田川市立図書館/筑豊・田川デジタルアーカイブ

解説

3 三井田川鉱業所

3-3 田川の文化

 「従是西筑前国」と刻まれた国境石は、旧県道烏尾峠(からすおとうげ)に立っています。古来、東西交通の要衝でした。この峠を森鴎外も越えています。
 森鴎外は、37歳のとき小倉第12師団軍医部長として北九州小倉に赴任しています。彼の『小倉日記』によると香春(かわら)後藤寺(ごとうじ)伊田を通り、伊田の丘陵で演習をしています。明治34(1901)年7月4日に「雨午前7時行橋を発し、午に近づきて七曲(ななまがり)嶺を踰ゆ。隧道あり。雨に啼く鳥は何鳥若葉蔭。香春社氏の家に午餐す。某氏題する所の梵文の匾あり。・・」「7月7日。日曜日陰。飯塚を発し、上三緒に至りて演習す。綱分(つなわき)の有松某の家に小憩せしに畫幅数軸を示さる。皆逸品なり。曰古法眼筆淡彩松鷹、印壺形、文元信。曰探幽筆水討雙幅、敗荷水禽、枯枝双雀、印二、瓢形、文守信、方形、文探幽、曰雪舟筆着色山水、印一、文等揚。午後烏尾越より後藤寺(ごとうじ)に入る。夜田川炭坑の三井倶楽部山田某の家に宿す。」とあります。
 三井倶楽部は、田川採炭会社が明治33(1900)年に三井田川に譲渡され、翌年に整備された迎賓館で通称百円坂倶楽部といいます、山田某は、初代所長(事務長)で、山田文太郎のことです。
 鴎外は直方(のおがた)から福丸(ふくまる)の徴兵検査場に向かった折、人力車夫の乗車拒否にあいます。それを福岡日日新聞(現西日本新聞)に批判的な投稿をおこない、炭坑成金に金の使い道を説きました。『小倉日記』の中でも炭坑の実情を批評するなど、田川の文化に影響を及ぼしたといえるでしょう。
 

森鴎外
出典:『近代偉人の肖像』
小倉に出発前、観潮楼茶室前庭にて撮影(明治32年6月15日)

香春町役場前の森鴎外歌碑
撮影:仲江健治

 
参考文献
瓜生敏一(1982)『田川の文学とその人びと』田川郷土研究会.
田川市教育委員会(2016)『三井田川鉱業所伊田坑跡-福岡県田川市所在炭鉱遺跡発掘調査報告』.
庄内町教育委員会(2006)『有松家文書に見るお祭』庄内町教育委員会.
 
地図
小倉3号「後藤寺」』明治33(1900)年測量 明治36(1903)年発行 大日本帝国陸地測量部.
鑛山借区圖』明治18(1885)年 工部省鉱山課.  各地点を見る→伊田