札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

年表一覧
年表1   年表2

西暦    :       ~               
No 元号年 西暦年 事項文 備考 関連
1 康正2(丙子) 1456

東部のアイヌ,蜂起.この年春に東部志濃里(しのり)鍛冶屋村の鍛冶(和人)と注文主のアイヌ少年とマキリの価格について口論となり,鍛冶がアイヌ少年を殺害したことが原因(以後,大永5年までアイヌ,連続的に蜂起.そのため太平洋沿岸は鵡川,日本海沿岸は余市に至る間の居住和人の村里は滅亡,居住範囲は天の河と大館に縮小).

【関連】:第1巻p362
【出典資料番号】:1 2

2 長禄1(丁丑) 1457

5

14

首長コシャマインに率いられたアイヌ,志濃里・箱館・中野・脇本等各和人館たてを攻略,12の館のうち残った下の国の守護茂別館主下国家政と上の国の守護花沢の館主蠣崎季繁は反撃に転じた.長禄2年,コシャマイン父子をはじめ多数のアイヌは討たれる.

【関連】:第1巻p362
【出典資料番号】:1 2

3 文明3(辛卯) 1471

夏から秋にかけてアイヌ蜂起や疾病・風災・飢饉が重なり,アイヌ・和人共に死者多数をだす.

【関連】:
【出典資料番号】:1

4 永正9(壬申) 1512

4

16

宇須岸(うすけし)・志濃里・与倉前(よつくらまえ)の3館,アイヌの攻撃により陥落(『松前年代記』・『松前志』によれば永正8年4月16日),館主ら自害.

【関連】:第1巻p363
【出典資料番号】:2

5 永正10(癸酉) 1513

6

27

大館,アイヌの攻撃にあい陥落.大館館主ら自害.

【関連】:第1巻p363
【出典資料番号】:2

6 永正11(甲戌) 1514

3

13

蠣崎義広,父光広とともに小船180余隻を率いて上の国(勝山館)より大館に進出.蠣崎光広より檜山の安東氏に大館占拠と「松前之守護職」承認を得るため使者を派遣,3度目の使者により蝦夷島を義広に預ける旨の判形を得る.よって諸国より渡来の商船旅人より年俸を徴収しその過半を檜山に上納.蠣崎氏,事実上の館主の統一者となる.

【関連】:
【出典資料番号】:2

7 永正12(乙亥) 1515

アイヌ蜂起.6月22日蠣崎光広謀略をめぐらし,蜂起計画のアイヌ首長ショヤ・コウジ兄弟らを徳山館内に招き入れ,1人残らず殺害.

【関連】:
【出典資料番号】:2

8 大永5(乙酉) 1525

東西両道のアイヌ蜂起,多数の和人死亡.生き残った者は天の河と徳山に集住.

【関連】:第1巻p362
【出典資料番号】:3

9 享禄2(己丑) 1529

西部のアイヌ首長タナサカシ,瀬田内に出陣,蠣崎義広派遣の工藤九郎左衛門祐兼を破り西部の本拠地上の国を攻撃.タナサカシ,蠣崎義広に殺害され,残りのアイヌも敗北.

【関連】:
【出典資料番号】:3

10 天文5(丙申) 1536

西部の首長タリコナ,妻の怨訴に動かされて舅タナサカシの仇を討つために蜂起.6月23日タリコナ夫妻,講和とみせかけた蠣崎義広の誘いにより城中にて殺害.これ以降,東西蝦夷地静謐に帰し,アイヌ蜂起がみられなくなったという.

【関連】:
【出典資料番号】:2

11 天文19(庚戌) 1550

6

23

檜山の下国安東舜季(きよすえ),国状を見るため徳山に来る.

【関連】:
【出典資料番号】:2 47

12 天文20(辛亥) 1551

この年

蠣崎季広,東西のアイヌと講和し,瀬田内のハシタインを西夷の首長に,志利内のチコモタインを東夷の首長とし,諸国より渡来の商賈しょうこから年俸を徴収,「夷役」と称して両首長に配分(『松前家記』などが商賈を商船と記しているので,この年俸を沖の口税的なものとする見解がある),アイヌの商船の往来と蠣崎氏との交易方式を制定(『新羅之記録』から,これを天文19年との見解あり).

