弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

史資料
目録データ 静止画(写真・絵等)
識別番号
0000-0010-0010-0000-0000-0940-0000 
資料所蔵機関の名称
弘前図書館
資料群1
> 津軽家文書
タイトル
> 御城郭御絵図下画  
タイトル読み
ゴジョウカク オンエズ シタガ 
タイトル(ローマ字)
Gojokaku on'ezu shitaga 
数量
1舗 
大きさ(縦)
219cm 
大きさ(横)
172cm 
その他の注記
写 
テキストの言語
日本語 
テキストの言語コード
jpn 
内容
貞享4年(1687)金沢勘右衛門が差上げたものか 
内容読み
ジョウキョウ ヨネン センロッピャクハチジュウシチ カナザワ カンエモン ガ サシアゲタ モノ カ 
内容(ローマ字)
Jokyo yonen senroppyakuhachijushichi Kanazawa Kan'emon ga sashiageta mono ka 
解題・説明
 本図は弘前城の絵図の下図である。縮尺は1分1間で、長さ6寸を1町としていることが記されている。また、堀の幅や石垣・土塁の高さなどが注記されている。この絵図は、貞享4年(1687)、測量や和算に優れた藩士の金沢勘右衛門が差上げたものと考えられている。
 金沢の履歴については、羽賀與七郎氏が「弘前藩庁日記」(「国日記」「江戸日記」)を丹念に調査し成果を論文として発表している。それによれば、金沢は天和2年(1682)5月1日に江戸において金8両・4人扶持で御勘定役として召し出され、津軽家に仕え始めた。この後に見るように、国許には藩主参勤の際に下向する形をとっており、家族も江戸屋敷の長屋に居住していたことから、江戸詰(定府)の家臣であった。
 弘前藩では同年3月19日に旧越後高田藩領の検地を幕府から命じられていたが、勘定役や物書などの不足を生じていたため、新規に召し抱えていたが、金沢の招聘もこの時期と重なっているが、高田検地には参加していない(別項「越後国高田領御検地御用之事申来候儀并御人数役付仰候覚」を参照のこと)。
 金沢は、貞享元年(1684)の藩主津軽信政の帰国に先発して初めて弘前に下向し、9月から家中に測量術を伝授し、さらに勘定所に勤務するようになった(「国日記」同年9月7日・18日条)。翌年3月に「一倍之御加増」が行われ(「国日記」同年3月10日条)、5月に入り信政の参勤に扈従して江戸に戻っている。
 翌貞享3年閏3月に再び国許に向かった金沢は、4月から藩命によって領内絵図の作成にあたり、11月に絵図が完成している(「国日記」4月2日・3日・5日・11月19日条)。この絵図の出来栄えが大変優れていたため、翌年正月に絵図作成の継続が命じられ、さらに「御城図」の作成が命じられている(「国日記」正月15日条)。本図はこの「御城図」の下図と考えられている。金沢は同年4月20日に弘前を出立し、5月6日に江戸に到着している(「江戸日記」5月6日条)。この年は藩主信政が子の資徳を養子に送った那須家の御家騒動に連座して閉門を命じられるという、津軽家にとって危機的状況に陥った。また凶作によって、百姓には節米を、また藩士には倹約が命じられた(「国日記」10月27日条)。このような津軽家の危機に対する懸念や凶作によって下級藩士が永の暇を願い出る例が相次ぎ、金沢も勝手不如意として暇を願い出たところ、精勤と国許での功労が認められ、金10両が与えられている(「江戸日記」元禄元年11月27日条)。金沢のもつ技能と勤務態度が大きく評価された引き留めであろう。
 元禄3年(1690)8月の藩主信政の帰国に先立って帰国した金沢は、9月に「御用之絵図」の作成を命じられ(「国日記」9月21日条)、翌年にかけて黒石(くろいし)・平内(ひらない)の絵図を作成している。これは黒石領との領境の確認のために作成された絵図であった。12月18日にはこれまでの扶持・金給を知行に改められ、150石の知行取となった(「国日記」)。翌年3月の信政の参勤に扈従した金沢は、秋に罹病し、閏8月9日死去している(「江戸日記」)。跡目は子の喜太郎が相続し、元禄6年に留守居組(るすいぐみ)、ついで御小姓組(おこしょうぐみ)に召し出されたが、元禄11年12月に行方知らずとなり(「江戸日記」12月11日条)、藩士としての金沢家は断絶した。
 ただ、金沢の測量術は、元禄9年から同14年まで藩の普請奉行(ふしんぶぎょう)を務めた石郷岡(いしごうおか)八九郎建仲、中小姓・近習番・馬廻(うままわり)・馬廻番頭を相次いで務めた外崎(とのさき)十郎右衛門好賢(?~1752)とその子で馬廻番頭・手廻(てまわり)番頭となった三太左衛門好栄(?~1786)に受け継がれ、その後、藩の宝暦改革の主導者である乳井貢建福(にゅういみつぎのりとみ)(1712~1792)に受け継がれた。乳井は明和6年(1769)に、伝えられた測量の技術を『了見術』(中道等校編『乳井貢全集』第4巻、乳井貢顕彰会、1937年に所収)という書にまとめている。(千葉一大)
【参考文献】
羽賀與七郎「弘前藩の和算家について―第四代信政公時代―」(『科学史研究』31、1954年)
羽賀與七郎「測量家金沢勘右衛門」上・下(『日本歴史』118・120、1958年) 
解題・説明(英語)
- 
原本の所在
弘前図書館 
管理記号
L2 
資料種別
絵図 
権利関係
クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
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