田川市立図書館/筑豊・田川デジタルアーカイブ

解説

3 三井田川鉱業所

3-3 田川の文化

 三井が、田川採炭組を買収して田川に進出し三井田川を創設したのが、明治33(1900)年3月11日です。以来、昭和39(1964)年3月末の閉山、さらに、昭和44(1969)年の田川鉱業会社新田川炭坑の閉山で終業となりました。それ以来、関連資産の管理等の関係業務を残して、採炭業から撤退しました。
 三井田川では開業から間もなく、炭鉱事故などでの従業員の死亡と、その家族の死亡にともなう墓地の整備が惹起します。炭鉱事故は、山本作兵衛の炭坑絵画にもよく描かれており炭鉱初期の段階から重要な課題でした。
 後藤寺(ごとうじ)伊田の境界近くに現存する市営「金仏墓地(かなぶつぼち)」が、会社経営の墓地(三井田川鉱業所霊園之地)として、発足し、番号を順次入れた同一規格の家族墓が造られていきました。会社撤退後、田川市に移管され、現在は市営墓地として運営されています。
 三井田川は、当初、死者の供養のために祈祷所を設置したのですが、昭和2(1927)年高野山より高僧が来山、番田(ばんだ)池近辺の三井寺は祈願祈祷と菩提を弔うようになりました。現状では、三井寺と墓地との間に市営球場が設置されており、当初の寺と墓地の関係も分からなくなっていますが、寺伝によれば、三井寺から墓地までの参道には、大きさ約76㎝の青銅の菩薩像である金仏さんが配置され、「参詣者の道しるべともなっていた」とのことです。大正11(1922)年頃には三井田川の八十八箇所の札所が坑夫からの願いにより設置されました。おそらく、炭鉱事故の慰霊の意味もあったと考えられます。なお、今でも同寺の納骨堂には、多数の物故者のお骨が安置され、寺により供養されています。
 

三井寺
提供:三井寺

三井田川伊田坑大師堂(金仏本尊)
提供:十輪院

 
参考文献
藤本孝棟(1923)『西部田川新四國寫眞帖』田川郡大任村十輪院新四國本部.
 
地図
小倉3号「後藤寺」』明治33(1900)年測量 明治36(1903)年発行 大日本帝国陸地測量部.
筑豊炭山位置略圖(筑豊石炭鑛業要覧)』明治43(1910)年 筑豊石炭鑛業組合事務所.
『伊田町全圖』大正13(1924)年 伊田町役場.