【関連】:第1巻p363
【出典資料番号】:2

13 永禄8(乙丑) 1565

1

10

日本在留のイエズス会宣教師ルイス・フロイス,西暦1565年2月20日付にてインドのゴアの本部に報告書を送り,ヨーロッパに初めてアイヌ及び蝦夷地を紹介.

【関連】:
【出典資料番号】:4

14 元亀2(辛未) 1571

9

18

イエズス会宣教師ガスパル・ビレラ,西暦1571年10月6日付にてゴアより本国ポルトガルへ書簡を送り「此国民(アイヌ)はデウスを知らず太陽を拝せりと云ふ.我等の心を恩寵を以て輝し給ふ真の太陽なる我等の主基督の教に依りて彼等の輝さるゝ時来るべし」と蝦夷地布教の意志を示す.

【関連】:
【出典資料番号】:4

15 天正1(癸酉) 1573

7

18

足利義昭,織田信長に降り,室町幕府滅亡.

【関連】:
【出典資料番号】:104

16 天正18(庚寅) 1590

12

29

蠣崎慶広,聚楽第において初めて豊臣秀吉に拝謁.全国統一政権の力が道南に及び始める.

【関連】:第1巻p363
【出典資料番号】:5

17 天正18(庚寅) 1590

この年

豊臣秀吉,北条氏を撃ち,関東・東北を平定.

【関連】:
【出典資料番号】:1 2

18 文禄2(癸巳) 1593

1

6

蠣崎慶広,豊臣秀吉より朱印状(1月5日付)を授けられ,松前(和人地)での交易独占者としての地位を保証される.

【関連】:第1巻p363
【出典資料番号】:1 2

19 慶長3(戊戌) 1598

8

18

豊臣秀吉,死去.

【関連】:
【出典資料番号】:104

20 慶長4(己亥) 1599

11

7

蠣崎慶広,大坂城西丸で徳川家康に地図および系図を差し出す.この時より蠣崎氏を改めて松前氏を名乗る.

【関連】:第1巻p364
【出典資料番号】:1

21 慶長8(癸卯) 1603

2

12

徳川家康,征夷大将軍に任じられ,江戸幕府を開く.

【関連】:
【出典資料番号】:6

22 慶長9(甲辰) 1604

1

27

松前慶広,徳川家康より黒印状を授けられ,松前氏の蝦夷地全域での交易権掌握の保証を得る.アイヌに対しては,「何方へ往来するとも心まかせ」としているのが特徴.松前藩の原型が確立.

【関連】:第1巻p364
【出典資料番号】:3

23 慶長9(甲辰) 1604

5

28

松前慶広,従五位下・伊豆守に叙任(それまでは志摩守を私称).

【関連】:
【出典資料番号】:2 3 6 

24 慶長16(辛亥) 1611

10

蝦夷島東海岸に大津波がおき,死者が多数にのぼる(10月28日の三陸地方強震津波の余波).

【関連】:
【出典資料番号】:1

25 慶長18(癸丑) 1613

12

19

幕府,キリスト教を禁止.

【関連】:
【出典資料番号】:104

26 慶長19(甲寅) 1614

10

1

大坂冬の陣始まる(12月20日講和する).

【関連】:
【出典資料番号】:104

27 元和1(乙卯) 1615

4

6

徳川家康,再び大坂征討を命じる(大坂夏の陣).5月7日大坂城落城.5月に松前慶広も参戦する.

【関連】:
【出典資料番号】:2 104

28 元和2(丙辰) 1616

4

17

徳川家康,死去.

【関連】:
【出典資料番号】:104

29 元和2(丙辰) 1616

10

12

松前慶広(松前家初代藩主),死去(享年69歳).

【関連】:
【出典資料番号】:2

30 元和4(戊午) 1618

この年

イエズス会士ジロラモ・デ・アンジェリス,津軽から福山に渡り10日間滞在,15人の信者の告解をうける等布教活動を行う.松前侯(公広)は,松前は日本に属さずとして幕府による禁教令発令後にもかかわらずアンジェリスを厚遇.

【関連】:
【出典資料番号】:7

31 元和6(庚申) 1620

この年

イエズス会士カルワーリュ,秋田から金掘の名義で福山に渡り,福山と千軒岳金山に各1週間滞在,初めてミサを行う.元和8年にも渡来.

