高岡市雲龍山勝興寺/文化財デジタルアーカイブ

文書
目録データ 古文書類
識別番号
0000-0030-0000-0000-0000-0000-0019 
資料所蔵機関の名称
勝興寺
史料群
> 文書
副史料群
> No.〇〇〇 県指定文化財
副分類名
> 一九
文書名
> 教如消息(石山籠城の決意をつぐ)  
文書名読み
きょうにょしょうそく 
宛所
越中惣坊中・惣門徒衆中 
作成年代始(和暦)
(天正八年)五月一五日 
数量
1点 
寸法(縦)
11.6cm 
寸法(横)
48.2cm 
テキストの言語
日本語 
テキストの言語コード
jpn 
解題・説明
教如(光寿/1558~1614)は顕如(1543~92)の子、本願寺の第12世。文禄元年(1592)、顕如の跡を継いで門主となったが、まもなく隠居を余儀なくされた。しかし、その後も実力を保ち、やがて徳川家康に認められて、慶長8年(1603)、東本願寺を設立させた。 本史料の内容は、天正8年(1580)の本願寺の大坂退去に際して、顕如は既に雑賀(和歌山市)に移っていたが、自分はあくまで大坂に踏み止まることを決意したと述べ、「万端頼み入るばかり」と結んで、越中の坊主衆・門徒衆に支持を求めている。なお、4月上旬から5月下旬にかけて、能登・近江・美濃・甲斐など各地の門徒に同文または同趣旨の文書が届けられており、教如が多数の支持を得ようと努力していた様子がうかがえる。また、6月9日付けの勝興寺第9代住職・顕栄(1509~84)宛ての文書では、越中・加賀に使者を派遣する、と述べているが(勝興寺文書〈影写本〉)、これも教如への同調を訴えるための使者であろう。 この後、大坂に居座る教如に対して信長が武力を発動したため、教如も考えを改めざるを得なくなり、ついに大坂からの退去に同意して、8月2日に雑賀に移ることになる。なお、上述のように教如が各地の門徒に支持を求めたことから、教如を中心とする派閥が形成され、これが東本願寺成立の遠因になったといわれる。(鴨川達夫) 
原本の所在・史料群
勝興寺 
資料番号
県-〇一九 
その他関連ページ
宝物作品解説 
出版物・関連資料
『勝興寺宝物展 重要文化財勝興寺本堂落慶記念』(勝興寺ほか 2005)  
資料種別
文書 
文化財情報
富山県指定文化財 
既刊目録名
『雲龍山勝興寺文書目録』(勝興寺文化財保存・活用事業団 2012)