田川市立図書館/筑豊・田川デジタルアーカイブ

解説

1 筑豊の水運、鉄道

1-2 水運

 慶応元(1865)年伊田に生まれた植木要(うえきかなめ)さんは村会議員や郡会議員を務めた方です。藩政期から明治初期をふりかえって語っています。「私は十五の頃から百姓をしていました。当時の伊田の町は番田(ばんだ)、新町合わせて三十軒位で、皆それぞれ自分の土地と家を持って…」江戸時代、農村は自給自足で日常生活をおくっていたので、伊田には今のような商家はありませんでした。また、新町には番所があったそうです。その運営のため所有していた田があったことから番田というと伝えられています。
 藩政期の商業活動の中心は香春(かわら)です。明治になっても日用品は、香春、小倉、行橋、中津まで行かなければなりませんでした。その当時は、後藤寺(ごとうじ)・伊田から香春へ出向くのに彦山川(ひこさんがわ)を渡し船で渡っていました。伊能忠敬の『測量日記』には「伊田川仮橋二十間」とあり36mの川幅で、橋は板を渡しただけの仮の橋だったと考えられます。伊田大橋の川下の「渡り1組・2組・3組」の標柱がある付近が渡りです。
 当時は水運が中心で石場からの石炭を川艜(かわひらた)で運んでいました。番田の渡りには船の渡し場がありました。また、明治期の川渡り神幸祭(じんこうさい)の渡し場から番田橋にかけて、石炭を積み込む船場がありました。番田の渡りは猪膝(いのひざ)から香春への街道筋で、数軒の宿屋・飲食店等が軒を並べ、明治のはじめには伊田にも街らしいものが形づくられ、明治30年代には町が形成されていきました。
 

明治年間の番田一帯
出典:「番田ごうらの流れに生きて」

伊田町番田(大正13年)
出典:『伊田町全圖』

 
参考文献
永末十四生(1954)「番田ごうらの流れに生きて」『郷土田川』1-1,田川郷土研究会.
永末十四生(1954)「草わけの人々」『郷土田川』1-3,田川郷土研究会.
和田泰光(1930)『伊田町誌』筑豊之実業社.
田川市誌編纂委員会(1954)『田川市誌』田川市.
田川市史編纂委員会(1979)『田川市史 中巻』田川市.
 
地図
鑛山借区圖』明治18(1885)年 工部省鉱山課.
小倉3号「後藤寺」』明治33(1900)年測量 明治36(1903)年発行 大日本帝国陸地測量部.
『伊田町全圖』大正13(1924)年 伊田町役場.