.明治1年~同6年の平均出炭高322万5600貫目). 153

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39 天保一二 1841

この年

▷周防三田尻浜(都濃宰判平田開作浜)の塩田自作で,塩業生産費12貫752匁9厘2毛のうち石炭代5貫148匁を占め.労賃とともに高い比率(40%)を示す. 366

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40 天保一三 1842

8

17

〔7.12〕 佐賀藩多久領長尾村新太郎は,同領志久村清水谷石炭山元方野口弥三右衛門らより相談をうけて.過分の炭を採掘,数艘廻船して積み出し,その上封印の炭を数拾樽売渡した罪により,新太郎は閉戸,野口弥三右衛門は閉門の上,科料銀3枚に処せられる. 298

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41 天保一三 1842

9

3

〔7.29〕 佐賀藩多久領下多久村磯右衛門は,同領志久村清水谷石炭掘方を出願して間もなく掘方さし留めとなり,そのままでは佐賀表借銀の返済に不都合が生ずるので多量に採炭し,御叱・閉戸・科料銀3枚に処せられる. 298

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42 天保一三 1842

〔11.-〕 肥前東松浦郡平山上村糸作,石炭採掘を出願. 44

【ページ】:16

43 天保一三 1842

〔11.-〕 肥前東松浦郡平山上村政吉・押川重太郎・同郡相知村理平ら,門地に炭置場設置のため,110匁村方へ納付. 44

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44 天保一三 1842

この年

▷阿片戦争('40年~'42年)の影響により英艦,長崎の中国船・蘭船より盛んに炭塊を購入. 357

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45 天保一三 1842

この年

*長門舟木宰判における出炭高,東高泊村および有帆村201万2592貫,逢坂村8万貫,舟木市村3万2000貫,東須恵村30万4000貫,際波村25万貫. 32

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46 天保一三 1842

この頃

■唐津藩,炭方役所を置く. 385

【ページ】:16

47 天保一三 1842

この頃

■肥前東松浦郡相知村の炭坑,ようやく盛んになる(寛政3年発見.安政5年~6年の1ヵ月出炭高200万斤を下らず). 149

【ページ】:16

48 天保一四 1843

1

6

〔12.6〕 佐賀藩多久領惣次郎・卯兵衛両名は同領高木川内石炭運上の月割納を数ヵ月分前納を怠り大仕切りの時期になって滞納金23両のうち15両だけの年賦を出願したが許されず,無調法の廉により逼塞を命ぜられる. 298

【ページ】:16

49 天保一四 1843

9

22

〔8.29〕 佐賀藩多久領長尾村秀司は,丑年秋(天保12年ヵ)志久・古賀両津元米請取りの際,似せ筈(偽の米切手)数拾石を作り,過分の金子を不正に取得,その他炭山での不正などもあり,永牢舎を申し付けられる. 298

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50 天保一四 1843

この年

▷讃岐林田地方塩田のうち,高屋浜,燃料として石炭を焚きはじめる. 691

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51 天保一四 1843

この年

▷佐賀藩有田代官丹羽久左衛門・山方里山方久米雄七,山代郷の住民に採炭をすすめたが,農民は炭坑よりの流水が田地を損うと苦情を唱え,藩庁にも不許可の議多く,久米雄七は代官所と村民の間に立ち説諭・斡旋し,藩庁にも論弁.藩主鍋島直正採炭を命じ,年限を定め試掘することとなる. 357

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52 天保一四 1843

この頃

■長門厚狭郡において330万600貫余を採掘,代銀160貫目,主として製塩用に供する. 31

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53 天保一二 1841

この頃(天保年代)

■宇部の石炭採掘は農民が共同出資して10月頃より田畠を掘り下げ1反歩ほどの炭層から採炭.翌年3月頃,田植前に田植に支障がないよう仕戻して田の持主に返却.俗に宇部田掘・笹山掘といわれた. 32

