下松市/郷土資料・文化遺産デジタルアーカイブ

下松市史 通史編

第二編 中世の下松

第二章 南北時代の下松

3 大内氏の周防進出と都濃郡

 鷲頭氏との戦いがいつ終結したか明らかではない。一三五四年(文和三・正平九)伊予の河野通盛が尊氏から周防の守護に補せられたが、守護所に入部したわけではないから、この年弘世は鷲頭氏を降したのであろう。周防を統一した弘世は本拠を大内県から山口へ移し、翌五五年長門へ進撃を開始した。五八年厚東氏の居城霜降城を陥れて義武を追い、代わって南朝から長門守護に任ぜられた。その後、六三年(貞治二・正平一八)弘世は足利氏に帰属し、あらためて防長両国の守護に補せられた。大内氏が普通の守護と異なる点は、幕府の反対側に立ちつつ防長の統一に成功し、そのあと幕府から追認されるという形でその陣営に参加したということで、それだけに領国内の中小頷主に対する支配権は強大であった。
 さて、大内宗家に屈服した鷲頭一族のその後の動向をみておこう。大内弘世が防長両国を手中に収めて約二〇年たった一三八〇年(康暦二・天授六)、弘世の弟で、義弘にとっては叔父にあたる師弘が国内の反対勢力を糾合し、石見・安芸の諸豪族と結んで、安芸国内で挙兵した。ちょうど義弘は将軍の命で鎮西探題今川貞世の援軍として九州の南朝勢力の征討に従事していたときのことである。足利義満・義持・義量三代の幕府日記である『花営三代記』の同年五月二十八日条につぎのように記されている。
 
大内義弘と舎弟満弘、芸州内郡に合戦す。一族鷲頭筑前守父子三人、石州守護代内美作守父子二人、末武新三郎・野田勘解由・藤田又三郎・芸州大将讃井山城守・若党陶山佐渡守・除田二保因幡守・八木八郎左衛門尉・土肥修理亮・小畠曽我八郎左衛門尉・野上将監・同雅楽助・弘中三河守・秋叛次郎左衛門尉、そのほか侍名字二百余人、切捨つること、その数を知らず。
 
 このうち鷲頭筑前守は系図に見えないが、鷲頭氏の一族であることは間違いない。末武新三郎は末武氏の始祖弘藤の孫弘氏である。大内氏系図は師弘の分注に「師弘の郎党野田安業、弘世の郎党豊田光景と権を争い、ついに弘世・師弘合戦に及び、師弘敗死す」とある。反乱の直接の動機はともかく、芸州大将讃井山城守・石見守護代内美作守のほか、陶氏の重臣野上一族までもまきこんだこの内戦は、鷲頭氏とともに衰運に向かいつつあった諸氏勢力の起死回生を意図したものであろうことは容易に推測がつくし、また諸氏内部の惣領・庶家の対立に根ざしたものでもあったろう。
 鷲頭長弘の長子弘員の子康弘は弘世との戦いのあと下松で自害したが、康弘の曽孫弘賢は大内政弘の家臣相良正任の日記『正任記』の文明十年(一四七八)十月三日条につぎのように見える。
 
周防より鷲頭治部少輔弘賢注進状、子息総二郎・四郎護賢これを持参す。鷲頭妙見山下宮上葺造畢の事なり、かの御造営仰付けらるるにより、各々在国あるべきの由、御下向の時仰せ出さるるのところ、早速修造、殊に両人参陣御感なり。よって弘賢に対し、御書を成されおわんぬ。
 
 右の記事から鷲頭氏の本流は鷲頭庄に留まり、鷲頭妙見宮に奉仕したものと思われる。また長弘の四男盛継の子弘為は大内弘茂に従って盛見に対抗し、赤間関で戦死した。その子弘忠は大内持世のとき長門守護代に補せられたが、大内教弘に疎まれ、一四四八年(文安五)二月十七日子息弘貞とともに長門深川において誅せられた。