高岡市雲龍山勝興寺/文化財デジタルアーカイブ

文書
目録データ 古文書類
識別番号
0000-0030-0000-0000-0000-0000-0017 
資料所蔵機関の名称
勝興寺
史料群
> 文書
副史料群
> No.〇〇〇 県指定文化財
副分類名
> 一七
文書名
> 顕如消息(石山退城等をつぐ)  
文書名読み
けんにょしょうそく 
宛所
勝興寺 
作成年代始(和暦)
(天正八年)四月一五日 
数量
1点 
寸法(縦)
12.9cm 
寸法(横)
47.7cm 
テキストの言語
日本語 
テキストの言語コード
jpn 
解題・説明
顕如(光佐/1543~92)は本願寺の第11世。織田信長の時代に門主を務め、大坂に拠って信長に激しく抵抗した(いわゆる「石山合戦」)。当初は武田信玄(1521~73)・浅井長政(1545~73)・朝倉義景(1533~73)などと結んで戦ったが失敗に終わり、後には西国の実力者・毛利輝元と組んで抵抗を続けたが、天正8年(1580)4月、ついに信長に屈した。 本史料は、信長に屈した直後、勝興寺第9代住職・顕栄(1509~84)に、大坂から退去して雑賀(和歌山市)に移ったことを報せたものである。4月15日付になっているが、文中に「十日に雑賀に着いた」とあるから、その5日後に書かれたわけである。この文書とは別に、越中の一般門徒宛ての文書が用意され、それぞれに本願寺の坊官下間頼廉・同仲之連署の副状が付いて、4通1組で届けられたものと思われる。しかし、副状はいずれも現存していない。 これに先立つ数年間、顕如は上述のように毛利輝元らと組んで信長への抵抗を続けてきたが、この天正8年に差しかかる頃にはほとんど孤立無援の状態に陥っていた。そこで正親町天皇が間に入り、両者の折り合いをつけることになった。この時の信長の意向について、顕如はこの文書の中で、「(われらを)大坂から退出させることにつきる」と表現している。そしてこれを受け入れる以外の道は、顕如には最早残されていなかった。こうして閏3月5日に交渉は妥結し、4月9日、顕如は大坂を去ったのである。交渉の妥結を顕如は「和平」と表現しているが、実態としては明らかに信長に対する降伏であった。ちなみに信長側では、本願寺を「赦免した」と表現している(「南行雑録」巻一など)。 上述のように、一般門徒宛ての文書が別に用意され、詳しいことはそちらを参照するように、またその内容を門徒に読み聞かせてやるように、と指示している。(鴨川達夫) 
原本の所在・史料群
勝興寺 
資料番号
県-〇一七 
その他関連ページ
宝物作品解説 
出版物・関連資料
『勝興寺宝物展 重要文化財勝興寺本堂落慶記念』(勝興寺ほか 2005)  
資料種別
文書 
文化財情報
富山県指定文化財 
既刊目録名
『雲龍山勝興寺文書目録』(勝興寺文化財保存・活用事業団 2012)