高岡市雲龍山勝興寺/文化財デジタルアーカイブ

文書
目録データ 古文書類
識別番号
0000-0030-0000-0000-0000-0000-0021 
資料所蔵機関の名称
勝興寺
史料群
> 文書
副史料群
> No.〇〇〇 県指定文化財
副分類名
> 二一
文書名
> 佐々成政書状  
文書名読み
さっさなりまさしょじょう 
宛所
勝興寺下坊主中 
作成年代始(和暦)
(天正一二年)一一月一四日 
数量
1点 
寸法(縦)
28.8cm 
寸法(横)
44.9cm 
テキストの言語
日本語 
テキストの言語コード
jpn 
解題・説明
天正6年(1578)3月に上杉謙信が死去すると、織田信長はただちに神保長住を飛騨ルートから富山城に送り込んだ。長住は神保長職の嫡子だが、先の神保氏分裂の折、父と対立し反上杉となり、京都に出た。信長は長住を食客としていたが、神保氏の婦負・射水郡支配権を回復させる名目で、佐々長龝を副えて送り込んだ。さらに美濃衆・斎藤新五を派遣し、謙信の死後動揺していた上杉勢を破り、富山南部の太田保土豪を味方につけ、長住を富山城に入れていた。 一方、加賀ルートからは、信長家来で越前府中三人衆であった佐々成政(1539~88)を送り込んだ。成政は天正8年(1580)8月に越中派遣を伝えられ、翌9年(1581)早々に越中に封ぜられた。当初は守山城に入り、神保庶流で旧同城主であった神保氏張を与力とし、支配の一端を担わせた。同年、当時安養寺村にあった勝興寺は、成政についた木舟城主・石黒左近将監道之に急襲され、伽藍が灰燼に帰してしまう。その後の12年(1584)、元々、親一向一揆派であった氏張による一揆衆登用の献策を受けた成政は、この書状により勝興寺の還住を許した。氏張が古国府一円を寺に寄進したことにより、勝興寺は現在の場所へ移ったのである。(久保尚文)【参考文献】『高岡の名宝展』高岡市美術館,平成21年(2009) 
原本の所在・史料群
勝興寺 
資料番号
県-〇二一 
出版物・関連資料
「勝興寺宝物展 重要文化財勝興寺本堂落慶記念」(勝興寺ほか 2005)  
資料種別
文書 
文化財情報
富山県指定文化財 
既刊目録名
「雲龍山勝興寺文書目録」(勝興寺文化財保存・活用事業団 2012)