弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

史資料
目録データ 静止画(写真・絵等)
識別番号
0000-0010-0010-0000-0000-1100-0000 
資料所蔵機関の名称
弘前図書館
資料群1
> 津軽家文書
タイトル
> 青森御町絵図  
タイトル読み
アオモリ オンマチエズ 
タイトル(ローマ字)
Aomori onmachiezu 
撮影、作画年(和暦)
寛文初期 
数量
1枚 
大きさ(縦)
88cm 
大きさ(横)
161cm 
その他の注記
写 
テキストの言語
日本語 
テキストの言語コード
jpn 
解題・説明
 寛永2年(1625)、弘前藩は現在の青森の地に、森山弥七郎(もりやまやしちろう)を開港奉行として港と町づくりを始めた(「津軽一統志」巻八・「津軽徧覧日記」二)。同年5月15日付の幕府年寄連署奉書(「津軽一統志」巻八所収)によって、弘前藩は願い出ていた津軽から江戸への廻船を認められているが、青森開港は、弘前藩がこの時認められた海路(のちに東回り航路と呼ばれる)を利用して、江戸廻米を実現しようとしたことと密接な関連性を有すると考えられる。
 「封内事実秘苑」巻第二に見える寛永3年4月6日付で森山弥七郎に宛てた藩主津軽信枚(つがるのぶひら)(1586~1631)の黒印状によれば、森山が差配する青森町に「自他無縁之者」を望み次第居住させ、10年間にわたり年貢・諸役を免除する特権を付与している。また同書に見える同日付の家老連署条書(かろうれんしょじょうしょ)では、外浜(そとがはま)の商人船を青森に寄港させること、町人たちに高岡(のちの弘前)城下と同様の特権を付与し、月に6日定期市を開くこと(六斎市(ろくさいいち))を承認した。さらに寛永6年11月13日付家老連署条書では、木綿・小間物の売買を青森において行うことを認め、商船の青森入港を再び規定するとともに、居住する商人が田畑を耕作しない限り以後も町人として扱い、年貢納入を免除するとしている。商船の入港規定は、「津軽古今農商一貫記(つがるこきんのうしょういっかんき)」(東京大学史料編纂所蔵)所収の寛永11年(1634)3月22日付藩主津軽信義(つがるのぶよし)(1619~1655)印判状にも見え、そこではこの規定が新開地青森の振興を目的とするものであることが明確に示されている。
 「津軽徧覧日記」二によれば、青森は3年で町場が形成されたとも、また寛永3年に町が成就したともあるが、いずれにせよ、青森の町や湊は藩主導で形成されたものであり、その急速な発展は、藩が外浜(そとがはま)における唯一の商港として青森湊を位置づけ、それ以外への商船入港を禁止したことや、移住促進策や城下同様の特権を町人に付与したことなど、さまざまな優遇策を藩が採ったからに他ならない。
 開港と町の形成より間もない17世紀半ばに描かれたとみられるのがこの「青森之図」(「青盛御町絵図」)で、形成期の青森の主要街区、町名、蔵屋敷などの施設を描く、藩政期の青森町を描いた絵図では最も古いものである。
 ここに描かれている青森の街区は碁盤の目状で、東西に四条の道が走っている。現在の青森湾に近い北側から、上浜町(はままち)・仲浜町(なかはままち)・下浜町(現青森市安方2丁目・本町2~5丁目の一部)・蜆貝町(しじみかいまち)(同市青柳1~2丁目の一部)、次の街路には上町・中町・下町(大町、現同市安方2丁目・本町2丁目・同5丁目のそれぞれ一部)・塩町(現同市青柳2丁目の一部)、三段目には上米町(こめまち)・中米町・下米町(現同市新町2丁目・本町2丁目・同5丁目のそれぞれ一部)・馬町(博労町(ばくろうちょう)、現同市青柳2丁目の一部)、もっとも南側の街路には御百生(姓)町(のち新町、現同市新町1~2丁目・長島1丁目のそれぞれ一部)・寺町(現同市本町1丁目)・御百生(姓)派(はだち)町・大工町(現同市橋本1丁目・堤町1丁目・本町5丁目・青柳2丁目のそれぞれ一部)、また街区の西側に善知鳥沼と海岸に挟まれて安方町(やすかたまち)(現同市安方1~2丁目の一部)が見える。「御百姓町」「御百生派町」が町内に存在することから見て、青森町の一画には百姓と町人が入り混じっていたであろうことがうかがえる。
 図中に見える施設としては、蜆貝町に「左京様御蔵屋敷」、すなわち黒石領主の津軽左京信敏(つがるさきょうのぶとし)(黒石津軽家、1646~1683)の蔵屋敷が置かれている。上浜町に船舶の出入りを掌る沖口番所(おきのくちばんしょ)や湊への出入りを監視する遠見矢倉がある。また寺町には、禅宗の常光寺・浄土宗の正覚寺・門徒宗の蓮心寺・法華宗の蓮華寺の四か寺が存在している。町の西側、善知鳥沼(うとうぬま)の中洲のようなところ、現在の善知鳥神社(うとうじんじゃ)の地は「御蔵屋敷」となっており、水路を通じて堤川、さらには海に通じる水運の便のあるこの地に、弘前藩の蔵屋敷が置かれていたことになる。絵図の右上方の貼紙には「御屋敷場所」とあって、寛文11年(1671)に置かれた御仮屋の位置が示されている。
 なお、町の郊外、堤川の周辺に大小二つの古館が見えるが、このうち堤川と駒込川との合流点付近にある南北160間(約290メートル)、東西144間(約260メートル)の館は、15世紀末に南部家から津軽の押さえとして派遣された南部一門の堤弾正の居館であったという。(千葉一大)
【参考文献】
乕尾俊哉監修『日本歴史地名大系 第2巻 青森県の地名』(平凡社、1982年)
みちのく北方漁船博物館編集・発行『絵図に見る青森湊の景観』(2011年)
青森市史編集委員会編集『青森市史』通史編第2巻近世(2012年) 
解題・説明(英語)
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原本の所在
弘前図書館 
資料番号
資料2-04 
管理記号
TK290.3-27 
資料種別
絵図