弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

史資料
目録データ 静止画(写真・絵等)
識別番号
0000-0010-0010-0000-0000-0590-0000 
資料所蔵機関の名称
弘前図書館
資料群1
> 津軽家文書
タイトル
> 江戸御中屋舗図  
タイトル読み
エド オンナカヤシキ ズ 
タイトル(ローマ字)
Edo onnakayashiki zu 
別タイトル
附御中屋舗表御門御絵図面(明和9年御類焼前之図) 
別タイトル読み
ツケタリ オンナカヤシキ オモテゴモン オンエズメン メイワ クネン ゴルイショウ マエ ノ ズ 
別タイトル(ローマ字)
Tsuketari Onnakayashiki omotegomon on'ezumen meiwa kunen goruisyo mae no zu 
撮影、作画年(和暦)
享保13年 
撮影、作画年(西暦)
1728 
数量
2舗 
大きさ(縦)
43cm 
大きさ(横)
111cm 
その他の注記
写 (御日記方蔵印) 
テキストの言語
日本語 
テキストの言語コード
jpn 
解題・説明
 明暦3年(1656)に発生した明暦の大火以前、江戸の大名屋敷は華やかで壮大な桃山風の建物であった。屋敷に建つ門もその例外ではなく、金箔や漆、精巧な彫刻で飾られており、寛永年間(1624~1644)の江戸市街を描いた「江戸図屏風」(国立歴史民俗博物館蔵)では、徳川義直(よしなお)(尾張藩主)・徳川頼宣(よりのぶ)(和歌山藩主)・徳川忠長(ただなが)(駿河(するが)府中(ふちゅう)藩主)・松平忠昌(まつだいらただまさ)(福井藩主)の屋敷のように、表門の他、将軍御成(おなり)に備えて将軍の入退出用の御成門(おなりもん)を持つ屋敷や、伊達政宗(だてまさむね)(仙台藩主)や島津家久(しまづいえひさ)(鹿児島藩主)の屋敷のように御成門のほかに二階櫓門を並べ建てる屋敷、井伊直孝(いいなおたか)(彦根藩主)や松平光長(高田藩主)のように切妻屋根の大棟門(おおむねもん)を表門とする屋敷などが描かれている。
 明暦大火後、大名屋敷の建築は幕府の規制や将軍御成の減少に伴って簡略化され、門の意匠も定型化されていった。門のつくりとしては、表長屋の一部に門扉を設けた長屋門(ながやもん)、2本の門柱に屋根を懸けず冠木(かぶき)をのみかけた冠木門(かぶきもん)といった形式がみられた。幕臣で国学者の大野広城(おおのひろき)(1788~1841)が編纂し、天保11年(1840)に刊行された『青標紙(あおびょうし)』前編(国立国会図書館、国立公文書館などに所蔵あり)には、大名屋敷の門の形態を示す挿絵が掲げられている。そのいずれも単層門で、国持大名(くにもちだいみょう)は表長屋とは独立した形の長屋門を建てることが許されていた。入母屋(いりもや)の尾根をかけ、両開きの大戸(おおど)の両脇に1枚開きの潜戸を設け、それを冠木でつなぎ、その脇に石垣を土台にして唐破風(からはふ)屋根をもつ門番所を張り出す造りである。10万石以上の大名は表長屋に長屋門で、大戸とその両脇に潜戸(くぐりど)、潜戸の脇に石垣を土台とし本破風(ほんはふ)屋根を持った門番所を張り出している。5万石以上の大名も同様に長屋門形式をとっているが、門番所の屋根は片流れである。江戸城の殿席が雁間詰(がんのまづめ)の大名、あるいは5万石以下の大名も大戸の脇に潜戸を持つ長屋門形式であるが、番所を門から張り出すことは許されず出格子のみを張り出している。一方、火災で焼失した大名は冠木門を立て、塀に片開きの潜戸を設け、国持大名・准国持(じゅんくにもち)の場合は屋根を入母屋とする番所を設け、また5万石以上の大名は長屋から直接番所を張り出していた。すなわち、これらの門の規格には、大名の家格によって格差が存在していたのである。
