船橋市/船橋市デジタルミュージアム

年表一覧
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西暦    :       ~               
No 元号年 西暦年 事項文 備考 関連
1 明治29年 1896

2月10日

椿英夫とたけの三男(8人兄弟の4人目)として米沢市上花沢仲町2026番地(現米沢市東3丁目5番8号)に生まれる。

2 明治35年 1902

4月

【6歳】 花沢尋常高等小学校(現・米沢市立東部小学校)に入学。

3 明治41年 1908

4月

【12歳】 花沢尋常高等小学校高等部に進学。

4 明治43年 1910

3月

【14歳】 花沢尋常高等小学校高等部を卒業。

5 明治43年 1910

4月

県立米沢中学校(現・山形県立米沢興譲館高等学校)に入学。

6 明治45/大正元年 1912

11月16日~19日

紫星会第1回展(松岬館、米沢)に水彩画数十点を出品。

7 明治45/大正元年 1912

【16歳】 米沢在住の若手画家により水彩画のグループ・紫星会が結成され、中学在学中の椿も参加。

8 大正2年 1913

4月18日~22日

【17歳】 紫星会第2回展(米沢市会議事堂)開催。水彩画数十点を出品。

9 大正2年 1913

9月18日~24日

紫星会第3回展(米沢市会議事堂)開催。水彩画数十点を出品。

10 大正2年 1913

この年、中学校の3学年を留年。

11 大正3年 1914

3月

【18歳】 米沢中学校3学年を修了後、同校を退学。

12 大正3年 1914

9月

上京。代々木山谷の叔母の家に寄宿し、正則中学校に入学。上京時に親から与えられた学費の一部で油絵具を初めて購入する。

13 大正3年 1914

10月

岸田劉生作品展覧会(田中屋、京橋・東京:10月6日~15日)を偶然観て感動し、入門を決意する。

14 大正3年 1914

12月

冬休み米沢へ帰郷。劉生に手紙を書き、面会を申し込む。29日付の手紙で了承の返事をもらう。

15 大正4年 1915

1月2日~9日

【19歳】 劉生に見せるために《自画像》を制作。

16 大正4年 1915

1月14日

《自画像》などを持参し劉生宅を訪問。

17 大正4年 1915

1月15日

再び劉生宅を訪問、木村荘八を紹介される。この後、劉生から武者小路実篤も紹介され、椿は横堀を劉生に入門させる。

18 大正4年 1915

3月21日~4月10日

巽画会第15回美術展覧会(竹之台陳列館、上野・東京)に出品。4点入選したうち、《自画像》は二等賞を受賞(一等賞は該当作品なし)。

19 大正4年 1915

5月

叔母に父親を説得してもらい、正則中学を退学。画業に専念する。

20 大正4年 1915

10月17日~31日

現代の美術社主催第1回美術展覧会(読売新聞社、銀座・東京)に作品18点を出品。

21 大正4年 1915

この年、武者小路実篤を通じ長與善郎を知る。また、中川一政や高須光治たちとも知り合う。

22 大正5年 1916

4月1日~10日

【20歳】 草土社第2回美術展覧会(玉木美術店、銀座・東京)に《自画像》など作品8点を出品。椿は本展目録に草土社創立同人として名を連ねている。

23 大正5年 1916

11月11日~17日

第3回草土社展覧会(三会堂、赤坂・東京)に作品37点を出品。この会は入営が決まっていた椿の送別回顧展とされた。

24 大正5年 1916

12月

甲種合格で騎兵第2連隊(仙台)に入隊するが、既往症が判明し即日除隊となる。

25 大正6年 1917

2月10日~12日

【21歳】 草土社名古屋展覧会(愛知県商品陳列館)に作品5点を出品。

26 大正6年 1917

4月20日~26日

第4回草土社展覧会(玉木商会、京橋・東京)に作品17点を出品。

27 大正6年 1917

9月10日~30日

第4回二科美術展覧会(竹之台陳列館、上野・東京)に作品を出品。

28 大正6年 1917

12月15日~24日

草土社第5回美術展覧会(三会堂、赤坂・東京)に作品24点を出品。

29 大正6年 1917

12月15日~31日

流逸荘展(流逸荘、神田・東京)に作品20点を出品。この年長與善郎宅で夫人の妹である市川隆子に初めて会う。

30 大正7年 1918

1月~3月

【22歳】 米沢へ帰省。妹・八重子の肖像を数点描く。

31 大正7年 1918

3月

上京し、下落合に住む。

32 大正7年 1918

6月8日~9日

第6回草土社美術展覧会(会場不明、長野市)次いで長野県塩尻町でも開催(会場・会期不明)。

33 大正7年 1918

