弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

史資料
目録データ 静止画(写真・絵等)
識別番号
0000-0010-0030-0000-0000-1700-0000 
資料所蔵機関の名称
弘前図書館
資料群1
> 一般郷土資料
タイトル
> 弘前八幡宮祭礼図 壱~伍  
タイトル読み
ヒロサキ ハチマングウ サイレイズ イチ カラ ゴ 
タイトル(ローマ字)
Hirosaki hachimangu saireizu ichi kara go 
数量
5巻 
大きさ(縦)
各29cm 
大きさ(横)
各1000cm 
その他の注記
写 
テキストの言語
日本語 
テキストの言語コード
jpn 
解題・説明
 近世の城下町には、都市的な祭りが生まれ、そこには長大で華美な祭礼行列が現れた。一方において、このような城下町の祭礼は、その創設や展開過程において、町を作り上げた藩権力と強く結びついているのが特徴であるとされている。
 弘前の祭りというと、我々は夏の「弘前ねぷた」を思い起こすが、江戸時代においては、ねぷたはむしろ町人の祭りとしての色彩が強いものであり、藩と強い結びつきがあった弘前惣鎮守弘前八幡宮の祭礼が城下最大の祭りとして最も賑わった。
 市内八幡町1丁目にある弘前八幡宮は、古くは八幡(やわた)村(現弘前市八幡)の北東の地にあり、大浦光信(おおうらみつのぶ)が賀田(よした)(現弘前市賀田)に大浦城を築城した後、永正6年(1509)に再建した。天文14年(1545)には大浦為則(ためのり)によって再建、同18年に焼失した後にも再建されて、大浦城の鬼門の守護神とされた。津軽信枚(つがるのぶひら)が高岡(たかおか)(現在の弘前)築城にともない、城下の丑寅の地に旧地から勧請した。社伝に拠れば、現在重要文化財に指定されている本殿・唐門は慶長17年(1612)の完成という。弘前藩では八幡宮に社領30石を与えるとともに、藩主が自ら参詣するなど厚く信仰し、保護を加えた。
 八幡宮には、鳥居から外鳥居の間に、神社の管理経営を行う別当寺として真言宗の最勝院(さいしょういん)(現在銅屋町にある最勝院は、明治維新後にもともとこの地にあった大円寺の跡に田町から移転したものである)があった。この最勝院は、藩内寺社の総録所に定められており、子院12か寺を有した。一方、八幡宮の神官は小野家が世襲した。小野家は田町の熊野宮(現熊野奥照神社)の神官長利家とともに最勝院のもとで領内社寺の支配頭を勤め、彼らによって弘前藩は領内の寺社を統制下においていた。
 弘前八幡宮の例祭は8月15日に営まれていたが、天和2年(1682)、当時の藩主津軽信政(つがるのぶまさ)によって、行列に城下町人も加えた神輿渡御の祭礼が始められた。8月15日の祭礼当日には、信政は二の郭(二の丸)辰巳櫓、また信政の生母久祥院(きゅうしょういん)が二の郭丑寅櫓に入り、渡御行列は城内に入って三の郭(三の丸)の堀端を通り、堀を隔てて信政と久祥院が上覧し、また重臣たちは設けられた桟敷などで行列を見物したのである。これ以降も神輿渡御は、藩主在国年に、飢饉の影響や津軽家に凶事のあったときを除いて実施された。
 元文3年(1738)の渡御行列は、八幡宮を出発後、田茂木町、亀甲町を通り、外北門(亀甲門)から城内に入り、外北の郭を通って、内北門(賀田門(よしたもん))から三の郭(三の丸)に入り、二の郭との堀際に出て、内東門前を過ぎたところにある家老の見物所、堀を隔てた二の郭辰巳櫓に構えられた藩主の高覧所を経て、外南門(追手門)から城外に出ている。その後、行列は追手門外の広小路から札の辻(現弘前図書館敷地の南西角)、塩分町、茂森町、横鍛冶町(現本町の一部)、本町、元寺町、元長町を通り、白銀町の外堀端にでて、外東門前の広小路から元寺町、親方町、土手町、代官町、和徳町(わとくまち)、東長町、蔵主町を経て、再び亀甲町に戻り、田茂木町、田町を経て、八幡宮に至るという道順をたどっている(「元文三戊午年八月十五日八幡御祭礼通筋并張番居所図」弘前図書館蔵岩見文庫)。