 門の規格は幕府によって厳密に定められ、規制を受けていた。それを示すものとして、文化6年(1809)6月の出羽高畠(たかはた)(現山形県東置賜郡(ひがしおきたまぐん)高畠町)藩主織田信浮(のぶちか)(1751~1818)からの伺に対する幕府の回答がある。幕府はこの中で具体的に門のつくりと、それを建造できる資格について言及している。それによれば、国持大名や領知高10万石以上の大名、さらに10万石以下の大名であっても侍従(じじゅう)に任官が可能な家柄であれば、門中央の大戸の脇に2つの潜戸と対の門番所を設けることが可能であるが、門番所の屋根を唐破風(からはふ)造りとすることは無用とされた。10万石以下5万石以上の大名は2つの潜戸と対の門番所を設けることが可能だが、門番所は門から窓から格子を外部へ張り出す「出格子(でこうし)」とし、屋根の形は片流れの「片庇(かたびさし)」とされた。ただし格子の下に土台を設け門から番所を張り出させる形にすることも認容された。表門をつくる場合、それまでとは異なる形式での新規建造、以前存在していたが一度中絶したりした場合には、旧来と同じ形式の門や番所をつくることは不可能とされた。5万石以下でも古来より連綿と従来の門を用いてきた場合は例外だが、新規に屋敷の家作に対する修復などを行った場合は両門番所を無用とした。長屋門の規模については、国持大名は3間梁、万石以上は2間半梁、万石以下は2間梁とされた。また、表門に家紋を付けることが許されるのは国持大名と帝鑑間(ていかんのま)席の譜代大名、柳間(やなぎのま)席の外様大名、旗本だが老中支配で参勤交代を行い大名並の処遇を受ける交代寄合などに限られ、長屋門は万石以上にのみ許されるが、5万石未満は対で門番所をつくることを許されなかった。これらの微に入り細にわたる規格は貞享年間(1684~1688)に定められていたとしている(『青標紙』前編)。
 また文政7年(1824)2月、熊本藩が藩主細川斉樹(ほそかわなりたつ)(1797~1826)の名で、幕府に提出した伺書で、大名屋敷の表門の左右に、門番の控える番所の有無に格合があるのかないか、左右いずれかのみに番所の有る「片番所」の場合、新規に左右の番所を付けてはならないのかと問い合わせたのに対し、幕府は、大名屋敷の表門のうち、長屋とは別棟の独立した門の場合には、既存のものはともかく、新規に立てることは許さないとした。また、表門の左右に番所がある場合、家柄として昔から引き続き行ってきてきた場合は特別で、新規に作るのは認められないこと、また独立門形式の場合でも同様であると回答している。表門の建築には幕府の規制が存在すること、また門脇の番所が居住する大名の家格を表象するものであったことも明らかである(「監察問答」下、大蔵省編纂『日本財政経済史料』巻8、財政経済学会、1923年、1227頁)。
 本図は江戸向柳原(むこうやなぎはら)(現東京都台東区(たいとうく)浅草橋(あさくさばし)4丁目~5丁目)中屋敷表門の外観を描いたものである。貼札が絵図の右上隅にあり、「明和九辰年御類焼前之図」とある。明和9年(1772)2月29日に江戸で発生した火事(明和の大火、目黒行人坂大火)で、向柳原中屋敷は焼失しており(「津軽徧覧日記」九)、その焼失前の姿を描いたものである。門の形式は入母屋の大屋根をもつ独立形の長屋門で、大戸の他、その両脇に潜戸があり、本破風屋根を持つ番所を対で持っている。また、冠木に津軽家の家紋である津軽牡丹紋の金具が三つ取り付けられている。本絵図から判断して、明和9年に焼失する以前の向柳原中屋敷の門は、津軽家の有する家格よりも高い格式で作られていた門であったことがうかがえる。(千葉一大)
【参考文献】
大野広城『青標紙』(江戸叢書刊行会編『江戸叢書』巻之二、名著刊行会、1964年)
小川恭一編『江戸幕藩大名家事典』下巻(原書房、1992年)
成瀬晃司「門と格式」(古泉弘編『事典 江戸の暮らしの考古学』吉川弘文館、2013年) 
解題・説明(英語)
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原本の所在
弘前図書館 
資料番号
通史3-口絵3 
管理記号
TK203-61 
自治体史掲載
江戸御中屋舗図(明和9年御類焼前ノ図) 
資料種別
絵図 
権利関係
クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
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