さいたま市立大宮図書館/おおみやデジタル文学館 ―歌人・大西民子―

年表一覧
年表1   年表2

西暦    :       ~               
No 元号年 西暦年 事項文 備考 関連
1 大正十三年
(一九二四年)
1924

五月

八日

○盛岡市八幡町に生まれる。本名菅野民子(かんのたみこ)。父佐介(明治二十一年七月七日生まれ)、母カネ(明治二十四年八月十日生まれ)の次女。四姉妹であった。父は盛岡警察署に勤務していた。
写真:「幼少期の民子」 「父・佐介」 「母・カネ」
「幼少期の民子」「父・佐介」「母・カネ」

2 昭和三年
(一九二八年)
四歳
1928

十二月

二十九日

○三女 菅野ケイ子生まれる。「お民さん」(「短歌研究」昭和六十一年一月)の中に「妹は佐代子と言った。佐介の四番めの娘……」とある。(五十四頁)。三番めの娘が居るはずである。よくよく調べてみたらケイ子と命名された三番目の娘が居た。(平成七年一月のこと)。

3 昭和四年
(一九二九年)
五歳
1929

一月

二十三日

○三女菅野ケイ子死去。(戒名不明)短い生涯だったので、民子にとっても一緒に生活したという記憶がないので、「子供時代の家族白書」にも「三人姉妹」と題し書いている。(「短歌研究」平成五年十月)

4 昭和六年
(一九三一年)
七歳
1931

四月

六日

盛岡市立城南尋常小学校入学。
写真:「小学校での陸上大会」
「小学校での陸上大会」

5 昭和六年
(一九三一年)
七歳
1931

九月

二十七日

○四女菅野佐代子生まれる。佐代子と一緒の職場に勤務していた方から、佐代子の本籍地をお聞きしたので『大西民子の歌と人生』の「略年譜」に掲載したが、「家族の本籍地かどうかわからない」とのことであったので、民子と佐代子の本籍地を調べたが、見当たらなかったので、今回ここから省いた。
写真:「妹・佐代子」
「妹・佐代子」

6 昭和十一年
(一九三六年)
十二歳
1936

六月

十六日

○長女菅野サト(大正四年十月十七日生まれ)が藤根敏夫と結婚。

7 昭和十一年
(一九三六年)
十二歳
1936

十一月

一日

第十回県下学童陸上競技大会で総合優勝した。女子が優勝、男子は三位であった。民子はバスケットボールを遠くまで投げるボール投げで二位となった。

8 昭和十二年
(一九三七年)
十三歳
1937

三月

二十五日

○盛岡市立城南尋常小学校卒業。卒業式の席上、成績優等受賞者として市長賞を受賞した。

9 昭和十二年
(一九三七年)
十三歳
1937

四月

五日

○岩手県立盛岡高等女学校入学。成績一番で入学、入学式で答辞を述べた。天神山の啄木の歌碑を読み、関心が高まり、この頃から歌を作るようになった。
写真:「高等女学校時代」
「高等女学校時代」

10 昭和十三年
(一九三八年)
十四歳
1938

一月

二十七日

○藤根家に嫁いでいた長女サト死去。(享年二十二歳)

11 昭和十六年
(一九四一年)
十七歳
1941

三月

十九日

○岩手県立盛岡高等女学校卒業。

12 昭和十六年
(一九四一年)
十七歳
1941

四月

十日

奈良女子高等師範学校文科第一部(国漢専攻)に入学(第三十三期生)。寄宿舎に入る。国文学の専攻生は十三人であった。
〝明治文学史を岩城準太郎教授、国文法を木枝増一教授に学ぶ。
『石の船』(昭和五十一年五月 短歌新聞社)の「大西民子略年譜」より。
歴史学を佐藤小吉教授に学んだ。(詳しくは「ある日 あの時」の「女高師時代のこと」を参照)。〟
写真:「師範学校時代」
「師範学校時代」