 行列に出る町は、支配町組の単位でそれぞれの山車(だし)、支配町組の町名を示す町印(ちょうじるし)(丁印)をもっていた。また山車とは別に、練物(ねりもの)といって、上演間もない流行の歌舞伎などを題材とする飾り物も作られた。ちなみに、天和2年当初の各町の山車は、本町・親方町は長良山、茂森町は大根山、土手町は猩々山、東長町は布袋山、和徳町は八木(米)山、新町は雪山、亀甲町は鳥居山であった(「天和二年御祭礼之節」弘前図書館蔵岩見文庫)。貞享元年(1684)には、土手町組の名主が、文殊山・弘法山という山車の製作を大工に頼んでいるが、その後、猩々山を再び出すようになったようである。宝暦6年には、鍛冶町が鐘巻山を、紺屋町・新町町組が雪山を出すようになり(「八幡宮御祭礼帳」弘前図書館蔵岩見文庫)、寛政8年(1796)には、紺屋町が新町とは別に和田酒盛山を出した。文化3年(1806)に、新町の雪山が高砂山に変っているが、これも雪山が現存することから、再び雪山に戻ったものだろう。さらに、演芸を行列に加える町もあって、天和2年の行列では松森町が獅子踊を、宝暦6年の行列では茂森町が獅子、鐘摺、笛、地謡を、亀甲町が踊、三味線などを出していた。
 渡御行列は、先駆として町奉行・目付・徒頭などの藩士たちが進み、そのあと各町内の町印・練物・山車が続き、さらに八幡宮の神輿が続き、跡乗として馬上の手廻組士・徒頭・町奉行らが、鉄炮・弓・槍の部隊を伴って押えとなっていた。この絵巻物は、紙本著色(しほんちゃくしょく)、全5巻、全長約100メートルにわたって、この神輿渡御の行列を描いたもので、2020年8月に青森県から県重宝に指定されている。
 巻一では、行列の先頭に前駆の藩士たちが描かれ、その後本町・親方町の行列が続く。「本町・親方町」と記した額をつけた町印は「諌鼓(かんこ)」である。「諌鼓」とは、中国の故事に基づくもので、堯、舜、禹といった古代の天子たちが、朝廷の外門に設けたもので、施政に諫言しようとする人民に敲かせる太鼓である。その上に鶏がとまっているのは、政治に誤りがないため太鼓が打ち鳴らされず、天下太平であるということを表現したものである。その後に、花瓶にいけた大きな紅白ボタンの造花を積んだ花車が、着飾った男女に引かれ、通っていく。山車は「長(張)良山(ちょうりょうやま)」。「黄石公と張良」の逸話を題材としたものである。張良(ちょうりょう)(?~B.C.189)は漢の高祖(こうそ)(劉邦(りゅうほう)、B.C.247~B.C.195)の軍師、謀臣として活躍した人物、一方黄石公は張良に軍略の奥義を伝えた人物だという。この2人の出会いは『史記』の「留公世家」に見え、能「張良」にも描かれた場面である。ある日、張良は、路上で馬にまたがった老人に出会う。この老人は、川に履を落として、張良に拾うことを命じた。張良が黙ってそれに従うと、老人は5日後の朝に再会しようといって消えた。5日後日が昇ってから張良が老人に出会うと、すでに待っていた老人は張良の遅れをとがめて、再び5日後に会う約束をする。5日後張良が日の出と同時に再び出向くと、老人はもうすでにその場にいて、5日前と同じように張良をとがめて、また5日後の再会を約する。5日後に日の出前に張良が行くと、老人は張良の後からやってきて、張良の謙虚さを褒めて、兵法の秘伝書を授けて、この書を読めば張良が王者の軍師になると語った。さらに、13年後に見かける黄色い石こそが自分であると述べて消えたという。予言の通り、張良は劉邦の軍師となり、13年後黄色い石を見つけたという。山車は白馬にまたがり右手に兵法の書を持った黄石公に、張良が履を捧げた姿である。
