田川市立図書館/筑豊・田川デジタルアーカイブ

解説

2 鉱山借区図と伊能忠敬

2-1 伊能忠敬

 弓削田(ゆげた)村は、明治22(1889)年に弓削田・奈良・川宮が合併(戸数366戸、人口3,203人)してできました。弓削田は、その中心を中元寺川(ちゅうがんじがわ)が縦貫し両岸には良質の石炭が埋蔵されていたため、17世紀後半頃から炭坑が開かれました。近世末期には小倉藩の家老島村志津摩の炭坑開発が行われました。明治20年代には、蔵内(くらうち)次郎作久良知(くらち)寅次郎片山逸太(かたやまいつた)など石炭鉱業史に名を列ねる人々が炭鉱開発に関わった地域です。中元寺川の宮床(みやとこ)付近から川艜(かわひらた)で積み出された石炭は赤池会所から赤池炭として瀬戸内など各地に送り出されました。
 明治22(1889)年弓削田村大字奈良に田川採炭会社が設立され、明治29(1896)年に後藤寺(ごとうじ)駅が開業すると、明治33(1900)年には三井田川が進出してきました。後藤寺は炭鉱集落として急速に発展し、明治20年代から商業活動が盛んになり、村の中心も後藤寺に移ることになりました。弓削田村役場(下弓削田切寄)は明治35(1902)年春日町に移転します。地元の住民は移転に猛反対したので、一部建物を巡査派出所として残しました。
 その後、明治40(1907)年4月1日弓削田村は町制を施行し町名を後藤寺町(戸数3,011戸、人口10,235人)としました。その勢いは、今まで田川郡内の中心地であった香春(かわら)をしのぎました。明治42(1909)年、県告示により香春警察署は後藤寺(元後藤寺バスターミナル駐車場)に移転し、後藤寺警察署と改称しました。後藤寺は田川郡内の中心地としての地位を確立することとなります。
 

下弓削田切寄の旧村役場跡
出典:『弓削田小学校史』

後藤寺町役場(現西日本シティ銀行後藤寺支店)
出典:『後藤寺町誌』

 
参考文献
田川市立弓削田小学校校史編集委員会(1982)『弓削田小学校史』弓削田小学校校舎建設期成会.
松尾正記(1930)『後藤寺町誌』九州時事新聞社.
田川市誌編纂委員会(1954)『田川市誌』田川市.
田川市史編纂委員会(1979)『田川市史 中巻』田川市.
 
地図
鑛山借区圖』明治18(1885)年 工部省鉱山課.
小倉3号「後藤寺」』明治33(1900)年測量 明治36(1903)年発行 大日本帝国陸地測量部.