田川市立図書館/筑豊・田川デジタルアーカイブ

解説

3 三井田川鉱業所

3-1 三井田川 -三井田川鉱業所-

 三井田川は明治33(1900)年田川採炭会社を買収し、田川に進出したその年末に百円坂倶楽部を設置しました。この三井田川の上級幹部厚生施設は、来賓の接待施設としても活用されました。「百円坂」はこの倶楽部の所在地の地名としてつかわれ始めました。三井田川上級職員の高給に対する羨望に由来すると言われています。設置当初は接待所と事務長社宅に分かれていましたが、その後の増改築により、最終的には敷地493坪、建坪197.9坪、総室数16室(うち洋室6室、和室10室)となりました。森鴎外も明治34(1901)年百円坂倶楽部に宿泊しています。
 三井田川鉱業所本部事務所横の上級職員厚生施設である食堂と共に、多くの来賓、文化人を迎え入れています。この食堂にも昭和26(1951)年に三笠宮崇仁親王が訪れ、鑛士館(三井田川鉱業学校講堂)でスクエアーダンスとフォークダンスを踊られています。明治の開発期や昭和20年代の伊加利(いかり)竪坑開発のため、百円坂倶楽部には多くのドイツ人技術者が訪れており、三井田川の技術者たちとの交流がおこなわれました。
 ところで、この倶楽部には「百円坂伝説」なる逸話が残されています。在京の三井職員の紹介で、無名の画家たちが百円坂倶楽部で寄宿しながら絵を描いていたそうです。斎藤五百枝・和田三造・田崎廣助・榎倉章吾・鶴田吾郎・浜田哲雄ら著名な画家たちが、この伝説の担い手だったと言います。このように、百円坂倶楽部は長年にわたり、中央から田川の文化への流入窓口となっていましたが、平成14(2002)年に解体されました。
 

百円坂倶楽部
提供:個人蔵

三井田川鉱業所本部事務所の食堂
提供:個人蔵

百円坂
提供:個人蔵
坂の上に百円坂倶楽部があった故の通称

 
参考文献
三井文庫(1980)『三井事業史 本篇第2巻』大日本印刷.
瓜生敏一(1982)『田川の文学とその人びと』田川郷土研究会.
田川市教育委員会(2000)『旧三井田川鉱業所百円坂倶楽部-調査報告書』.
田川市教育委員会(2016)『三井田川鉱業所伊田坑跡-福岡県田川市所在炭鉱遺跡発掘調査報告』.
田川郷土研究会(2006)『郷土田川 創立50周年記念特集号=炭鉱の文化=』田川郷土研究会.
 
地図
筑豊炭山位置略圖(筑豊石炭鑛業要覧)』明治43(1910)年 筑豊石炭鑛業組合事務所.
九鐵沿線炭鑛位置略圖(最新筑豊石炭鑛業要覧)』大正6(1917)年 筑豊石炭鑛業組合事務所.
『伊田町全圖』大正13(1924)年 伊田町役場.
最盛期の筑豊炭田炭坑分布図 昭和15年頃(筑豊石炭礦業史年表)』昭和48(1973)年 田川郷土研究会.
鑛山借区圖』明治18(1885)年 工部省鉱山課.  各地点を見る→伊田