田川市立図書館/筑豊・田川デジタルアーカイブ

解説

田川地方の巡礼文化

概要

 巡礼文化の広がりみていくと、観音信仰は我が国では飛鳥時代から聖徳太子の救世観音などの造像例があり、現世利益を説き時代や地域を問わず、人々から受け入れられていきました。平安時代には長谷寺・清水寺など社寺巡礼の観音霊場めぐりが「西国三十三ヶ所」として定められ、民衆の信仰心は全国に広まっていきました。赤村大内田の瑞宝山朝日寺(ちょうにちじ)は最澄が作像した観世音菩薩像を安置したという伝承があります。朝日寺は大内田の観音様と呼ばれ、小笠原忠真公が豊前に入国のおり「豊前三十三ヶ所」霊場の三十一番霊場となりました。後に「田川西国三十三ヶ所」が定められましたが、現在は途絶えてしまいました。
 地蔵信仰は平安時代後期の末法思想や浄土信仰とともに広まり、中世には六道輪廻の地獄・極楽思想が現世利益的となり俗信化しました。足利尊氏も信仰していたように、さらに根深く人々の心を捉えていきました。江戸時代には延命地蔵・子育て地蔵などとして、より分化して広まっていきます。
 「六十六部廻国巡礼」は国分寺などに法華経を納める巡礼ですが、僧侶や山伏により巡礼行として18世紀前半以降大流行しました。さらに、江戸中期には全国に四国遍路を擬した新四国遍路が流行し、今日の社寺参詣・巡礼につながっています。このように鎌倉時代以降には、熊野信仰・高野詣・伊勢の神明信仰なども、講という民衆の共同組織で結縁しながら巡礼文化は広まっていきました。九州北部の英彦山詣も同様の側面を持ち、英彦山霊泉寺は「九州西国三十三箇所」の第1番札所として有名です。
 篠栗巡礼開創は江戸時代後期の天保6(1835)年とされていますが、田川郡添田町の『中村大庄屋御用日記』にも四国お遍路の親子のことが文政11(1828)年10月の記事に出ています。また、文政8(1825)年の記事には、太宰府市観世音寺の僧侶が十輪院に逗留し、赤村で観音様のお札を配っている様子が出てきます。赤村は観音信仰が濃厚に見られる地域で、天台門宗朝日寺は田川西国巡礼第1番札所であり、田川新四国とかなりの部分で重複しています。「田川西国巡礼」も昭和6(1931)年に盛大に行われたとの記録から見ると近代にかけて観音霊場巡拝が定められたと考えられます。往時は伊田の成道寺が第1番札所であったとも伝えられており、成立時期や信仰圏の広がりは不明な部分があります。
 田川郡大任町今任原の松霊山十輪院は田川新四国霊場の本部で「田川新四国八十八ヶ所」の第1番札所です。明治32(1899)年後藤寺町宮尾の有吉利八の発起で十輪院第二十二世藤本孝棟とはかり、高野山管長原心猛猊下の任命で開創されました。田川では彦山川を中心に東部と西部それぞれに八十八ヶ所の霊場を開創し、第1区添田、津野、彦山、赤、第2区川崎、真崎、位登、猪膝、金国、第3区後藤寺、第4区糸田、金田、第5区方城、弁城、赤池、第6区香春、採銅所、糒、第7区伊田、第8区大任としました。この巡礼はかって「千人詣り」と言われるほど盛んで、若い男女の出会いの場ともなりました。昭和25(1950)年大任町では大任巡拝団が組織され、町内各所に大任巡拝札所が開創されています。
 また、三井田川鉱業所でも慰霊のために、明治36(1903)年に殉職者の供養塔仏像が建立され、後の大正10(1921)年に、伊田と後藤寺の境付近の地蔵ケ丘に整備された公園へ、青銅製仏像「金仏さん」が安置されました。翌年、坑夫たちの願いで三井寺を中心に、十輪院の支援で三井田川鉱業所付近に仏像が建立安置され、「三井田川新四国八十八ヶ所」がさだめられましたが、三井田川鉱業所閉山と共に途絶えてしまいました。
 
<地図の見方>
田川新四国巡礼の平成30年から平成31年、春、秋の調査記録で、現在、訪れなくなった札所は未記録です。
丸数字赤 札所 管理:地域、信者集団 ※個人で声かけ見学可、重要な個人札所を含む
丸数字青 札所 管理:個人
赤旗   寺院に札所設置
青旗   寺院ではあるが札所ではない
青丸   過去札所があった場所。あるいは現在訪れなくなった札所の場所。
 
<写真>
『西部田川新四國寫眞帖』大正12(1923)年、田川郡大任村十輪院.