 巻二には、茂森町と土手町の行列が描かれる。茂森町の行列は、町印が「三番叟」で、栗の木に羽織を着た猿が座り、木の下では太鼓を唐子が敲いている姿を象っている。一方山車は「大根山」で、二股の大根を象っている。大根は、夫婦和合や家内安全、善事成就などを祈願する歓喜天(かんぎてん)(聖天)信仰で、歓喜天の象徴物とされている。歓喜天は商売や芸能を生業とする人々に広く信仰されていたものである。茂森町には元禄4年(1691)に常設の芝居小屋「茂森座」が開業しており、町印の「三番叟」や山車が歓喜天の象徴物と、芸事に関係するものであるのはこのためであろうと思われる。なお、大根山の由来には、茂森町に藩の青物御用商人新谷庄次郎家があり、藩主から大根を茂森の山車にせよと命じられたという異説もある。
 土手町の行列は、町印が金色の馬簾を垂れ下げて、その上にある赤玉の上に金色の鳳凰を載せ、「土手町」と記した団扇型の額をつけたものである。それに続いて土手町と町組を組む松森町の獅子舞が続く。山車は「猩々山」である。猩々とは、想像上の怪獣で、猿の朱紅色の長い毛で覆われた猿のような体をもつが、顔は人の顔立ちで、声は小児の泣き声のよう、人の言葉を理解し、酒好きなのだという。ここでは波の中に猩々が3体、汲めども尽きないという大きな酒壺を真ん中において酒を飲んでいる様子が表わされている。謡曲に「猩々」という演目があり、そのあらすじは、夢のお告げによって市で酒を売ったところ、裕福な身となった高風という孝行者が、いつも酒を買いに来る男が海中に住む猩々だとわかったため、酒を持って海のそばにいくと、猩々が現れて、酒を飲み、ひとさし舞い、礼として汲めども尽きぬ酒壷を贈ったというもので、祝いの席で舞われるめでたい演目であった。当時土手町には酒造業が多く集まっていたことから、酒に縁のある「猩々」を象った山車になったと言われている。
 巻三は、東長町・和徳町・鍛冶町の行列が描かれる。東長町は、町印が二重の傘鉾の上に青竜刀を載せ、傘の柄の部分に「東長町」と記した額が掲げられたものである。本図には練物は描かれていないが、当初の「稲荷台乗」というものが、文化3年(1806)から現存している「福禄寿と大黒天の角力」に変わった。長髯・長頭の福禄寿は、幸福・富貴・長寿を兼ね備えた神、一方大黒天は「大黒頭巾」として知られる頭巾をかぶった福徳の神として知られる。山車は「布袋山」である。布袋(ほてい)は、名を契此(かいし)といい、中国の唐末に実在した人物で(?~916)、太鼓腹で日用品を入れた袋を持ち、吉凶や天気を占い、喜捨を得ていたという。日本においてはその円満相が好まれ、いつの頃からか七福神の一人として信仰されるようになった。「布袋山」は、太鼓腹の布袋が大きな袋を背にして笑っており、袋の上と傍らに3人の唐子がいて布袋と戯れている様子が表わされている。東長町には藩出入りの豪商として知られた片谷清次郎がおり、その初代が布袋山を、また4代が福禄寿・大黒天の相撲人形を京都から購入して町に寄付したという。
 和徳町は、町印が傘鉾の上に金色の鳳凰を載せたもので、その下に「和徳町」という額を掲げる。山車は「米山」で、うずたかく積まれた米俵の上に、稲荷神の眷属である狐が向き合って乗っている。和徳町には和徳稲荷神社があることから、深い関わりのある稲荷に関わりのある狐と米を象徴物として、町内の繁栄を願ったものとみられる。
