寛保二壬戌年金井村戌出水万覚留帳 [解説] [[解説]] |
NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ 1.震災・火災・水害等災害の記録 |
[目録]元長野県立歴史館青木隆幸「寛保二壬戌年金井村戌出水万覚留帳」(以下、「万覚 留帳」と略)は、祢津知行所金井村(現東御市金井)の名主役を務めていた(瀬田)清右 衛門が記録した史料である。金井村は8月1... |
寛保二壬戌年金井村戌出水万覚留帳 [翻刻] [[翻刻]] |
NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ 1.震災・火災・水害等災害の記録 |
分ニ加沢久保より御覧、当村より (改頁)3 加沢田、夫より村中より西手へ御 通り、祢津御渡リ、新屋敷相願申候処、則廿九日ニ当仮所御立合ニ而川筋願候共ニ被仰付 相済申候、一九月三日ニ御召被遊... |
■小県郡民謡集 [ルビ・注記] 成人謡 |
NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ 4.地域の記録 |
まゆ)から糸を紡ぎ出すこと。4.巫女(みこ)。〔方〕河東地方に關する四首○海野平 (うんのたひら)から禰津(ねつ)村見れば禰津は信濃の京じやもの。(滋野三家禰津氏 據(きょ)地)○禰津で寢つれて別所て○○して... |
■むしくら日記 [翻刻] 1巻 元 [[翻刻]] |
NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ 1.震災・火災・水害等災害の記録 |
懸せん事を願けるにより、周三郎に東の方東(ママ)作ニ其次をかせしかば、打よろこひ て小屋をしつらへぬ、祢津神平の家内先に池田大内蔵家内と共にあら町の矢沢猪之助の別 邸の内をかりて小や懸し、地震且水難を避る心構... |
寛保二壬戌年金井村戌出水万覚留帳 [現代訳] [[現代訳]] |
NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ 1.震災・火災・水害等災害の記録 |
千右衛門様同楢原丈右衛門様これらの方々が検分(被害の調査)のために加沢久保より入 り、金井村、加沢田、祢津に向かった。新屋敷の建築をお願いしたところ、8月29日に建 設予定地を視察して下さり、了解していただい... |
■むしくら日記 [現代訳] 1巻 元 [[現代訳]] |
NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ 1.震災・火災・水害等災害の記録 |
す。海野蔵主は長屋と玄関が潰れ、母屋も大破しました。藤田典膳も母屋が大破し、土蔵 と物置が倒れました。祢津神平の家も藤田同様、大破しました。十河半蔵の家は壁や天井 がすっかり落ちて、家族も一度はこの下に埋まっ... |
上田の早苗 [翻刻] [[翻刻]] |
NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ 7.教育、人物・伝記 |
保の例にならひて大久保山御林より材木被下たり、]洪水之事一寛保弐年壬戌七月より霖 雨して八月朔日洪水、祢津金原山崩れ (改頁)25 常田村五丁流失せり、一田中 駅溺死者六十三人、家の残り九... |
■むしくら日記 [現代訳] 3巻 利 [[現代訳]] |
NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ 1.震災・火災・水害等災害の記録 |
を狙って盗賊が家々に押し入り略奪することがたいへん多いと聞きましたので、取次の横 田甚五右衛門、目付の祢津刑左衛門・小野喜平太・矢野茂・斎藤友衛らを手分けして遣わ しました。その略奪する者たちを止め、懲らし、... |
浅間焼覚帳 [現代訳] [[現代訳]] |
NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ 1.震災・火災・水害等災害の記録 |
では何もせず小諸町を通り抜けた。小諸町の西側の小諸藩領の菱野村・布下村へ行き、二 、三軒打ちつぶした。祢津旗本領では、みはり(新張)村の酒屋所右衛門を打ちつぶし、 焼き払った。矢沢旗本領では、赤坂村の酒屋市郎... |
■善光寺道名所図会 [現代訳] 善光寺道名所図会 巻之五 ○小県郡田中 |
NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ 2.紀行文・道中記、地誌 |
たのです。右に流れる千曲川のむこうに、布引観音が見えます。左は浅間山のふもとにな ります。このあたりに祢津という山城があります。そこは、源頼朝の頃、根津甚平の居住 地でした。根津甚平が鷹術の名手であったことは... |
■上田案内 [解説] [[解説]] |
NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ 4.地域の記録 |
群馬県吾妻線(現在の嬬恋村と結ぶ)、県道松本線が走る。上田駅開業にともなう新設の 松尾町も県道となり、祢津街道は郡道であった。〇鉄道信越線の上田停車場(駅)は「毎 日上下各七十八回の旅客車と数回の貨物を発し、... |
■松代イラストマップ 26高安山龍泉寺 |
NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ 4.地域の記録 |
に創建。明徳寺四世円室是鑑の隠居寺だったとの伝承もある。寛文年間(一六六一~一六 七二)、真田氏の家臣禰津八郎右衛門(法号高安玄忠)が現在地に再建、中興開基となり 、以後、寺号を高安山とした。近世二度の火災に... |