【関連】:
【出典資料番号】:8

32 元和7(辛酉) 1621

この年

アンジェリス,再び蝦夷地に渡る(この時の報告書に,海峡の存在とアイヌ社会の構造をあげるとともに,蝦夷地が島であると推定).

【関連】:
【出典資料番号】:9

33 寛永1(甲子) 1624

福山に疱瘡流行し,多数の子供が死亡する.

【関連】:
【出典資料番号】:2

34 寛永10(癸酉) 1633

7

9

幕府巡検使分部左京佐光信ら一行,福山に到着.松前藩領として西在乙部・瀬茂内,東在潮泊・石崎までを視察する.

【関連】:
【出典資料番号】:1 3

35 寛永12(乙亥) 1635

5

20

幕府,外国船の入港・貿易を長崎・平戸に限定し,日本人の海外渡航・海外よりの帰国を厳禁する.

【関連】:
【出典資料番号】:104

36 寛永16(己卯) 1639

8

島原の乱後の禁教令強化を受け松前藩,東部大沢において切支丹宗徒50人を処刑・斬首.西部日市村(一に比石に作り,のちの石崎村)において残党6人,千軒岳金山において50人斬首.この年処刑の宗徒,都合106人.

【関連】:
【出典資料番号】:10

37 寛永17(庚辰) 1640

6

13

東部駒ヶ岳噴火,沿岸一帯に津波が発生する.福山近辺,和人・アイヌ共に死者700余人を数える(一説には戸勝より亀田に至るまで溺死500余人という).

【関連】:
【出典資料番号】:2 3 10 11

38 寛永20(癸未) 1643

5

西部シマコマキのアイヌ・ヘンナウケの蜂起鎮圧のため出陣の佐藤権左衛門ら帰藩する.

【関連】:
【出典資料番号】:10

39 寛永20(癸未) 1643

7

12

オランダ人フリースの指揮する東インド会社の金銀島探検船カストリクム号,アッケシに入港.松前藩士が臨検する.蝦夷島周辺を測量して退帆.

【関連】:
【出典資料番号】:243

40 正保1(甲申) 1644

松前藩,『松前絵図』(正保御国絵図)を幕府に呈上.

【関連】:
【出典資料番号】:3

41 慶安1(戊子) 1648

東部サル地方のメナシクル(東方衆.シブチャリを拠点としトカチ地域に及ぶ)とシュムクル(西方衆.ハエを拠点としハエクルともいい,サッポロ地域に及ぶ)の間に争い起こる.シブチャリの脇大将シャクシャインとハエのオニビシが出合い,3日にわたる酒宴の末にシャクシャインがオニビシの下僕1人を殺害し,これが発端となって同年冬より戦闘が始まる.松前藩では,商場交易の支障になるため数度にわたって双方に使者を送り和解をはかったが,承応2年まで6年にわたり争いが継続する.

【関連】:第1巻p371
【出典資料番号】:3 10 12 

42 慶安4(辛卯) 1651

7

23

江戸で由井正雪の陰謀が発覚する.

【関連】:
【出典資料番号】:6

43 承応2(癸巳) 1653

メナシクルのカモクタインとシュムクルのオニビシが戦い,カモクタインが殺され,メナシクル側は大敗.副将シャクシャイン,松前藩の調停を受け入れてオニビシと和解する(『福山秘府』は,シュムクルに首長カモクタインを殺害されたメナシのアイヌが蜂起,松前藩では重臣下国内記広季・佐藤権左衛門季信・新井田瀬兵衛広成を派遣してこれを鎮圧したとし,『津軽一統志』はこれを明暦3年のこととしている).

【関連】:第1巻p372
【出典資料番号】:12

44 明暦1(乙未) 1655

東部サルのメナシクルとシュムクル,ともに福山に来る.この年メナシクルの首長シャクシャインとシュムクルの首長オニビシ,福山にて松前藩の仲介にて和解.

【関連】:第1巻p372
【出典資料番号】:10

45 寛文3(癸卯) 1663

7

11

東蝦夷地宇須(有珠)岳噴火.13日まで間断なく地震.14日再噴火,15日大地震・降灰.これより付近のアイヌ家屋焼失・埋没,アイヌの死者多数被害甚大.