13 昭和十六年
(一九四一年)
十七歳
1941

「歌ひとすじ」(「北の文学」昭和五十八年十一月)によると、「この年前川佐美雄に会う」とある。

14 昭和十八年
(一九四三年)
十九歳
1943

三月

大西 博 埼玉県立浦和中学校卒業(現浦和高等学校)。同級生の熊谷理治「民子さんの思い出」(『大西民子の歌と人生』より。)

15 昭和十九年
(一九四四年)
二十歳
1944

九月

三十日

○第三十三回奈良女子高等師範学校文科卒業。卒業生は、文科二十六人(このうち国文学専攻生は十三人)理科三十一人、家事科三十八人、計九十五名であった。
昭和十七年から昭和二十年まで九月三十日が卒業式の日であった。
(『奈良女子大学六十年史』より。)
写真:「師範学校の学友と共に」
「師範学校の学友と共に」

16 昭和十九年
(一九四四年)
二十歳
1944

九月

三十日

高等女学校の修身、国語、歴史の免許状を文部省より下附された。(音楽の免許状はない。)

17 昭和十九年
(一九四四年)
二十歳
1944

十月

二十五日

岩手県立釜石高等女学校(後釜石第二高校その後釜石南高校)に赴任する。
写真:「教師時代」
「教師時代」

18 昭和二十年
(一九四五年)
二十一歳
1945

一月

五日

父・佐介死去(享年五十六歳)
戒名「法性院薫與浄真居士」。
「死亡届」によると、昭和二十年一月五日午前一時死亡とある。墓石を見ると昭和二十年一月四日とあるが「届け出」に拠った。

19 昭和二十年
(一九四五年)
二十一歳
1945

七月

当時釜石には、日鉄釜石製鉄所があり、米軍の攻撃目標となり、艦砲射撃によって壊滅状態となった釜石をのがれた。〝一年生を先ず疎開させることとなり、三組の百五十人、担任の三人で引率して遠野市へ向った。鉱石を運ぶのに作られたのだという鉄道もとうに爆破されていて、四十粁ほど歩くしかなかった。「私の八月十五日」(「短歌」平成三年八月)より。〟

20 昭和二十年
(一九四五年)
二十一歳
1945

九月

大西 博、仙台工業専門学校機械工学科卒業。

21 昭和二十年
(一九四五年)
二十一歳
1945

十月

大西 博、岩手県立釜石工業高等学校教諭となる。

22 昭和二十一年
(一九四六年)
二十二歳
1946

一月

一日

関 登久也主宰「歌と随筆」が創刊される。「作品2」に「近詠」と題し三首。寄付者芳名欄に「一金 二十円也 岩手県菅野民子」とある。

23 昭和二十一年
(一九四六年)
二十二歳
1946

十一月

一日

「高等文官試験」を受験したが合格叶わなかった。六日間にわたり七課目、女性は七十名中ただ一人だった。「高文受験」には、関心が高かったようで、昭和二十二年一月の「歌と随筆」に「高文前後」と題し六首、昭和二十二年九月「蔗境」創刊号に「高文」と題し三首掲載されている。

24 昭和二十一年
(一九四六年)
二十二歳
1946

十一月

一日

前川佐美雄編集「オレンヂ」が創刊される。「同人作品2」に「無題」三首。

25 昭和二十一年
(一九四六年)
二十二歳
1946

十一月

二十七日

「新岩手日報」の「家庭と女性」欄に随筆「高文を受験して」が掲載される。(筆者は釜石高女校教諭)とある。

26 昭和二十二年
(一九四七年)
二十三歳
1947

三月

大西 博と結婚生活に入る。

27 昭和二十三年
(一九四八年)
二十四歳
1948

一月

男子を早死産。戒名「開祥孩子」。〝その日が何日であったかは、菩提寺の位牌にもなぜか書いていない。昭和二十三年一月とのみである。
北沢郁子「わざわいは怖るる者に」(『回想の大西民子』平成九年十一月砂子屋書房)〟
このあと、尿毒症による網膜剥離により半盲の状態で七月まで病床にあった。

