田川市立図書館/筑豊・田川デジタルアーカイブ

解説

1 筑豊の水運、鉄道

1-2 水運

 宮床(みやとこ)村は近世から明治20(1887)年までの村で中元寺川(ちゅうがんじがわ)右岸にありました。古代の駅路や香春(かわら)から筑前への街道が通っていたところです。水運を利用した石炭運搬は川艜(かわひらた)が使われており、宮床付近に船場がありました。川艜は中元寺川上流では池尻村(現川崎町池尻)や糸村(現田川市位登)が限界でした。宮床村や対岸の糸田村は、石炭運搬では有利な位置に在り、下流の岩淵で積み替えられ、若松や小倉、遠くは瀬戸内海まで赤池炭として運ばれ塩田などで使われました。
 宮床の石炭採掘は、弓削田(ゆげた)と並んで江戸時代から盛んで、元禄6(1693)年の記録があります。伊田では石場の石炭発見が有名ですが、筑豊の炭層は傾斜が10-20度の東落としの単斜構造で、炭層が地表に露出しているため早くから露頭堀で開発されました。19世紀後半には小倉藩の島村志津摩によって、金田(かなだ)や弓削田(ゆげた)の炭鉱開発が行われました。明治9(1876)年、片山逸太と早川岩次郎が共同で宮床村の炭鉱に蒸気水揚機を設置しましたが失敗しました。明治20(1887)年の合併では、左岸側は川宮、右岸側は宮川の案がありましたが、川宮村となりました。明治22(1889)年には弓削田村になっています。
 近代になると、石炭を篭に担いで人力運搬し、後藤寺(ごとうじ)から平松・大藪までは板を敷いた車道を車力運搬した後、宮床へは軌道馬鉄などの馬鉄運搬を行って船場から川艜に積み込ました。豊州鉄道は、明治29(1896)年に鉄道を後藤寺駅まで開通させました。さらに、明治30(1897)年に後藤寺駅-宮床駅間を開通させ、田川採炭会社や後の豊国炭鉱の水運による石炭運搬の不利を解消しました。
 

宮床の船場跡「岩下(いわくだ)」
(平成29年)
撮影:加治俊秀

軽便馬鉄
出典:『筑豊石炭鑛業要覧』

 
参考文献
「角川日本地名大辞典」編纂委員会(1978)『福岡県地名大辞典』角川書店.
田川市史編纂委員会(1979)『田川市史 中巻』田川市.
有馬学・川添昭二(2004)『福岡県の地名』平凡社.
田川市教育委員会(2016)『三井田川鉱業所伊田坑跡-福岡県田川市所在炭鉱遺跡発掘調査報告』.
 
地図
鑛山借区圖』明治18(1885)年 工部省鉱山課.
筑豊煤田地圖(筑豊炭礦誌)』明治26(1893)年製図 明治31(1898)年発行 中村近古堂.
小倉3号「後藤寺」』明治33(1900)年測量 明治36(1903)年発行 大日本帝国陸地測量部.
筑豊炭山位置略圖(筑豊石炭鑛業要覧)』明治43(1910)年 筑豊石炭鑛業組合事務所.
筑豊炭田地質圖』昭和4(1929)年 筑豊石炭鑛業組合.