【関連】:
【出典資料番号】:1 3

46 寛文6(丙午) 1666

この年

メナシクル(シャクシャイン方)とシュムクル(ハエクル.オニビシ方),熊・鹿・魚の狩猟・漁撈権(イオル)を相互に侵干,確執が再発.

【関連】:第1巻p372
【出典資料番号】:13

47 寛文7(丁未) 1667

メナシクル,活鶴を購うためウラカワより来たオニビシ方のアイヌ・ツカコボシの甥を殺害する(『寛文拾年狄蜂起集書』ではオニビシの甥,『蝦夷蜂起』は同年冬シャクシャインの子カンリリカがオニビシの下人を殺害とある).掛合では埒明かずとみたオニビシ,11月頃部下90人余を率いてシャクシャイン居所に押し寄せたが,金掘文四郎が調停する.12月金掘文四郎,福山に上りオニビシとシャクシャイン調停の件につき報告(一説に松前藩,金掘文四郎を通じオニビシ方に味方することを明らかにしはじめる).

【関連】:第1巻p372
【出典資料番号】:13 15

48 寛文8(戊申) 1668

4

21

シャクシャイン,金掘文四郎の小屋にオニビシを討つ.12月シュムクルのチクナシとハロウ,福山に上り兵具・俵物の借用を願う.松前藩,兵具の下付は前例がなしとして拒否し,俵物・酒を賜う.以後も,シュムクルとメナシクルは度々衝突.

【関連】:第1巻p372
【出典資料番号】:12 13

49 寛文9(己酉) 1669

4

オニビシの姉婿のウタフ(ウトマサ),藩主の帰藩を聞き福山に上りオニビシの仇討ちのための兵具・俵物の借用を乞うが拒否さる.帰途,疱瘡を患いノタオイにて急死.ウタフの死が松前藩の毒殺と伝わり,シャクシャインの下で各アイヌをまとめ,商船などを急襲.松前藩この旨を幕府に急報し,幕命により弘前藩,松前領に出兵.盛岡藩などに出兵準備下命.旗本の松前八左衛門泰広,幕命により来藩.松前藩兵を率い東部に進出.クンヌイにてアイヌと交戦.10月22日シャクシャイン,ピポク(ニイカップ)において討たれる.

【関連】:第1巻p373/第1巻p373/第1巻p377
【出典資料番号】:1 3 12 13

50 寛文10(庚戌) 1670

5

弘前藩,隠密船を東西蝦夷地に派遣.この時西蝦夷地に入った牧只衛門の報告によれば,イシカリ・サツホロについて以下のことが記される.①イシカリのところで「上の国惣大将」ハウカセは,おおむね前年の蜂起には武装中立を堅持.②領域は,はつしゃふ,おたる内,イシカリ河口,マシケなどを.③イシカリ河口より1里ほどさかのぼり「はつしゃふ」,さらに2里さかのぼって「さつほろ」にアイヌ居住(さつほろの初出).④「はつしゃふ」にアイヌの首長「よろたいん(ようたいん)」居住.⑤イシカリ川中流には「ちよまかうた」という交易所あり.この頃,蝦夷地の鳥屋(とや)場,「しこつ」「いしかり」に多数あり.アイヌに急襲された鳥屋多し.

【関連】:
【出典資料番号】:13 14

51 寛文10(庚戌) 1670

この年

松前藩,松前左衛門広諶らを西蝦夷地余市に派兵.この時アイヌ,松前藩に対し以後藩の指示に従うべき旨の起請文と賠償(つぐない)を提出.

【関連】:第1巻p379
【出典資料番号】:15

52 貞享4(丁卯) 1687

1

28

幕府,生類憐みの令を出す.松前藩は幕命によりこの年の鷹の献上を中止.鷹の需要がなくなり藩財政悪化の要因となる.

【関連】:第1巻p387
【出典資料番号】:3 6 16 

53 元禄1(戊辰) 1688

6

26

26~27日頃水戸藩の巨船快風丸,イシカリ川に到着,イシカリ・イシカリ川流域を検分.イシカリアイヌの様子も調査,鮭1万本を塩引きにして持ち帰る.イシカリの総首長をカルベカインと記録.

【関連】:第1巻p380/第1巻p389/第1巻p478
【出典資料番号】:1 17

54 元禄5(壬申) 1692

7

9

商人宮之越五郎右衛門,イシカリの藩主直場所の運上金上納,さらに来酉年秋味船の派遣願出,許可される.