28 昭和二十三年
(一九四八年)
二十四歳
1948

十一月

十三日

○埼玉県立文化会館開館。初代館長下地惠常。(「埼玉文化」を調べて行ったら、「文化会館」の経緯、開館の日のことがわかった。)

29 昭和二十四年
(一九四九年)
二十五歳
1949

二月

大宮市(現さいたま市)に移り住む。(夫・博が恩師を頼って新天地を大宮市に求めた。)
夫にひきずられるようにして大宮に移り住んだのは、昭和二十四年二月、私が二十五歳のころであった。(中略)
(『自解100歌選大西民子集』の「あとがきにかえて」(昭和六十一年四月牧羊社)より。以上『自解100歌選』)

30 昭和二十四年
(一九四九年)
二十五歳
1949

埼玉県教育委員会埼玉県立文化会館勤務となった。夫の恩師下地(しもじ)先生が文化会館の館長であった。
〝夫はともかく私の方は予定に入っていなくて、主事の空席がなく嘱託職であった。〟
「波止場から」(「短歌時代」平成六年二月)。
この時、浄国寺の川端信明(しんみょう)師が同じ職場にあった。『埼玉県教育要覧』(昭和二十五年三月二十日発行)によると、川端信明は主事、大西民子は雇であった。
〝大西さん達が寺に住むことになったきっかけは、御前(主人・川端信明師)が県立文化会館に勤務していた頃、同僚であったところから、寺においでになったのです。〟
川端たけ乃「寺に住まれた頃のこと」(『大西民子の歌と人生』より。)
写真:「県立文化会館講座室」 「県立文化会館と民子」 「文化会館前にて」
「県立文化会館講座室」「県立文化会館と民子」「文化会館前にて」

31 昭和二十四年
(一九四九年)
二十五歳
1949

四月

一日

大西民子が「文化会館」にて文化関係事務を担当した。(昭和四十三年四月一日、教育局社会教育課に「文化係」が設置され、「文化会館」で行われていた文化関係事務が移管されるまで、十九年間、民子が担当した。)

32 昭和二十四年
(一九四九年)
二十五歳
1949

九月

一日

高等学校二級普通免許状、国語、修身、歴史が埼玉県教育委員会から下付された。

33 昭和二十四年
(一九四九年)
二十五歳
1949

十月

一日

○夫・博、教育局秘書室に異動となる。(夫婦別々の職場となる。)『職員名簿』で調べていただいた。『埼玉県教育要覧』も参考にした。

34 昭和二十四年
(一九四九年)
二十五歳
1949

十月

木俣修に何度も手紙を書いて送り、入門を願い出、入門を許された。
写真:「師・木俣修」
「師・木俣修」

35 昭和二十四年
(一九四九年)
二十五歳
1949

十一月

一日

木俣修の指導の下にあった岩上とわ子主宰の「朱扇」が創刊された。

36 昭和二十五年
(一九五〇年)
二十六歳
1950

一月

二十八日

埼玉県文化団体連合会が設立される。事務担当大西民子。

37 昭和二十五年
(一九五〇年)
二十六歳
1950

三月

十五日

○菅野佐代子、岩手県立高田高等学校卒業。(佐代子と当時同じ職場に勤務していた方から十五日であったそうだ、とお聞きした。)(平成七年一月のこと)

38 昭和二十五年
(一九五〇年)
二十六歳
1950

五月

二十日

「埼玉文化月報」が創刊された。編集発行人下地惠常。第十四号(昭和二十七年三月二十日)まで。人事異動により交代。民子は「埼玉文化月報」並びに郷土資料、人物誌等の刊行、万葉植物園の運営管理などを担当した。「埼玉文化月報」は県内の文化人や文化団体の連絡、広報紙であった。
写真:「万葉植物園1」 「万葉植物園2」
「万葉植物園1」「万葉植物園2」

