田川市立図書館/筑豊・田川デジタルアーカイブ

解説

1 筑豊の水運、鉄道

1-2 水運

 川艜(かわひらた)とは、底が浅く幅が広い舟で五平太船(ごへいたぶね)とも呼ばれますが、田川地域では、「ひらた」とか「ひらた舟」と呼ばれていました。もともと、江戸時代には、年貢米や木材等を運ぶために利用されましたが、炭鉱業の発展に伴い石炭の運搬にも大きな役割を果たしました。
 田川地方の石炭発見の伝説は、福智町赤池の坊主ケ谷と田川市伊田石場がよく知られていますが、18世紀中頃には水運によって各地へ運ばれました。大きさは、3間舟(約5.4m)、4間舟(約7.2m)、5間舟(約9m)等がありました。真ん中に帆柱があり、タンスやかまど等を積み込んだ所帯船もありました。普通下流では主に大舟が上流では小舟が使用されていたようで、現在の平成筑豊鉄道人見(ひとみ)駅近くの岩淵で上流からの荷を載せ替えていたようです。この付近には赤池会所があり、赤池炭の総称で呼ばれ各地へ運ばれました。赤池から若松までは、通常で往復4・5日から1週間かかったようです。遠賀川(おんががわ)に就航していた川艜は、1889年~90年の最盛期は8,000隻に及んだと言われていますが、明治中頃より、鉄道が開通し、大正時代にはその役目に終わりを迎えます。川筋船頭といえば気性が荒いといわれますが、赤池の船頭達は豊前船頭とよばれ、本業を農業とした純朴な人たちが多く、本業の船頭達のように気性が荒く宵越しの金は持たないという川筋気質(かわすじかたぎ)のイメージとは異なっていました。
 

小竹町鴻巣石炭積場風景
出典:『小竹町誌』
帆で登る川艜
出典:『筑豊石炭鑛業要覧』

田川郡赤池町草場の川艜図(世帯船。ヤネはカヤブキ)
出典:『赤池町史』

 
参考文献
高野江基太郎(1910)『筑豊石炭鑛業要覧』筑豊石炭鑛業組合事務所.
小竹町誌編纂委員会(1951)『小竹町誌』小竹町.
永末十四生(1954)「川舟船頭の回顧談」『郷土田川』1-2,田川郷土研究会.
赤池町史編纂委員会(1977)『赤池町史』赤池町.
田川市史編纂委員会(1979)『田川市史 中巻』田川市.
鑛山借区圖』明治18(1885)年 工部省鉱山課.  各地点を見る→後藤寺 伊田