【関連】:第1巻p389
【出典資料番号】:18

55 元禄5(壬申) 1692

9

8

麓小兵衛,勝手不如意につき来酉年イシカリ川尻に鱒取船の派遣方を願出,許可される.

【関連】:第1巻p388
【出典資料番号】:18

56 元禄5(壬申) 1692

10

20

目谷六左衛門,勝手不如意につきイシカリ運上金一部赦免(秋味交易船か).

【関連】:第1巻p388
【出典資料番号】:18

57 元禄5(壬申) 1692

この年

関嘉左衛門兼助,イシカリの藩主直場所の一部支配を与えられる.

【関連】:第1巻p385
【出典資料番号】:18

58 元禄7(甲戌) 1694

この年

イシカリ川秋味上乗役山下伴左衛門の願により白鳥若太夫が初めてイシカリ弁天社の神体・神号等を勧進.

【関連】:
【出典資料番号】:19

59 元禄9(丙子) 1696

5

12

朝鮮船乗組員8人,暴風に逢いレブン島に漂着する.松前藩,江戸へ護送.帰還のため対馬藩に引き渡す.

【関連】:
【出典資料番号】:1

60 元禄11(戊寅) 1698

この年

西蝦夷地に疱瘡流行,多数のアイヌが死亡.

【関連】:
【出典資料番号】:20 21

61 元禄13(庚辰) 1700

この年

松前藩,『松前島絵図』(元禄御国絵図)と『郷帳』を幕府に呈上.絵図にはイシカリ川を大河に描き,「しゃつほろ」「しろの(しのろ)」「はつしやふ」など地名を掲げる.また同年の『松前藩支配所持并家中扶持人名前帳』には,イシカリの「沙津保呂」鳥屋,小林・目谷両氏の支配所として記される.

【関連】:第1巻p479/第1巻p385
【出典資料番号】:22 23

62 元禄15(壬午) 1702

この年

奥羽地方大凶作となり,餓死者が多数でる.蝦夷地もその影響を受ける.

【関連】:
【出典資料番号】:104

63 元禄15(壬午) 1702

この年

飛騨屋久兵衛,松前に渡来して,東蝦夷地尻別で檜の伐採事業を開始する.その後,サル・クスリ・アッケシ・イシカリ・ユウバリ・テシオ等の蝦夷檜山を開発する.

【関連】:第1巻p395
【出典資料番号】:248

64 宝永6(己丑) 1709

1

20

幕府,生類憐みの令を廃止.

【関連】:
【出典資料番号】:104

65 宝永6(己丑) 1709

1

幕府,新井白石を登用.

【関連】:
【出典資料番号】:104

66 正徳年間(1711~1716) 1716

この年間

『エトロフ島漂着記』には,「あきやじ川」という大河(イシカリ川)で,鮭・数の子がとれること,川べりをいくつかに区切って津軽やその他の商人が松前藩主へ運上金を納入して請負っている様子が記される.

【関連】:第1巻p391
【出典資料番号】:24

67 享保1(丙申) 1716

8

13

徳川吉宗,8代将軍となる.享保の改革始まる.

【関連】:
【出典資料番号】:6

68 享保2(丁酉) 1717

この年

幕府側記録に,藩主の手船(てぶね)をイシカリなど6カ所に出していること,イシカリに「またべ」という首長居住とあり.また,鮭はイシカリとマシケにて多くとれ,多くは干鮭(からざけ)としてアイヌの食糧となり,生鮭は,塩引加工されて松前・東北方面に多く出荷されていると記される.

【関連】:第1巻p388
【出典資料番号】:16

69 享保3(戊戌) 1718

4

『闢疆録(へききょうろく)』を著し蝦夷地内陸部の開発を唱えた京都の儒者並河天民(なみかわてんみん)死去.

【関連】:第1巻p415
【出典資料番号】:26 27

70 享保4(己亥) 1719

1

15

幕府,松前矩広を万石以上に列し,蝦夷地渡海・通商に関する条規を定める.

【関連】:
【出典資料番号】:1 3

71 享保5(庚子) 1720

この年

新井白石『蝦夷志』を著す(本道を対象とする最初の地誌とされる).

