弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

史資料
目録データ 古文書類
識別番号
0000-0010-0050-0000-0000-0100-0000 
資料所蔵機関の名称
弘前図書館
史料群
> 津軽古図書保存会文書
文書名
> 越後国高田領御検地御用之事申来候儀併御人数役付仰候覚  
文書名読み
エチゴノクニ タカダリョウ ゴケンチ ゴヨウ ノ コト モウシ キタリ ソウロウ ノ ギ ナラビニ ゴニンズウ ヤクツキ ソウロウ オボエ 
文書名(ローマ字)
Echigonokuni takadaryo gokenchi goyo no koto moushi kitari soro no gi narabini goninzu yakutsuki soro oboe 
別名
越後 高田 検地 
別名読み
エチゴ タカダ ケンチ 
別名(ローマ字)
Echigo takada kenchi 
文書名備考
天和2年(1682) 
作成年代始(和暦)
弘化4年 
作成年代始(西暦)
1847 
数量
1冊(19丁) 
寸法(縦)
24.5cm 
寸法(横)
19.0cm 
その他の注記
写 
テキストの言語
日本語 
テキストの言語コード
jpn 
関係する地名
越後 高田 
関係する地名読み
エチゴ タカダ 
関係する地名(ローマ字)
Echigo takada 
内容年代始(和暦)
天和2年(1682) 
解題・説明
 延宝年間(1673~1681)から元禄年間(1688~1704)にかけて、幕府直轄領や改易大名の旧領地などの検地がしばしば大名に対して命じられ、大名家では家老クラスのものを長に、家臣たちを検地の役人として現地に派遣し、幕府の定めた基準に従って検地を実施している。
 天和元年(1681)6月26日、越後騒動(えちごそうどう)によって、越後高田(たかだ)(現新潟県上越市)藩主松平光長(まつだいらみつなが)が改易・除封された。藩領は幕府の直轄地(御領(ごりょう)、御料所(ごりょうしょ)。俗に天領(てんりょう)と呼ばれる)となり、翌天和2年3月19日に4人の大名が分担して検地を実施するよう命じられた。すなわち、頸城郡(くびきぐん)のうち関川を挟んで西部を信濃高島(現長野県諏訪市)藩主諏訪忠晴(すわただはる)、同じく頸城郡東部と後の旧中魚沼郡域を信濃松代(まつしろ)(現長野県長野市松代町松代)藩主真田幸道(さなだゆきみち)、後の南・北魚沼郡域を信濃飯山(いいやま)(現長野県飯山市)藩主松平忠倶(まつだいらただとも)、そして旧刈羽・三島郡域を弘前藩主津軽信政がそれぞれ担当することになった。なお信濃小諸(こもろ)(現長野県小諸市)藩主西尾忠成(にしおただなり)にも検地役が命じられたが、後に免除されている。
 本史料には、この越後における検地開始にあたって江戸藩邸や現地から国許に伝えられた内容や、江戸・国許から現地に派遣された検地役人の名簿がまとめられており、この大名課役の概略を知ることができるものである。元々存在していた簿冊を、藩の郡奉行所の部局である地方が、この検地に関する他の史料(「越後高田ニ而検地手分之覚」・「越後高田領御検地ニ付役付之覚」・「越後高田行御検地諸道具覚帳」。いずれも弘前図書館蔵。新潟県編集・発行『新潟県史』資料編6近世1・上越編、1981年、277~290頁で翻刻)とともに、弘化4年(1847)に原本を保管していた御日記方から借用して写しとったものとみられる。
 本史料などによってこの課役の経緯を辿ると、課役が命じられると、弘前藩では派遣人員の選定を始め、3月21日に江戸藩邸から派遣される検地役人のうち22名がまず決定し、同28日には江戸から派遣する役人の陣容が定まっている。さらに国許に対しても検地役人の派遣が求められたが、例えば、竿奉行は戦時に藩主の親衛隊となる手廻・馬廻両組に属する者の中から9人を選ぶように、であるとか、検地帳面を仕立てる物書20人は中小姓・歩行・足軽・町人・百姓・家中の子弟などから選ぶようになど、選定の具体的基準が示されている。4月15日には惣奉行に手廻組頭を務める大道寺隼人繁清(だいどうじはやとしげきよ)が選ばれた。福井敏隆(ふくいとしたか)氏の研究によれば、この人事は番方の手廻組や馬廻組から竿奉行の多くが選ばれていることと関連しており、彼らが毎年の検見に派遣されたり、選ばれて代官の職に就いたり、領内の検地に従事するなど、地方巧者(じかたこうしゃ)と呼ばれる農政のプロフェッショナルが多かったことによる。
 検地実施に当たって、幕府は各藩役人に対して、検地を施行する際の基準を示した29か条の検地条目(けんちじょうもく)や他地域の検地資料を与えて、基本方針と検地方法を示し、さらに幕府と各藩の折衝により細部について定められ、実施方法について徹底が図られた。弘前藩は4月15日から17日にかけて江戸藩邸から検地役人が出立し、国許からも4月23日から25日に役人が越後に向けて出立している。結局弘前藩からは450人を超える検地役人が派遣された。4月28日に現地で検地の「竿初(さおはじめ)」を行い、5月2日に実際の検地を開始した。
 現地においては、事前に村々から田畑一筆ごとに上・中・下の等級を差し出させるとともに、土地利用を示した村絵図を提出させ、役人はそれらにもとづいて現場で測量を行い、田畑に上々・上・中・下・下々5段階の等級を付し、地字・面積・名請人(なうけにん)を記載した野帳(やちょう)を作成した。弘前藩は7月27日に検地を終了し、検地終了の報告を8月2日に江戸において老中・勘定頭(かんじょうがしら)(勘定奉行)・勘定組頭(かんじょうくみがしら)に行い、現地を最終的には11月11日に引き払っている。作成された野帳は、幕府の示した形式に従って整理され、それをもとにして検地帳が清書された。弘前藩では担当地域の検地帳の清書を11月7日に開始し、翌天和3年閏5月に完成させ、同月28日、大道寺と元締の間宮求馬勝守(まみやもとめかつもり)が検地総目録を幕府老中に提出、検地帳の清帳も6月9日までに幕府の越後代官に提出されている。なお、各藩の検地役人に対する幕府の褒賞は7月23日に江戸城檜間(ひのきのま)において行われている。
 なお、検地実施に当たって弘前藩では、実務責任者である検地奉行の財津久右衛門久治や検地奉行加役の田口十兵衛をはじめ、江戸から派遣された算者全員(5人)、竿奉行9人のうち3人、江戸から派遣された物書10人のうち7人など、派遣役人の一部を新たに召し抱えている。これは検地の任を下命された事態に対処するために、必要な人員を急遽家臣に雇用したことの現れであるといえる。(千葉一大)
【参考文献】
長谷川成一「北方辺境藩研究序説─津軽藩に課せられた公役の分析を中心に─」(同編『津軽藩の基礎的研究』国書刊行会、1984年)
福井敏隆「津軽藩における支配機構の一考察―天和・貞享・元禄期を中心として―」(長谷川成一編『北奥地域史の研究―北からの視点―』名著出版、1988年)
上越市史編さん委員会編集『上越市史』通史編3・近世1(2003年)
上越市史編さん委員会編集『上越市史』通史編4・近世2(2004年) 
解題・説明(英語)
- 
原本の所在・史料群
弘前図書館 
資料番号
通史2-090 
管理記号
乙11-621 
自治体史掲載
越後高田領検地拝命を伝える書状の写し 
資料種別
古文書