みやこ町歴史民俗博物館/WEB博物館「みやこ町遺産」

みやこの「こと(歴史・あゆみ)」

第五編 近世

第三章 江戸時代

第二節 藩政の推移と改革

四 差別制度の具体化と拡延

生活の困難は小倉藩だけではなく、特に十八世紀の半ばを過ぎるころからは、全国的にも農民騒動が頻発する。延享三年(一七四六)には、幕府の天領である豊後国日田代官所管内の村々の中、一〇カ村の農民男女四九〇人余が田川郡の添田に逃散(ちょうさん)してくるという事件が起こった。世情の騒然とした様が、小倉藩の農民の間に直接に伝わってくるのである。これは他人ごととして見過ごせないことが自分たちの生活の中から感じられてくる。
 藩当局はこれを風俗の悪化としてとらえ、なお一般に博奕(ばくち)などの勝負ごとや、芸人が村内に立ち入ったり、芸ごとが盛んになったり、あるいは盗賊などの横行が目立つなどで、藩では治安維持の強化をもって体制維持に努めねばならなくなった。寛延三年(一七五〇)と宝暦十年(一七六〇)、藩は取り締まりの達しを布告する。
 
   寛延三年(一七五〇)の達し
  一、御郡中において、踊り・繰(あやつ)りは申すに及ばず、その外術(じゅつ)致し候者、村内へ留め申す
    まじき旨、前々堅く申し付け置き候ところ、近来相緩み、村々へその芸を致させ、泊め候儀もこれあ
    り候よし、もっとも宿筋にて通りがかりに泊まり申すまじきものにてもこれなく候、しかるところ、
    往来の宿筋にてもこれなく候ところに、行き暮れ候と申すにつき、よんどころなく借(か)し候などと
    申す族(やから)も相聞こえ候、宿筋にてこれなく横行せしめ候はば、村々より往来へ送りだし、村中
    へ立ち入られ申すまじく候、右体の者留め候者もこれあり、その業(わざ)を致させ候えども、庄屋ど
    もさし留め候儀、相成りがたき筋もこれあり候はば、村中の男女、その場所へ壱人もさし出さず、右
    の趣早速御役人中へ申しいずべく候こと
  一、博奕・諸勝負、前々停止申し付け置かしめ候のところ、忍び忍びに相催し候趣相聞こえ候、村々人別
    吟味を遂げ、疑わしき者もこれあり候はば早速申しいずべく候、自然申しいずる次第も候はば、目安
    に書き入れ申すべく候、外より露顕せしめ候はば村中曲事(くせごと)申し付くべきこと
     付けたり、揚弓・三味線等、総じて在中不似合(ふにあい)の遊び、一切致すまじきこと
  一、近来村々盗人徘徊(はいかい)致し候、畢竟(ひっきょう)博奕などいたす者これあり、この業に取り入
    り、宿致し候につき、盗賊入り込み候儀と相聞こえ候、村々五人組は申すに及ばず、近村申し合わせ、
    相互に昼夜相しらべ、胡乱体(うろんてい)の者見当たり次第、早速召し捕り申しいずべく候、かつま
    た村々山番人ども儀は隣家これなくにつき、右体の者をも致す儀これあるべく候条、これまた念を入
    れ、心を付け、胡乱なる儀見聞次第、早速申しいずべきこと
     付けたり、御郡中穢多・非人ども儀は、盜人体相しらべ申す筈のところ、右の詮議をば致さず、か
    えって右体の者引きあわせ、宿をも借(か)し候よう相聞こえ候、ただいままで不調べにいたし候儀は
    その分にさし免じ候、この後随分心掛け、盗人または胡乱なるものども召し捕り候よう仕るべく候、
    この旨、村々庄屋どもより人別委細(いさい)に申し聞かすべく候、召し捕り候者には急度ほうび申し
    付くべきこと
  右の趣、御郡中村々はしばし、ならびに名子・荒仕子(あらしこ)に至るまで人別申し聞かせ、めいめい相
 互にしらべ合わせ、少々たりとも紛らわしき儀これあり候はば、その村々庄屋へ早速申しいずべく候、もし
 隠し置き、他所より相顕(あら)われ候はば、庄屋・方頭(ほうがしら)・五人組まで重科申し付くべき旨、
 堅く御申し付けこれあるべく候
                                              以上
   午(うま)の二月九日
 
    宝暦十年(一七六〇)の達し
  一、御郡中近来打続き作方(さくかた)よろしくこれあるにつき、自然と末々まで相ゆるみ、その上頭(か
    しら)立ち候者、不相応の遊興相催し候趣相聞こえ候…………(以下略)
  一、博奕・諸勝負、堅く停止せしめ候段………(以下略)
  一、博奕相催し候者召し捕り詮議を遂げ………(以下略)
  一、村々へ居り候非人どもは、諸人の恵みをもって渡世致し候につき、その方角に盗人ども立ち入り申さ
    ず候や、昼夜心掛け打ち回り申すはずの所、さはこれなく、近来、盗人召し捕り、宿等の調べ致し候
    えば、非人小屋へ宿致し、博奕致すの趣白状に及び候、以来胡乱の者参り候は、その通りに致し置き
    候はば、かえって所の害を致させ候につき、穢多どもへ申し付け、存分に片付けさせ申すべきこと
  一、非人ども村々打ち回り候節、博奕取り扱いなど致し候ものどもこれなきや気を付け、博奕相催し候
    体(てい)相見え候は、見定め候てその座へ立ち入り、有り合わせの米銀押さえ取り、その次第申しい
    づべく候、もっとも押さえ取り候米銀は多少に限らず、直にさし遣わし候条、この旨穢多頭より申し
    付け置き候よう申し聞かすべきこと
  一、博奕取り扱い候を………(以下略)
  一、御郡中の者ども…………(以下略)
  右の趣、堅く相守り申すべき段、人別委(くわ)しく申し聞け候よう御申し付けこれあるべく候
    辰(たつ)の四月五日
 
 藩では寛延三年(一七五〇)、宝暦十年(一七六〇)の二度にわたって、風俗のゆるみを戒めるとともに、穢多・非人に対して、これら違反者・犯罪者の取り締まりを命じている。特に非人がこれらに加担していることも考えられるとして、穢多は非人の監督を厳重にするよう達している。
 宝暦十年(一七六〇)の達し文によると、これら悪風俗の流行は「近来打ち続き作方よろしく……(中略)……不相応の遊興相催」すことになったのが一因となっている。実際に作方がどの程度よろしかったのか不明であるが、安永三年(一七七四)、五年(一七七六)と疫病が流行して多くの死者を出し、安永七年(一七七八)は暴風雨で損害の大きな年であった。藩の達しに見られる悪風俗の流行は、小倉藩に限ったことではなく、封建体制維持の上からする全国的な問題であった。旅僧・修験(しゅげん)・瞽女(ごぜ)・座頭(ざとう)・物もらいや浪人体の者などが村々を徘徊し、合力(ごうりき)・止宿を強要することが増え、安永三年(一七七四)幕府は穢多・非人にこれらを捕らえさせるよう触れだしている。享保期の農村荒廃からの復興に当たり、多くの浮浪者が出るとともに、彼らは被差別部落に落ち着きの場所を求めたと思われる。小倉藩でも出奔百姓が被差別部落に入っていくので、その取り調べを実施しており、このことからも、それは裏づけられる。そこには被差別部落とその人びとの実力がしだいに上昇していったことが考えられるのである。