39 昭和二十六年
(一九五一年)
二十七歳
1951

二月

一日

○妹・佐代子埼玉県立埼玉図書館に「雇」として採用された。(昭和三十年三月三十一日まで)
(当時、佐代子と同じ職場に勤務していた方から、平成七年一月に、「二月一日」の採用だった、とお聞きしたので掲載した。『埼玉県教育要覧』によって職名が「嘱託」でなく「雇」であったことがわかった。)

40 昭和二十六年
(一九五一年)
二十七歳
1951

三月

三十一日

埼玉県立図書館設置条例制定、館名を埼玉県立図書館と改称。(この日以前は埼玉県立埼玉図書館であった。)『埼玉県立浦和図書館50年誌』による。

41 昭和二十七年
(一九五二年)
二十八歳
1952

五月

一日

○夫・博、埼玉県立図書館勤務となる。博と同じ日に図書館勤務となった方からお聞きした。昭和二十七年であること、『埼玉県教育要覧』で確認した。(『大西民子の歌と人生』に昭和二十八年五月とあるのは私の誤記。)

42 昭和二十八年
(一九五三年)
二十九歳
1953

二月

二十日

「埼玉文化月報」第二十四号の「編集後記」に(T・O)とあり、この号からT(民子)・O(大西)と担当者の頭文字が記載された。

43 昭和二十八年
(一九五三年)
二十九歳
1953

四月

○妹・佐代子、埼玉大学文理学部文学科入学(この時、佐代子は埼玉県立図書館に勤務していたこと、同じく勤務していた方からお聞きした。)

44 昭和二十八年
(一九五三年)
二十九歳
1953

五月

一日

木俣修主宰「形成」が創刊される。創刊号の「新人作品その2」に「風の音」と題し七首。
写真:「形成」
「形成」

45 昭和二十九年
(一九五四年)
三十歳
1954

九月

二十六日

埼玉県歌人会の発起人会発足、事務局を文化会館に置き、大西民子が事務を担当することになった。

46 昭和二十九年
(一九五四年)
三十歳
1954

十月

二十日

この日の「埼玉新聞」一面の中に、小見出し「県職員の昇任試験」とあり、「試験は、今年中に実施すべく人事委員会で検討している。」という記事がある。
このことについて、「波止場から」(短歌現代)の中に、〝昭和二十九年、県庁初めてという昇任試験が行われ、三千人(ママ)が受けたが幸い通って任官、思わぬ退職金がころがりこんだ。〟とある。いつ試験が実施されたか不明である。

47 昭和二十九年
(一九五四年)
三十歳
1954

十月

二十一日

埼玉県歌人会が発足する。初代会長小笠原文夫、事務局担当大西民子。

48 昭和三十年
(一九五五年)
三十一歳
1955

七月

十日

「参考事務ニュース」が創刊される。(ガリ版)。これは、参考事務係長であった大西博が担当。図書館と閲覧者を結ぶ往復書簡であった。関根敬一郎「菅野民子さんへのオマージュ」の中にも書かれている。(『大西民子の歌と人生』の中にある。)

49 昭和三十年
(一九五五年)
三十一歳
1955

十月

一日

一日発行の『埼玉県教育要覧』によると民子の職名は「嘱託」であった。

50 昭和三十一年
(一九五六年)
三十二歳
1956

四月

一日

第一歌集『まぼろしの椅子』を新典書房より出版。

51 昭和三十一年
(一九五六年)
三十二歳
1956

六月

十日

「参考事務ニュース」十五号から活字となる。

52 昭和三十二年
(一九五七年)
三十三歳
1957

三月

二十九日

○妹・佐代子、埼玉大学文理学部文学科卒業。外国語(英語)の免許状を文部省から下付された。

53 昭和三十二年
(一九五七年)
三十三歳
1957

四月

一日

埼玉県立文化会館内に付属郷土館が開館された。この郷土館に故長井五郎(元埼玉県教育長)と故柳田敏司(元埼玉県考古学会会長)が週一日ずつ学芸員として勤務、事務を担当したのが大西民子。柳田敏司「大西さんのこと」(『大西民子の歌と人生』)より。