【関連】:第1巻p415
【出典資料番号】:28

72 享保8(癸卯) 1723

イシカリ,鮭不漁.冬より翌年7月までにイシカリアイヌの餓死者200人程にのぼり,東蝦夷地シコツにてもアイヌの餓死者をだす.翌年7月松前藩,幕府に報告.

【関連】:
【出典資料番号】:3

73 享保12(丁未) 1727

この年

『松前西東在郷并蝦夷地所附』には,イシカリの「商所支配」知行主として「はつしやふ」酒井作之右衛門,「しやつほろ」小林兵佐衛門・目谷佐仲・高橋嘉左衛門,「しのろ」南条安右衛門など12人の名前が記される.

【関連】:第1巻p393
【出典資料番号】:29

74 享保年間(1716~1736) 1736

この年間

西川伝右衛門,イシカリ秋味漁として船2艘150両1カ年仰せつけられる.

【関連】:第1巻p391
【出典資料番号】:25

75 元文4(己未) 1739

この年

前年に蝦夷地調査を行った坂倉源次郎,『北海随筆』を著し,蝦夷地の実情・産物を紹介するとともに開拓意見を述べる.

【関連】:第1巻p415/第1巻p482
【出典資料番号】:31

76 元文年間(1736~1741) 1741

この年間

『蝦夷商賈聞書』には,イシカリ川の鮭産出量2800石と蝦夷地第1位,つづいてマシケ・トママイ各2700石と記す.イシカリ13場所の夏商(なつあきない)には藩主と12人の知行主がいること,交易品は干鮭・熊皮・狐皮・兎皮・数の子等であると記される.

【関連】:第1巻p392/第1巻p394
【出典資料番号】:30

77 寛保1(辛酉) 1741

7

8

松前沖の大島が噴火.19日には津波発生する.

【関連】:
【出典資料番号】:1 3

78 延享3(丙寅) 1746

この年

飛騨屋久兵衛,藩主直領のキイタップの御用交易船の取扱を命じられる.時にアッケシ御山の蝦夷檜の様子を調査.

【関連】:
【出典資料番号】:32

79 寛延1(戊辰) 1748

3

8

松前藩,財政窮乏につき沖の口役金の増徴を問屋などへ申し渡す(沖の口出入の商品から1分口銭〈売買価格の100分の1〉を徴収することとした.以後,沖の口税として定着する).

【関連】:
【出典資料番号】:117

80 宝暦2(壬申) 1752

この年

飛騨屋久兵衛,アッケシ蝦夷檜山(ひのきやま)の伐採不調につき,イシカリ山尻別川筋に杣夫を移す.

【関連】:第1巻p395
【出典資料番号】:32

81 宝暦3(癸酉) 1753

7

28

飛騨屋久兵衛,イシカリ御山(藩主直営)の伐木願書を提出,8月10日伐木支配を許される.伐木願書によれば,宝暦5年より8カ年間イシカリ山へ杣夫を入れ,寸甫=丸太100石につき280挺のものを1カ年1万2000石ずつ伐木,イシカリ川へ流送,運上金1カ年600両ずつ納入するといった内容(『松前附届書留控』によればイシカリ山請負のかたわら,イシカリ夏商の下請けを行っていた形跡あり).

【関連】:第1巻p395
【出典資料番号】:32

82 宝暦4(甲戌) 1754

この年

松前藩,初めてクナシリ島に交易船を派遣,アイヌを撫育(クナシリ場所の設定か).

【関連】:
【出典資料番号】:70

83 宝暦5(乙亥) 1755

この年

飛騨屋久兵衛,イシカリ檜山伐出支配請負開始.その後,引続き支配請負,明和6年,蝦夷檜山の請負返上まで継続.

【関連】:第1巻p395
【出典資料番号】:33

84 宝暦8(戊寅) 1758

7

東部ノッシャフのアイヌ,西部ソウヤのアイヌを襲撃,60余人を殺害し,200余人を傷つける.

【関連】:
【出典資料番号】:36

85 宝暦8(戊寅) 1758

この年

飛騨屋久兵衛,「石狩秋味囲切(あきあじかこいきり)」支配を行う.その後も引き続き夏商を明和5年まで継続か.

【関連】:第1巻p400
【出典資料番号】:33

86 宝暦9(己卯) 1759

この年

松前藩,アッケシにてオムシャを実行,エトロフ島のアイヌよりロシア人の接近を初めて知る.

