田川市立図書館/筑豊・田川デジタルアーカイブ

解説

3 三井田川鉱業所

3-2 炭鉱開発

 「ドドーン。」あたり一面が裂けたような轟音が鳴り響き、窓ガラスが破れ、火柱の混じった黒煙が噴き上げました。渦巻いていた黒煙は、しだいにキノコ状の雲となって上空に広がっていきます。「非常や!」男子生徒の一人が叫びました。非常とは炭鉱事故のことで山本作兵衛の絵画「ガス爆発」が参考になります。大正3(1914)年12月15日午前9時45分田川郡方城町(現福智町)の筑豊三井田川に並ぶ三菱方城炭礦で大爆発事故が発生しました。証言や新聞記事では「坑口から10mほど離れた煽風機室が壊れ、四散したレンガの破片が60m先の事務所のガラスを打ちやぶって飛び込んだ」「約二里(8㎞)四方まで爆音が響いた」「悲鳴とも、叫びともいえない切ない声が、つぼした(坑底)から聞こえてきた」等々、その悲惨さを伝えており、未だに謎が残っています。
 この方城大非常(ほうじょうだいひじょう)には二つの謎があると云われています。第一に、爆発原因の謎です。大正4(1915)年に三菱がまとめた「方城炭坑爆発調査報告書」では、発火点となるものは「不明」とされています。しかし、福岡鉱務署技師目黒の「目黒レポート」によると、「トーマス式安全灯」がガス・炭塵爆発の発火原因としています。また、『日本鉱業会誌』によると、大正2(1913)年「農商務大臣、…各鉱山監督署長に対して、ガス爆発に起因する危険予防の訓令を発す」とあります。福岡鉱務署は三菱方城炭礦を特に爆発の危険性があるとみて、直前の11月初旬に調査を行いました。12月、乾燥が高まり入気湿度が41.0%まで下がり、爆発の条件は整いつつありました。
 第二に、犠牲者の謎です。公式記録の死者は671人であり、日本最大の炭鉱爆発事故(世界第4位)です。しかし、当時の新聞記事や資料では死者が655人から800人までとまちまちであること。掲載されていない複数の納屋が存在すること、事故後の出炭量減少分が、事故前出炭量と合わない事などから、「千人以上が死んでいる」という話も全く根拠がないわけではありません。
 この後、炭塵爆発など等の予防研究や法規則が多くの技術者たちや企業、行政の努力によって急速に進んでいきました。炭鉱発達史は炭鉱事故犠牲の上に築かれたともいわれます。この悲しい過去と、炭鉱殉職者を忘れてはならないと、町内小中学校で方城大非常の授業が行われ郷土の歴史理解を深めています。
 

方城炭坑罹災者招魂之碑
撮影:中野弦己

 
参考文献
方城町史編纂委員会(1969)『方城町史』方城町.
植田達夫(1994)『方城町と炭鉱』方城町文化財専門委員会,方城町教育委員会.
織井青吾(1979)『方城大非常』朝日新聞社.
福智町企画課広報・広聴係(2007)『広報ふくち』2007年12月号,福智町.
筑豊石炭礦業史年表編纂委員会(1973)『筑豊石炭礦業史年表』田川郷土研究会,西日本文化協会.
 
地図
筑豊煤田地圖(筑豊炭礦誌)』明治26(1893)年製図 明治31(1898)年発行 中村近古堂.
筑豊炭山位置略圖(筑豊石炭鑛業要覧)』明治43(1910)年 筑豊石炭鑛業組合事務所.
九鐵沿線炭鑛位置略圖(最新筑豊石炭鑛業要覧)』大正6(1917)年 筑豊石炭鑛業組合事務所.