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54 弘化一 1844

2

11

〔12.23〕 佐賀藩多久領高木川内村八十次郎は唐津領笹原村で日雇に従事していた時の親方源蔵の娘志づが炭山に尋ねてきたのを留めおき,ひそかに佐賀表へ連れ出したりして領外者を数日逗留させた罪や博奕などの前科もあつて,2ヵ年の徒罪に処せられる. 298

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55 弘化一 1844

この年(または弘化2,3年)

▷≪舟木宰判風土注進案≫成稿.長門厚狭郡舟木宰判の石炭につき次の記述(計数は天保13年末ヵ).舟木市村-日雇駄賃・石炭駄賃徳銀23貫700目位.石炭2000振程,焚料.逢坂村-農間に石炭掘出し,村中焚料.石炭5000振程.東高泊村・有帆村-石炭掘出し売払渡世.石炭掘日雇駄賃約20貫765匁,石炭掘高約12万5887振.石炭問屋口銭約800目,代銀108貫176匁8分(1振平均8分6厘).西高泊村-石炭掘出し徳銀約456匁.東須恵村-農間に下品の石炭掘出し売払,渡世.石炭1万9000振程.徳銀15貫200目程.石炭掘賃徳銀10貫500目程.西須恵村-農間に石炭賃掘り売払,石炭売払・掘賃共代銀18貫800目程.水主働・石炭掘出し賃銭・奉公〓等取揚高銀64貫500目程.際波村-農間掘り出し,大概掘り尽し下品の炭,日用の余り売払い.石炭掘売1万6000振程,代銀9貫600匁.中野開作村・妻崎開作村-石炭問屋徳銀350目.宇部村・小串村-農間炭山日雇取り.石炭掘賃銀約5貫272匁. 690

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56 弘化二 1845

〔4.-〕 備前瑜伽山西屋おいて瀬戸内の諸浜所集会し,各浜の休浜日数を定め,塩・石炭の相場を時々通報することを申合せ. 366

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57 弘化三 1846

4

1

〔3.6〕 佐賀藩多久領吉岡要之助請山にて召使名儀で掘方中,下請の者達が引合金56両余をめぐり争論・刄傷に及んだため,請山替え,納金不足分は古請山毛上(収益)より取納.吉岡要之助は逼塞を命ぜられる. 298

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58 弘化三 1846

〔春〕 肥前山代郷において御仕組炭山一統取止め,間伏(まぶ)も封印.〔5月〕石炭の仕組取止めのため,旅炭日用高値となる. 26

【ページ】:20

59 弘化三 1846

この年

▷佐賀藩多久領多久原村弥平・十蔵,同領高木川内にて石炭採掘を許可される. 298

【ページ】:20

60 弘化四 1847

〔12.-〕 防長浜人42人,塩浜の凶作続き,石炭の入手困難,諸物価騰貴のため,三田尻浜より提案の三ツ割持(塩田を3分しうち1つだけ持塩,3日で全部を耕す法)採用を決議. 730

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61 弘化四 1847

9

4

〔7.25〕 佐賀点合町利平太,多久家家臣吉岡肇知行内石炭採掘を下請けし,資金繰りに困り未納金50両を支払えず,迷惑をかけた罪により,御呵り. 298

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62 弘化四 1847

この年

▷肥前東松浦郡平山下村字重介谷にて同村小野利平石炭発見(慶応1年同村渡辺孫平開坑,出炭高'74年65万斤,'75年35万斤,'76年250万斤,'77年140万斤,'78年190万斤,'79年220万斤,'80年180万斤,'81年150万斤,'82年90万斤,'83年80万斤). 153

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63 弘化四 1847

この年

▷肥前東松浦郡平山下村字高尾ノ谷にて,同村小野利平石炭発見(慶応1年開坑,稼行人同村小野芳作.'75年4月開坑,稼行人小野芳作.'77年10月開坑,稼行人同村井上安平.'79年10月開坑,稼行人同村井上千賀造). 153

【ページ】:22

64 弘化四 1847

この頃

■伊予喜多浜の主な石炭買入先は,若松・三池・松島炭であった. 127

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65 嘉永一 1848

11

25

〔10.30〕 佐賀藩多久領内高木川内石炭山の弥平・十蔵,多久領山方・物産方へ領内者の唐津炭運送方出稼禁止を出願,許可される(唐津浪瀬山に炭山が出来,往還筋で運送の便良く,領内者が出かけ,労働力不足のため). 298