 鍛冶町は、町印が傘鉾の上に三条小鍛冶宗近(さんじょうこかじむねちか)の人形を載せ、真ん中に長刀と御幣をたて、「鍛冶町」と記した団扇型の額を掲げたものである。三条宗近は平安時代に名刀を製作した刀工として知られる人物で、「小鍛冶」とは錬鉄から製品を作る鍛冶のことをいう。山車は「道成寺山」または「鐘巻山」といい、紀伊の道成寺に伝わる修行僧安珍と清姫の物語に題材を取り、恋の嫉妬に狂った清姫が、執念によって半身が蛇、半身が鬼となって、安珍が身を隠している道成寺の釣り鐘に巻き付き、二人の山伏がその前で加持祈祷を行っている姿である。清姫の人形につけられた鬼の面は、藩の御用鋳物師で、鍛冶町に住んでいた坂本久左衛門家に代々伝えられてきた物という。町印・山車とも、刀工や鋳物師が集住していた鍛冶町に相応しい題材が選ばれている。
 巻四には新町と紺屋町の行列が描かれている。新町の行列は、町印が傘鉾の上に、唐物の壺を象り、その上に唐子が乗って脇に2本の吹き流しを立て、傘の下に団扇型の「新町」という額をつけたものである。山車は「雪山」で、雪の山の上で、赤い着物に白い帯をした童女が転んでいる姿を象っている。雪は豊年の前兆とされており、豊作祈願が込められたものと考えられている。
 紺屋町の行列は、町印が山なりに垂れ下げた金色の馬簾の上に、左手に団扇を持ち、吹き流しをつけた風車を右手で握った唐子の人形をおき、下部に「紺屋町」と記した額をつけている。山車は、初め幸若舞や歌舞伎の題材として知られる和田義盛(わだよしもり)(1147~1213)の酒宴に呼ばれた大磯の遊女虎御前(とらごぜん)のエピソードを象った「和田酒盛山」だったが、文化3年(1806)以降、謡曲やそれを元にした歌舞伎にも題材として取り上げられている「紅葉狩」を主題とした「紅葉狩山」に変わっている。「紅葉狩」は、平安時代に実在した武士平維茂(たいらのこれもち)を主人公にしている。あらすじは、次のようなものである。信濃戸隠山(とがくしやま)(現長野県長野市所在)に維茂が鹿狩りに出かけたところ、紅葉狩をしている女性の一向に出会い、誘われるまま酒宴に連なる。実は鬼神である女の舞に見とれて眠りに陥った維茂のもとに石清水八幡宮の末社の神が現れ、夢うつつのうちの維茂に太刀を授け、身の危険を知らせる。目覚めた維茂は太刀を手に待ち構え、正体を現した鬼神と闘い、退治する。山車はこの話のクライマックス、鬼神に維茂が神授の太刀を抜きはなって立ち向かう姿を象っている。
 亀甲町の行列は、町印が赤地の布を脇に垂らした水色の傘鉾のうえに、松の生えた島を象り、その上に大きな鯛を左脇に抱え、右手に釣り竿を持った恵比寿が座っており、鉾の下部には「亀甲町」と記した額がつけられているものである。山車は、前方に鳥居を置き、その後に入母屋造りの神殿を作り、3本の幣束を立てた後ろに幣束を肩に担いだ神主、巫女、神社の管理をする別当の僧の3体の人形を置く「鳥居山」というものである。
 これら町方の行列の後、巻五には神主・別当が従った八幡宮の神輿が描かれ、跡乗として馬上の手廻組士・徒頭・町奉行らが、鉄炮・弓・槍の部隊を伴って押えとなっている。これら行列の詳細については、弘前図書館に行列の次第書などが複数残されているので、併せて参照されたい。
 これまで触れてきたように、町印や山車は、中国や日本の故事、能・狂言・歌舞伎から題材を取り作られているのが特徴的である。本町・親方町の練り物が咲き誇る牡丹の花であるのは、津軽家の家紋が杏葉牡丹であることを踏まえてのもので、同家の繁栄を意味するものであろうし、他の町も町に関わりのある象徴物や、町内の繁栄を願う題材を取り上げるなど、山車や練物には寓意が多く含まれていることも指摘することが可能である。