9月10日~30日

日本美術院再興第5回展覧会(竹之台陳列館、上野・東京)洋画部に《八重子像(酸漿を持てる少女の肖像)》など4点を出品。

34 大正7年 1918

12月14日~23日

草土社第6回美術展覧会(三会堂、赤坂・東京)に作品14点を出品。

35 大正7年 1918

この年から劉生に倣い、ローマ字ではなく漢字で署名するようになる。

36 大正8年 1919

5月19日

【23歳】 米沢大火。生家は焼失を免れたが、一時帰省する。

37 大正8年 1919

9月1日~29日

日本美術院再興第6回展覧会(竹之台陳列館、上野・東京)洋画部に作品2点を出品。

38 大正8年 1919

10月1日

雑誌『白樺』(第10年10月号)に自伝的小説「或家の出来事」を寄稿。(第11年1月号まで3回連載)。

39 大正8年 1919

10月頃

千駄ヶ谷に転居。

40 大正8年 1919

12月8日~17日

草土社第7回美術展覧会(三会堂、赤坂・東京)に作品13点を出品。

41 大正9年 1920

1月

【24歳】 代々木山谷に転居。

42 大正9年 1920

2月1日

妹・孝子とその娘・菊子(本名・喜久子)を伴い神奈川県鵠沼海岸に転居。

43 大正9年 1920

9月1日~29日

日本美術院再興第7回展覧会(竹之台陳列館、上野・東京)洋画部に《牡丹図》など6点を出品。

44 大正9年 1920

9月4日~6日

光原社第1回展(北端新築二階階上、米沢・山形)に賛助出品。同展は米沢市の青年画家たちにより構成された。

45 大正9年 1920

11月16日~20日

京都にて初めて個展(京都市商業会議所)を開催。

46 大正9年 1920

12月15日~24日

草土社第8回美術展覧会(三会堂、赤坂・東京)に作品17点を出品。

47 大正10年 1921

3月14日

【25歳】 劉生夫妻の媒酌で、市川隆子と結婚。

48 大正10年 1921

7月

『現代之美術』(7月号)が椿を特集。長與善郎、岸田劉生、木村荘八、中川一政がそれぞれ椿貞雄論を寄稿。

49 大正10年 1921

9月4日~6日(または7日~10日とする記録あり)

光原社第2回展(南置賜郡役所、米沢・山形)に賛助出品。

50 大正10年 1921

10月5日~9日

椿貞雄個人展覧会(流逸荘、神田・東京)に《横堀角次郎兄肖像》など35点を出品。十一屋呉服店(名古屋:10月21日~25日)に巡回。

51 大正10年 1921

この頃、劉生の影響で三味線や長唄を習うなど、東洋趣味に関心を持ち始める。

52 大正11年 1922

1月14日

【26歳】 春陽会の発会式に出席。梅原龍三郎の勧めによって椿、劉生、木村荘八、中川一政が同会の創立客員となる。

53 大正11年 1922

3月27日

長男・朱明が妻・隆子の実家(長野)で生まれる。

54 大正11年 1922

4月25日~30日

白樺主催椿貞雄個展(流逸荘、神田・東京)開催。

55 大正11年 1922

5月2日~6月上旬

山本顧彌太の依頼により武者小路実篤の肖像を描くため、宮崎の「新しき村」に赴く。

56 大正11年 1922

9月15日~17日

光原社第3回展(南置賜郡役所、米沢・山形)に作品4点を賛助出品。

57 大正11年 1922

11月4日~13日

草土社第9回美術展覧会(三会堂、赤坂・東京)に作品12点を出品。この会をもって草土社は自然消滅する。

58 大正11年 1922

12月16日

上戸塚伊勢原(高田馬場)に転居。

59 大正12年 1923

5月4日~27日

【27歳】 春陽会第1回展(竹之台陳列館、上野・東京)に作品11点を出品。

60 大正12年 1923

5月19日~20日

椿貞雄個展(若松市公会堂、福岡)開催。福岡への行き帰りの際、金閣寺、京都帝室博物館、法隆寺などを見学。

61 大正12年 1923

7月28日

家族を伴い米沢に帰省。

62 大正12年 1923

9月1日

関東大震災。劉生は神奈川県鵠沼海岸の自宅が半壊し、名古屋を経て10月に京都に移住。この震災によって雑誌『白樺』は前月の第14年8月号で終了となり、草土社は前年の第9回展をもって自然消滅した。

63 大正12年 1923

9月6日

自宅の状況を確認するために上京。大宮から徒歩で東京に入り、自宅の無事を確認する。

64 大正12年 1923

9月12日

自宅にあった作品を携え米沢に帰省。以後、翌年秋まで滞在。

65 大正12年 1923

9月15日~17日(または10月6日~9日とする記録あり)

光原社第4回展(米沢市医師会館)に賛助出品、『米沢新聞』に展評を執筆する。(展評を執筆したのみとの説あり)