【ページ】:22

66 嘉永一 1848

この年

▷肥前唐津地方の石炭山では生石100斤につき地賃1文・村益2文・役料1文宛村方へ渡す(焼石1俵当りも同様). 516

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67 嘉永一 1848

この年

▷英国海軍中尉ゴルドン,台湾基隆の炭層調査. 379/532

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68 嘉永二 1849

10

15

〔8.29〕 佐賀藩多久領福地鹿之助組帳内の北島覚左衛門,本藩国産方へ取入り,田地にさしつかえのため禁じられている南目石炭採掘を出願.その罰として,私領境より1里外追放に処せられる. 298

【ページ】:22

69 嘉永二 1849

この年

▷米国帆船ドルフィン号,台湾基隆に来航.乗組の士官,基隆炭に注目,台湾の一部占領を主張する者もいる. 379/532

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70 嘉永二 1849

この年

▷肥前東松浦郡梶山村石山元方七左衛門,七二銭1貫200目のほかに古手代・米9俵代・鯨油2丁代の合計銭151貫248文を拝借.正月より6回返納したが残銭49貫548文.同村石山元方太吉は七二銭1貫700目のほか古手代・米19俵・鯨油2丁代の合計銭240貫312文を拝借.正月より9月まで月々返納したが残銭148貫597文. 516

【ページ】:22

71 嘉永二 1849

この年

▷肥前山代郷楠久村作太郎,石炭を焼ガラに仕立て伊万里へ積出す. 26

【ページ】:24

72 嘉永二 1849

この頃

■唐津藩の代官三井令輔,相知の石炭開発に貢献. 44

【ページ】:24

73 嘉永三 1850

1

20

〔12.8〕 肥前東松浦郡梶山村にて石炭山・石出見分の御賄に七二銭20匁2分4厘および同銭101匁1分8厘入用. 516

【ページ】:24

74 嘉永三 1850

8

7

〔6.30〕 佐賀藩,鉄製鋳砲局を設置.〔7月〕より反射炉築造に着手. 183

【ページ】:24

75 嘉永三 1850

12

15

〔11.12〕 高取伊好,佐賀藩多久家家臣鶴田斌の三男として肥前多久領嫩〓にて出生.幼名生三郎. 167

【ページ】:24

76 嘉永三 1850

この年

▷唐津藩石炭問屋の米屋,押川山にて133万斤余,緑山にて106万斤の石炭を買い付ける. 44

【ページ】:24

77 嘉永三 1850

この年

▷清国駐在英国大使,共同経営による台湾基隆炭田の開坑を清国政府に要請.清国政府は,台湾一部住民の龍脈説(地下採掘を罪悪視する俗信)強く,騒乱惹起のおそれありとして拒絶. 379/532

【ページ】:24

78 嘉永四 1851

5

3

〔4.3〕 佐賀藩多久領別府上村辰右衛門,酉年(嘉永2年ヵ)に今津宿滞在中の熊蔵へ石炭売渡の約束で金8両を借用.その返済に困り,同領小侍村平助取引の綿をだまし取るなど不法を働き,15日の徒罪. 298

【ページ】:24

79 嘉永四 1851

5

3

〔4.3〕 佐賀藩多久領高木川内村石炭山元方の相浦武兵衛組足軽井上弥平・瀬田八左衛門組足軽中嶋十蔵両名は,筑前領の炭掘渡世人が病死した際,引取りをせずに,松浦郡御領笹原村の境目近所へ埋葬した廉により,御呵りをうける. 298

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80 嘉永四 1851

〔7.-〕 薩摩藩,城内動植物館に洋式製錬所創設,熔鉱炉の雛形を造る. 185

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81 嘉永四 1851

9

14

〔8.19〕 薩摩藩,反射炉の雛形を城内動植物館内御花園で試造. 185

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82 嘉永四 1851

12

18

〔11.26〕 佐賀藩多久領四下村安太夫(高木川内石炭山棟梁)は,多久町嘉平その他に柱取りをさせまた去夏にも大村領などの他国者が柱倒して逃亡した際,元方への届出を怠つた廉により逼塞を命ぜられる 298