54 昭和三十四年
(一九五九年)
三十五歳
1959

四月

三十日

○夫・埼玉県立図書館参考事務係長を最後に退職。(年度末の三月三十一日ではなく、四月であった。と同じ職場に勤務していた方からお聞きした。)『埼玉県教育要覧』(昭和三十四年十月一日発行)によると、参考事務係長「欠」とあり、空席であった。

55 昭和三十五年
(一九六〇年)
三十六歳
1960

四月

二十一日

岩槻市(現さいたま市)浄国寺内の住いにて母・カネ死去。(享年六十八歳)
戒名「普光院誓譽妙観大姉」。
写真:「母と妹」
「母と妹」

56 昭和三十五年
(一九六〇年)
三十六歳
1960

九月

二十日

『現代新鋭歌集』(東京創元社)に参加、「冬の箴言」と題し九十首収録。二十四名の歌人による。

57 昭和三十五年
(一九六〇年)
三十六歳
1960

十一月

三十日

第二歌集『不文の掟』を四季書房より出版。「後記」に「いっそのこと『続まぼろしの椅子』とでも名づけるのがふさわしいように思います。」とあるが、実際は、『不文の掟』と『夕占』と二冊の原稿が作成されてあったのを大西さん宅で資料を整理中、気がついた。原稿はすべて新聞紙に包んであった。

58 昭和三十五年
(一九六〇年)
三十六歳
1960

この年、日本歌人クラブ幹事となる。(昭和三十六年まで)

59 昭和三十六年
(一九六一年)
三十七歳
1961

二月

二十七日

『不文の掟』の出版を祝し、著者を激励する会が明治記念館で開催された。当日は月曜日であった。
写真:「不文の掟出版記念会1」 「不文の掟出版記念会2」
「不文の掟出版記念会1」「不文の掟出版記念会2」

60 昭和三十六年
(一九六一年)
三十七歳
1961

四月

一日

「ふるさとの歌」を「朝日新聞」埼玉版、題字下に連載、四月一日から昭和三十七年三月三十一日まで。第一回は新聞社による執筆者紹介、第二回は、はじめに(本人による執筆方針)、第三回から第三百六十回まで、毎回歌一首とその解説、約二百五十字、休刊日を除く毎日。

61 昭和三十六年
(一九六一年)
三十七歳
1961

四月

『不文の掟』が昭和三十六年度日本歌人クラブ推薦歌集(昭和四十九年、日本歌人クラブ賞と改称)になった。

62 昭和三十七年
(一九六二年)
三十八歳
1962

四月

○この月から「朝日新聞」埼玉版、歌壇選者となる。

63 昭和三十七年
(一九六二年)
三十八歳
1962

七月

一日

「さくら草文庫」が創刊される。編集者・埼玉県立図書館、母親読書室。発行所も同じ。第二号から編集者・発行所、埼玉県立図書館。

64 昭和三十八年
(一九六三年)
三十九歳
1963

四月

二十七日

二十八日の両日、現代短歌シンポジューム(豊島園ホールにて)に佐々木幸綱氏ら七名と参加、テキストとして「椿一本」二十首がある。

65 昭和三十八年
(一九六三年)
三十九歳
1963

九月

二十八日

埼玉県立春日部高校にて「短歌の創作について」と題し講演。

66 昭和三十九年
(一九六四年)
四十歳
1964

六月

二十日

大西博と協議離婚。
「白い靴」心の摘み草(42)(「新世」 昭和五十八年六月)の中に、〝昭和三十九年の六月のある日、夫は私の職場に訪ねてきた。二人で向き合ったとき、夫が最初に言った言葉は「十年もたったのだから、正式に離婚してほしい」という申し入れであった。(中略)
私は大西という彼の姓をそのままペンネームに使わせてもらうことだけを条件に、離婚に応ずることにした。(中略)〟とある。また、
「秋篠の人」(「うた」 昭和五十三年一月)創刊号の中には、〝一番びっくりしたのは、夫からもらった手紙の三通である。とにもかくにも十年間、帰りを待ちつづけていた妻に向って、繰り返し離婚を迫った夫の手紙……。(中略)〟
最後に(昭和五十二年十一月十三日記)とある。