 この絵巻を描いたのは、江戸時代後期に活躍した弘前藩の御抱絵師今村養淳惟慶だといわれている。今村家の初代朴元常慶は、江戸時代前期、京都から江戸に出て、幕府奥絵師狩野常信(かのうつねのぶ)(養朴、1636~1713)の門弟となり、天和元年(1681)に15両5人扶持で津軽信政に召し抱えられた。その後、同家は幕末に至るまで6代にわたって、新井家、秦家とともに御抱絵師三家の一つとして、御抱絵師を勤めた。
 弘前藩の御抱絵師の作画活動には明らかではない点も多くあるとされるが、その職務の立場上、自らの責任で作画し、署名押印できたのは極めて少なく、結果として描いた作品の数は極端に少ない。「弘前藩庁日記」などによれば、御抱絵師の主な仕事は城中で使用する調度品の装飾絵画や神社仏閣に奉納する絵馬、藩主の肖像画、絵図作成、藩士への下賜品製作、藩主に随行し絵画的な記録などに従事することだった。
 弘前藩の御抱絵師は、幕府奥絵師四家の一つである木挽町狩野(こびきちょうかのう)家と門人関係を結んでいる。2代狩野養朴常信には新井寒竹常償、新井朴也常寛、今村朴元常慶、片山養和、秦養雪、秦養雲常貞、3代如川周信には秦如春周武、4代栄川古信には今村正元古慶、6代栄川院典信には新井寒雪典慶、今村栄里典慶、7代養川院惟信には新井養雪惟償、今村養淳惟慶、9代晴川院養信には今村渓寿栄慶、新井晴峰養償、新井晴斎、10代勝川院雅信には新井勝峰寒斎がそれぞれ師事している。
 今村家の4代目に当る今村養淳惟慶は栄里典慶の次男で、幼名を三次郎という。天明3年(1783)に父の死後兄の乙次郎が忌明け前に死去したため、家禄を5人扶持に減じられたものの、特別の計らいで家督を継いだ。寛政年間から享和年間にかけて狩野惟信に師事して修行した。寛政元年(1789)3月11日に加禄されて金7両5人扶持、同9年3月28日に再び禄を加えられ、金12両6人扶持となっている。その画風について中畑長四郎氏は「生来温厚な性格と見られ、残されている作品を見ると、人物、武者絵などでも比較的柔らかく短い肥痩線と、優しい顔立ちのものが多い」と評し、また本「弘前八幡宮祭礼図巻」については、「温雅でしかも正確な筆写力、何にも増して絵師の持続する熱気のようなものに心うたれる」と評している。養淳の門下には息子で5代目を継いだ今村渓寿栄慶をはじめ、黒滝保助、今井玉慶、山口墨海がいる。養淳は文政6年(1823)12月20日に隠居している。
 八幡宮の祭礼行列は、18世紀半ば以降、領内で凶作や飢饉が発生したり、藩財政が窮乏すると、規模を縮小して神輿渡御の行列のみとなったり、町人の参加する華やかな行列はしばしば中止されたり、警固に出る家臣の員数も削減されることも増えた。
 近代に入って、城下町弘前の大きな祭りである八幡宮祭礼とねふた流し(ねぷた)には、異なる運命が待ち受けていた。八幡宮祭礼における神輿渡御行列は明治15年(1882)に中止になり、それ以降明治39年(1906)に開かれた藩祖300年祭に山車の巡行が行われたが、その後は市中巡行の機会はなく、戦後は昭和24年(1949)の弘前市政60年を記念して展示されたのみであった。
