田川市立図書館/筑豊・田川デジタルアーカイブ

解説

1 筑豊の水運、鉄道

1-2 水運

 遠賀川の水運に用いられた川船を川艜(かわひらた)、あるいは五平太船(ごへいたぶね)といいました。小倉藩では高瀬船ともいい、年貢米や物資の運搬手段として使用していました。川艜は彦山川(ひこさんがわ)では添田の岩瀬、中元寺川(ちゅうがんじがわ)は川崎の池尻(三ヶ瀬「猫岩」の積み込み場)から使われていたようです。
 川艜は年々増加して嘉永4(1851)年には、田川郡の御米船は94艘で、金田(かなだ)盤30艘・上野(あがの)盤30艘・猪膝(いのひざ)盤10艘・伊田盤10艘・添田(そえだ)盤10艘でした。船頭はそれぞれの村の者で、各盤に船庄屋と小頭がいて、船頭たちの世話をしていました。このときの船庄屋として荒牧孫市・世良喜三次・添田又兵衛・皆川又四郎そして志満津(島津)実平の名が記録されています。このころの川船積下し品目は、米や石炭だけでなく、雑穀・石炭ガラ・ハゼの実・生蝋・材木・板類・竹類・瓦・鶏卵・木皮・牛馬皮骨・紙・茶・煙草・藍などの産物となっています。その諸品目には通行税がかけられ、草場番所(現福智町市場)で運上銀を支払っていました。
 田川地方の石炭発見の伝説は、福智町赤池の坊主ケ谷と田川市伊田石場がよく知られています。18世紀中頃には水運によって各地へ運ばれました。石炭の商品化がすすんだ弘化元(1844)年、小倉藩は林ケ谷(りんがだに)炭坑や岩淵河港に近い金田(かなだ)・赤池村の境界付近に赤池会所を設立して、産出した石炭を専売し赤池炭として若松へ運ばせました。中元寺川は宮床(みやとこ)、彦山川は番田(ばんだ)に船場がありました。船場までは、石炭を篭に担いで運ぶ人力運搬でしたが、板を敷いた車道の車力運搬へ変わり、その後は軌道馬鉄などの馬鉄運搬も利用されるようになりました。川艜による運搬も明治20(1887)年代後半から、次第に鉄道輸送に変わっていきました。
 

遠賀川流域略図
出典:『遠賀川 流域の文化誌』

石炭を運搬する川艜
出典:『田川市史中巻』

 
参考文献
田川市史編纂委員会(1979)『田川市史 中巻』田川市.
香月靖晴(1990)『遠賀川 流域の文化誌』海鳥社.
 
地図
鑛山借区圖』明治18(1885)年 工部省鉱山課.  各地点を見る→後藤寺 伊田