67 昭和三十九年
(一九六四年)
四十歳
1964

八月

十八日

埼玉県立文化会館の公舎に移る。(大宮市高鼻町四ノ二一九番地)この日手続をした。

68 昭和四十年
(一九六五年)
四十一歳
1965

五月

前年五月に掲載された「季冬日々」により第三回短歌研究賞を受賞する。(昭和三十八年が第一回)

69 昭和四十年
(一九六五年)
四十一歳
1965

六月

二十六日

尾崎磋瑛子、北沢郁子、馬場あき子、山中智恵子、と共に女流五人集『彩』(新星書房)に参加、「かたちなき岩」と題した九十首収録。

70 昭和四十一年
(一九六六年)
四十二歳
1966

七月

八日

第三歌集『無数の耳』を短歌研究社より出版。

71 昭和四十二年
(一九六七年)
四十三歳
1967

一月

十二日

宮中歌会始の儀に倍聴のお召しがあった。「月曜放談」(「埼玉新聞」 昭和四十五年一月十九日)の中にある。

72 昭和四十三年
(一九六八年)
四十四歳
1968

四月

一日

埼玉県立文化会館にあった文化関係事業が埼玉県教育局社会教育課に移管となった。

73 昭和四十三年
(一九六八年)
四十四歳
1968

四月

一日

○埼玉県教育局社会教育課庶務係主任(埼玉県立図書館勤務)となった。主任(図書館)と調べていただいたので( )とした。

74 昭和四十三年
(一九六八年)
四十四歳
1968

七月

一日

建売住宅を購入し大宮市堀の内一丁目五四九の五の地に移り住む。

75 昭和四十三年
(一九六八年)
四十四歳
1968

十一月

三日

「文芸埼玉」が創刊される。創刊号に「鳥となりても」と題し十首。

76 昭和四十四年
(一九六九年)
四十五歳
1969

四月

一日

○埼玉県立図書館館内奉仕課整理係主任となる。(『大西民子の歌と人生』では整理係のみであったが奉仕課を入れた。)

77 昭和四十四年
(一九六九年)
四十五歳
1969

四月

大野誠夫に代って「文芸埼玉」の編集委員となる。(この年のみ)

78 昭和四十四年
(一九六九年)
四十五歳
1969

六月

一日

埼玉県文化団体連合会理事に就任。(昭和五十年六月六日まで)以下「埼文連」。

79 昭和四十四年
(一九六九年)
四十五歳
1969

十月

十六日

埼玉文学賞(埼玉新聞社創立二十五年を記念して創設)の選考委員となる。(社団法人埼玉新聞社は、昭和十九年十月十六日創刊号を発行)。

80 昭和四十四年
(一九六九年)
四十五歳
1969

十一月

十日

書きおろし合同歌集『歌集現代』に参加、「青のストール」と題し百五十首収録。

81 昭和四十五年
(一九七〇年)
四十六歳
1970

二月

五日

「さくら草文庫」八号に「短かき釘」と題し七首掲載。署名大西民子、勤務先を七首目の後に(県立図書館)と明記。この時点では、「県立浦和図書館」という名称の「図書館」はありません。

82 昭和四十五年
(一九七〇年)
四十六歳
1970

三月

三十日

「県立図書館設置条例」改正により県立浦和図書館と改称。

83 昭和四十五年
(一九七〇年)
四十六歳
1970

四月

一日

この日から埼玉県立浦和図書館として業務開始。引き続き県立浦和図書館に勤務。参考事務係に館内異動。(埼玉県立浦和図書館は平成二十七年三月三十一日閉館。現在、埼玉県立熊谷図書館浦和分室が設けられている。)