 弘前八幡宮の祭礼行列は、藩という政治権力によって作り出され、保護された祭りであった。したがって、藩の政治的危機にはその影響が如実に波及することになった。城下の民衆たちは、藩から命じられて山車や練物などを出したが、祭礼のための道普請、神馬飼育、神輿昇などは各町に賦課される形で町人たちから人足の出役が行われ、彼らが自主的に祭祀や祭事の運営に参加するものではなかった。そして、出し物の藩主上覧を通じて、上下の一体感を高めるという政治的な目的のもとにおかれる立場だった。実質的に祭りを維持・運営していた藩が廃され、藩主が統治者の座から降りると、祭礼の政治的な効用も喪失したのである。そして最終的には祭礼自体も衰退したのである。
 一方、町人が七夕行事として行っていたねふた流しは、享保7年(1722)に藩主津軽信寿が見物した際には、城下の町々が色とりどりの飾り物や灯籠を出して行列するものであったが、文政年間(1818~1830)になると、若者たちが担ぐ佞侮多や子供たちによる灯籠、藩士や町人が奉書紙に絵を書いた2人持の小佞侮多を出しており、さらに弘化年間(1844~1848)には、町々の若者連が、関羽(かんう)、朝比奈(あさいな)、黄石公(こうせきこう)、張良(ちょうりょう)といった中国や日本の故事などを題材に大ぶりの佞侮多を作るようになった。さらに町人たちは藩に請願して、祭りの藩主上覧が行われるようになった。そもそも七夕という慣習から生まれ、町内の若者連中、下級藩士たちが広く祭りに関与することで、町に根付いた祭りは、藩が消えた後も城下町の人々に支えられて存続し、やがて弘前を代表する夏祭り「弘前ねぷた」へと発展したのである。
 現在、弘前八幡宮例大祭は8月1日で、津軽神楽(つがるかぐら)の奉納などが行われて賑わうが、城下最大の祭礼を誇った往時の勢いはない。一方、残された山車や町印は、藩政時代の弘前城下の暮らしと文化を伝える貴重な遺産という評価がなされ、下白銀町の追手門広場にある弘前市立観光館の山車展示館において保存・展示され、過去の賑わいを伝えている。
 弘前八幡宮の祭礼については、下記の高牧實氏の論考が充実しているし、一般向けに祭りの変遷を解説したものとしては田澤正氏の著書がある。また『新編弘前市史』編纂時の年報・紀要として刊行された『市史ひろさき』1号~10号(1992~2001年)には、この「祭礼図」の紹介と共に山車の解説も付されている。本稿でもこれらの成果を参考にした。なお、関連する史料として、弘前八幡宮古文書(弘前大学附属図書館蔵貴重資料)中に「八幡宮社務日記」が残されているので、併せて参照されたい。(千葉一大)
【参考文献】
森山泰太郎「弘前の山車」・篠村正雄「弘前八幡宮」・羽場徳蔵「弘前藩お抱え絵師」(『青森県百科事典』東奥日報社、1981年)
『津軽の絵師』(弘前市立博物館、1982年)
久留島浩「近世における祭りの「周辺」」(『歴史評論』439、1986年)
船水清『青森県の文化シリーズ 6 改訂 津軽の祭りと行事』(北方新社、1990年)
中畑長四郎『津軽の美術史』(北方新社、1991年)
高牧實「城下町弘前における祭礼」(『平成3年度科学研究費補助金(一般研究C)研究成果報告書 近世東北地方における都市と祭礼の研究』研究代表者高牧實、1992年)
鳶米黒和三(ロナルド・トビ、黒田日出男)「都市の祭礼文化―土浦と川越の祭り絵巻から―」(『朝日百科日本の歴史別冊 歴史を読みなおす 17 行列と見世物』朝日新聞社、1994年)
武田恒夫『狩野派絵画史』(吉川弘文館、1995年)
高牧實『近世の都市と祭礼』(吉川弘文館、2000年)
田澤正『半穂独言集4 弘前八幡宮祭礼詳解』(北方新社、2008年)
『弘前八幡宮祭礼図 全(写真複製版)』(弘前市立弘前図書館、2008年。弘前市立弘前図書館2階調査室に架蔵) 
解題・説明(英語)
- 
原本の所在
弘前図書館 
資料番号
通史3-024 
管理記号
KK176/ヒロ1~5 
自治体史掲載
弘前八幡宮祭礼図 
資料種別
絵図