田川市立図書館/筑豊・田川デジタルアーカイブ

解説

3 三井田川鉱業所

3-2 炭鉱開発

 田川市石炭・歴史博物館に残されている統計資料では、明治32(1899)年から昭和59(1984)年までの86年間で、日本の炭鉱事故の死者が48,067人、負傷者数は、多数にのぼりました。例えば、この間の最大出炭量(56,313,334t)を記録した昭和15(1940)年を例にすると、この年の炭鉱災害は85,662回,死亡者数1,357人に及びます。1,000,000tの石炭を掘り出すのに24人の死者が出ていたことになります。
 炭鉱事故には、地下を掘り進むうちに、天井や側壁が崩落する落盤事故、地下水や河川水が突然溢れてしまう出水事故、また、溜まったメタンガスが爆発する事故、炭車が暴走したり脱輪したりする炭車事故などがあります。いくら細心の注意と安全採掘を推進していても、防ぎようがない事故が相次いだのです。特に大正3(1914)年12月15日に起こった方城大非常(ほうじょうだいひじょう)と呼ばれる三菱方城炭坑のガス大爆発は日本最大の炭鉱事故です。山本作兵衛の炭坑記録画にも炭鉱事故を描いたものがあります。
 慰霊では、明治36(1903)年には殉職者の供養塔仏像が建立され、後の大正10(1921)年に、伊田後藤寺の境付近の地蔵ケ丘に整備された公園へ、青銅製仏像「金仏さん」が安置されました。翌年、坑夫たちからの願いで三井寺を中心に、大任町(おおとうまち)下今任(しもいまとう)の十輪院の住職の支援によって、三井田川の三井新四国ができ、八十八ヶ所の石像が建立安置されました。医療では最先端の施設や人材を整えた三井田川病院を昭和11(1936)年に開設し筑豊の医療を牽引していきました。
 このように危険・きつい・汚いと言われた採掘現場で、生活の為、地域社会、国のために毎日、命を削って働いていた炭鉱労働者の先輩たちに深く感謝する気持ちになります。
 

「ガス爆発」 山本作兵衛

「ヤマの水害」 山本作兵衛
©Yamamoto Family 田川市石炭・歴史博物館所蔵

 
参考文献
菊畑茂久馬、工藤健志(1996)『開館5周年記念 山本作兵衛展』田川市美術館.
大同通信社(1952)『石炭年鑑=1952年版=』大同出版社.
 
地図
小倉3号「後藤寺」』明治33(1900)年測量 明治36(1903)年発行 大日本帝国陸地測量部.
筑豊炭山位置略圖(筑豊石炭鑛業要覧)』明治43(1910)年 筑豊石炭鑛業組合事務所.
九鐵沿線炭鑛位置略圖(最新筑豊石炭鑛業要覧)』大正6(1917)年 筑豊石炭鑛業組合事務所.
『伊田町全圖』大正13(1924)年 伊田町役場.