【関連】:第1巻p416
【出典資料番号】:36 37

87 宝暦13(癸未) 1763

この年

飛騨屋久兵衛,蝦夷檜山請負更新にあたり蝦夷地椴松山を留山とするを許される(久兵衛以外に蝦夷檜類木である椴松の伐木を認めないという趣旨).

【関連】:第1巻p397
【出典資料番号】:38

88 明和2(乙酉) 1765

11

16

阿部屋村山伝兵衛,「しやつほろ」場所夏商を明和3年より4年間運上金1カ年27両宛と定め,知行主南条安右衛門より請負を許される(サツホロ場所請負証文の最古か).

【関連】:第1巻p402
【出典資料番号】:39

89 明和2(乙酉) 1765

この年

熊野屋菊池忠右衛門,福山城表御門その他の普請支配の費用引当てとして,イシカリ秋味跡買添船(あきあじあとかいそえぶね)400石積1隻を運上金1カ年35両宛の積りにて許される.

【関連】:第1巻p404
【出典資料番号】:40

90 明和3(丙戌) 1766

4

5

熊野屋忠右衛門,イシカリの鮭切囲(きりかこい)(浜の蔵に塩漬けにして囲い置き,翌年船に積込む塩引鮭のこと)10カ年拝領願に対し,この日家老松前広長よりまず3カ年許可される.その後,熊野屋,安永8年イシカリ鮭切囲と秋味跡買添船の両方の権利を没収される.

【関連】:第1巻p404
【出典資料番号】:40 41

91 明和4(丁亥) 1767

7

1

幕府,田沼意次(たぬまおきつぐ)を側用人に任じる(田沼時代始まる).

【関連】:
【出典資料番号】:104

92 明和4(丁亥) 1767

この年

飛騨屋の旧雇人南部屋嘉右衛門,松前藩士と結託して運上金のほか年々米1万俵の上納を条件に飛騨屋請負中の蝦夷檜山請負を出願,8月20日飛騨屋,これに対抗して城内普請の手助けとして500両を献金し,かつ1カ年600両の運上金を1000両に増額することを条件に蝦夷檜葉ならびに椴山惣山請負を出願.8月24日許可

【関連】:第1巻p397
【出典資料番号】:32 43

93 明和6(己丑) 1769

この年

飛騨屋久兵衛,蝦夷檜山の請負返上.山請負,南部屋に移る.その後,新宮屋に移る.

【関連】:第1巻p398
【出典資料番号】:42

94 明和8(辛卯) 1771

1

松前藩,蝦夷檜山の請負を新宮屋に命じ,イシカリ山の伐木を行わせる.

【関連】:第1巻p398
【出典資料番号】:41

95 明和8(辛卯) 1771

8

24

松前広長の3カ年間石狩跡買願,許可.1カ年礼金25両宛とする.

【関連】:
【出典資料番号】:41

96 明和8(辛卯) 1771

この年

ロシアに捕えられていたハンガリー人ベニョフスキー,カムチャツカを脱出してマカオへの途次阿波や奄美大島などに寄港.長崎のオランダ商館長宛に書簡を残しロシアの千島列島要塞建設及び,日本近隣諸島への攻撃のあることを通報.

【関連】:第1巻p415
【出典資料番号】:44

97 安永2(癸巳) 1773

4

10

松前藩,新宮屋よりイシカリ山経営を取上げ.飛騨屋久兵衛,松前藩直営の名目で蝦夷檜山を請負う.翌3年新宮屋に戻される.

【関連】:第1巻p398
【出典資料番号】:42

98 安永2(癸巳) 1773

9

18

飛騨屋久兵衛,松前藩への貸金8183両のうち2783両を冥加として献上,残金5400両の引当てとして,安永3年より20カ年間エトモ・アッケシ・キイタップ・クナシリ4カ所の夏商場を受け取る.

【関連】:第1巻p398
【出典資料番号】:240

99 安永2(癸巳) 1773

9

25

松前藩,南部屋嘉右衛門を無許可で船を蝦夷地に航行させたこと,その他の罪科で捕縛して入牢させ,盛岡藩に身柄を引き渡す.

【関連】:
【出典資料番号】:1

100 安永2(癸巳) 1773

10

23

新宮屋久右衛門,イシカリ山方につき幕府に公訴.

【関連】:
【出典資料番号】:1