84 昭和四十五年
(一九七〇年)
四十六歳
1970

十月

八日

「埼玉新聞」の選者が交代となる。短歌担当の大西民子の歌壇は十二月からとなった。

85 昭和四十六年
(一九七一年)
四十七歳
1971

四月

岡井隆氏、佐佐木幸綱氏ら五人と共に『現代短歌作品集』(短歌新聞社)の編集を担当。(「短歌新聞」創刊二百号を記念して刊行)。

86 昭和四十六年
(一九七一年)
四十七歳
1971

六月

二十日

第四歌集『花溢れゐき』を短歌新聞社より出版。

87 昭和四十六年
(一九七一年)
四十七歳
1971

☆この年、家族の一員であった愛犬・ローリエが死去。
写真:「ローリエ」
「ローリエ」

88 昭和四十七年
(一九七二年)
四十八歳
1972

四月

一日

埼玉県立浦和図書館館内奉仕課参考事務係長となる。
写真:「1972年・48歳の頃」
「1972年・48歳の頃」

89 昭和四十七年
(一九七二年)
四十八歳
1972

四月

「短歌」に「シリーズ 今日の作家〈大西民子〉」が特集される。
「木などになれず」と題し新作二十五首
大西民子 自選五十首が掲載される。
妹・菅野佐代子が「わが家のシレーヌ――大西民子の素顔――」と題して執筆した。

90 昭和四十七年
(一九七二年)
四十八歳
1972

六月

四日

妹・佐代子が心臓麻痺で急逝(享年四十歳)
戒名「紫雲院念譽妙香大姉」。
妹と二人暮らしであったが、妹の死によってすべての肉親を失う。亡くなる日のことは、「最後の日」(「俳句」昭和四十七年一月)にある。
写真:「佐代子」 「民子と佐代子」
「佐代子」「民子と佐代子」

91 昭和四十七年
(一九七二年)
四十八歳
1972

九月

墓石の「表」菅野家之墓、「裏」昭和四十七年九月 施主 菅野民子

92 昭和四十八年
(一九七三年)
四十九歳
1973

四月

大野誠夫のあとを受けて「文芸埼玉」の編集委員となる。(第十号昭和四十八年十月三十日発行から第二十三号昭和五十五年三月三十一日まで)

93 昭和四十八年
(一九七三年)
四十九歳
1973

九月

大野誠夫のあとを受けて「埼玉文芸賞」の選考委員となる。

94 昭和四十九年
(一九七四年)
五十歳
1974

六月

一日

「燎原」の創刊号に「木の一部分」と題し八首。

95 昭和四十九年
(一九七四年)
五十歳
1974

十月

二十五日

昭和四十九年度公民館文学講座「埼玉の文学めぐり」に「歌と私と埼玉」と題し講義した。このレジュメの中に、〝現在第五歌集と随筆集を同時に出す計画で準備を進めているが……。〟とあるが、生前随筆集は出版されなかった。

96 昭和五十年
(一九七五年)
五十一歳
1975

四月

一日

埼玉県立浦和図書館館内奉仕部専門員兼参考事務課長となる。

97 昭和五十年
(一九七五年)
五十一歳
1975

四月

二十五日

第五歌集『雲の地図』を短歌新聞社より出版。

98 昭和五十年
(一九七五年)
五十一歳
1975

六月

七日

「埼文連」常任理事に就任。(平成元年六月二十六日まで)

99 昭和五十年
(一九七五年)
五十一歳
1975

六月

二十七日

昭和五十年度現代歌人協会理事となる。(昭和五十一年度まで)

100 昭和五十一年
(一九七六年)
五十二歳
1976

五月

十五日

現代歌人叢書の一冊、自選歌集『石の船』を短歌新聞社より出版。