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83 嘉永四 1851

12

18

〔11.26〕 佐賀藩多久領目付教官西在三郎は,同領高木川内村石炭山の年限満期につき,これまでの元方中島十蔵に談合すべきところを,新元方希望の富助に便宜をはかり,また西在三郎自身が炭山経営に関与の風評もあり,役目不届きにより,牢人・遠在引取慎みを命ぜられる. 298

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84 嘉永四 1851

この年

▷神永喜八,小津田地内(現茨城県)の塩平に初鍬入れ,小豆畑地内の芳の目に2つの坑口を開さくし塊炭300苞を磯原海岸より江戸に廻送(石炭1苞につき銭5文宛,村費補助金として差し出す). 225

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85 嘉永五 1852

5

28

〔4.10〕 佐賀藩反射炉完成. 182

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86 嘉永五 1852

8

1

〔6.16〕 佐賀藩多久領瀬田八左衛門被官の同領山犬原村瀬戸口源助,水ケ江滞在中,御三家方石炭仲継に便乗して数百俵の石炭を売却,代銭を不法取得した罪により,150日の徒罪に処せられ,石炭350俵代銭は一類に弁償を命ぜられる. 298

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87 嘉永五 1852

〔9.-〕 オランダ,蒸気船航行に必要な石炭の囲場建設を幕府へ勧告. 166/352

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88 嘉永五 1852

〔嘉永5年11月〕 佐賀藩,国産方の内に精煉方設置. 183

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89 嘉永五 1852

〔冬〕 薩摩藩,反射炉築造に着手.〔嘉永6年夏〕落成,石炭入手困難のため木炭(堅炭)を使用し,長焔が得られず操業困難. 185

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90 嘉永五 1852

この年

▷夏~冬薩摩藩,熔鉱炉築造に着手.〔安政1年7月頃〕竣工. 185

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91 嘉永五 1852

この年

▷播州赤穂藩にて,石炭問屋定法を定める.石炭売買の規則明細化. 4

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92 嘉永五 1852

この年

▷箱館奉行堀利熈,支配組頭上川伝一郎等を唐太(樺太)に遣わし,国境を見分.上川伝一郎,松前藩士今井九八郎を従え,〔5.29〕唐太白主を出発,ナツコ岬まで調査.途中ヲツノにて,ロシア人12人の石炭採掘を目撃. 584

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93 嘉永六 1853

1

19

〔12.10〕 播州赤穂藩,東西浜人・石炭問屋へ取引仕法を令達. 4

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94 嘉永六 1853

〔2.-〕 長州大島郡屋代村伊藤家,正銀6貫580目分の石炭を購入. 470

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95 嘉永六 1853

5

23

〔4.16〕 ペリーの旗艦サスケハナ号,上海を出航.〔4.19〕ペリー艦隊那覇へ入港. 466

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96 嘉永六 1853

6

14

〔5.8〕 ペリー,軍艦2艘を率いて小笠原二見港に入る.ついで,貯炭所用地を買収. 75

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97 嘉永六 1853

6

30

〔5.24〕 ペリーの旗艦サスケハナ,那覇で,終日石炭積込み作業(石炭船は上海より廻航). 466

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98 嘉永六 1853

7

2

〔5.26〕 ペリー,那覇を出航.〔6.3〕浦賀に来航.〔6.6〕江戸湾内小柴沖に進出.〔6.9〕ペリー,久里浜に上陸,大統領親書を幕府に手交. 466/17

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99 嘉永六 1853

7

12

〔6.7〕 幕府通訳香山栄左衛門,ペリー旗艦サスケハナにて蒸気機関を見物,そばにあった石炭を見て,日本でも平戸島・阿波・大和において産出すると述べる. 466

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100 嘉永六 1853

7

17

〔6.12〕 ペリー,明年を約し琉球に去る. 17

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