高岡市雲龍山勝興寺/文化財デジタルアーカイブ

文書
目録データ 古文書類
識別番号
0000-0030-0000-0000-0000-0000-0008 
資料所蔵機関の名称
勝興寺
史料群
> 文書
副史料群
> No.〇〇〇 県指定文化財
副分類名
> 八
文書名
> 証如書状  
文書名読み
しょうにょしょじょう 
宛所
勝興寺御坊 
作成年代始(和暦)
二月一一日 
数量
1点 
寸法(縦)
18.0cm 
寸法(横)
52.0cm 
テキストの言語
日本語 
テキストの言語コード
jpn 
解題・説明
本願寺10世・証如(1516~54)の母・慶寿院鎮永は、勝興寺第8代住職・実玄(1486~1545)の妻の妙勝(1489~1574)の4歳下の妹である。その縁で勝興寺は本願寺一門として尊重された。 下間民部少輔は頼辰である。天文5年(1536)に52歳で没した頼助の子であり、「下間家系図」には「運次、民部丞、隠岐守、母神保ゝゝ女」と説明されている。頼辰の誕生は永正3年(1506)、一向一揆後の北陸の本願寺教団と放生津館にいる越中守護代・神保慶宗方との融和の象徴であったと思われる。 この文書では、本願寺の享禄の錯乱(1531)において大一揆派を支え、勢力を強めた坊官・下間筑前守頼秀(?~1539)は、瑞泉寺・善徳寺を勝興寺の与力寺院とする旨の指令を出したと言っている。しかし天文4年(1535)に大坂(石山)本願寺が細川晴元(1514~63)と和睦した際に頼秀兄弟は抗戦を主張して、9月に失脚した。その事態を受けて証如は「筑前の所業は、言語道断の曲事である」と述べ、頼秀らの武闘路線を本願寺の安全を脅かすものだと非難するとともに、勝興寺にも慎むよう諌めたのである。この書状は翌天文5年のものであろう。(久保尚文) 
原本の所在・史料群
勝興寺 
資料番号
県-〇〇八 
その他関連ページ
宝物作品解説 
出版物・関連資料
『勝興寺宝物展 重要文化財勝興寺本堂落慶記念』(勝興寺ほか 2005)  
資料種別
文書 
文化財情報
富山県指定文化財 
既刊目録名
『雲龍山勝興寺文書目録』(勝興寺文化財保存・活用事業団 2012)