66 大正12年 1923

10月14日~17日

椿貞雄油絵展覧会(米沢市医師会館)に作品30数点を出品。

67 大正12年 1923

10月27日~29日

毒地社第3回展(山形市役所)に招待出品。

68 大正12年 1923

11月20日~12月16日

日本美術展覧会(第二勧業館、岡崎・京都)に出品。銀牌と賞金一千円を受賞。

69 大正13年 1924

3月14日~23日

【28歳】 春陽会第2回展(三越、日本橋・東京)に作品を出品。

70 大正13年 1924

6月25日

長女・朝子が米沢で生まれる。

71 大正13年 1924

9月8日~11日

光原社第5回展(南置賜郡役所、米沢・山形)に賛助出品、『米沢新聞』に展評を執筆する。(展評を執筆したのみとの説あり)

72 大正13年 1924

9月

個展(会場不明、山形市内および米沢)を開催。

73 大正13年 1924

家族を伴い上京。下落合中井に住む。

74 大正14年 1925

3月6日~29日

【29歳】 春陽会第3回展(竹之台陳列館、上野・東京)に作品14点を出品。

75 大正14年 1925

4月12日~18日

春陽会名古屋展(愛知県商品陳列館)開催。

76 大正14年 1925

6月12日

春陽会上海支那美術学校主催美術展覧会が、世情の混乱のため延期。中国画研究の機会として渡航を希望していたが、家族や劉生の猛反対により思いとどまる。

77 大正14年 1925

12月5日

園池公致が椿に鎌倉の自宅を預ける。椿は一家を伴い鎌倉に移る。この年から、日本画(墨彩画)を描くようになる。

78 大正15/昭和元年 1926

1月19日

【30歳】 東京から鎌倉扇ヶ谷に転居。自宅を「遅々庵」と名付ける。

79 大正15/昭和元年 1926

2月26日~3月20日

春陽会第4回展(竹之台陳列館、上野・東京)に作品13点を出品。

80 大正15/昭和元年 1926

3月31日

山本鼎の紹介により船橋尋常高等小学校の図画教員(代用教員、尋常科勤務)となる。

81 大正15/昭和元年 1926

4月

長與善郎『菜種圃』(岩波書店)の装幀を担当。

82 大正15/昭和元年 1926

5月1日~6月10日

東京府美術館開館記念第1回聖徳太子奉讃会展覧会(東京府美術館)に出品。

83 大正15/昭和元年 1926

7月20日

検定を受け千葉県より小学校専科(図画科)正教員の免許を取得。

84 大正15/昭和元年 1926

9月6日

次女・夏子が生まれる。

85 大正15/昭和元年 1926

10月

武者小路実篤『生命に役立つ為に』(春秋社)の装幀を担当。

86 大正15/昭和元年 1926

11月

倉田百三『赤い霊魂』(岩波書店)の装幀を担当。

87 大正15/昭和元年 1926

12月4日~8日

七渉会第1回展(孚水画房、上野・東京)を開催。七渉会は椿を中心に米沢の若手画家7人で結成され、顧問に岸田劉生を迎えた。

88 昭和2年 1927

4月22日~5月15日

【31歳】 春陽会第5回展(東京府美術館)に作品7点を出品。

89 昭和2年 1927

6月

船橋町九日市に転居。

90 昭和2年 1927

6月

草土社の同人・河野通勢の後任として慶應義塾幼稚舎図画教員となる(船橋尋常高等小学校と兼任)。児童に油絵を教えようとしたが、校舎が汚れるというので中止になった。実業家の林彦三郎や曽田政治などの後援者を得る。

91 昭和2年 1927

9月

大調和美術展覧会参加のため春陽会を退会。

92 昭和2年 1927

11月15日~26日

第1回大調和美術展覧会(日本美術協会、上野・東京)に作品15点を出品。

93 昭和2年 1927

11月

武者小路実篤『運命と碁をする男』(岩波書店)の装幀を担当。

94 昭和2年 1927

この年の夏

気分転換のため鮒釣りを再び始める。県下の釣場はほとんど渉猟するほどの生涯の趣味となった。

95 昭和3年 1928

1月2日~8日

【32歳】 静岡県田方郡上多賀に写生旅行。

96 昭和3年 1928

3月1日~15日

大調和審査委員懐古展(新しき村会場、有楽町・東京)に作品を出品。

97 昭和3年 1928

3月18日

船橋尋常高等小学校の教え子が全国クレパス展で一等賞となり銀時計を授与され、父親が挨拶に来宅。椿は図画教師として面目を施したという。

98 昭和3年 1928

3月24日~31日

再び静岡県上多賀へ写生旅行に出かける。

99 昭和3年 1928

5月25日~27日

椿貞雄個展(新潟新聞社、新潟)に《入江(伊豆風景)》などを出品。

100 昭和3年 1928

6月

この頃、船橋尋常高等小学校と慶應義塾幼稚舎の掛け持ちに負担を感じ、月賦画会を計画する。画会の反応によっては船橋での職を辞すことを考える。