東広島市立図書館/東広島市デジタルアーカイブ

『万葉火』を灯す町

4.万葉の時代

遣新羅使(けんしらぎし)

 古代、日本から新羅に派遣(はけん)された公式の使節(しせつ)。特に7世紀後半から8世紀前半、遣唐使(けんとうし)を派遣せずにいた時期には、日本の政治(せいじ)・制度・文化などに大きな影響(えいきょう)を与えました。安芸津の風早の浦で万葉歌を2首詠(よ)んだのは、天平(てんぴょう)8年(736)に派遣された遣新羅使です。
遣新羅使船も同じような船だったのではないかと考えられています。
【呉(くれ)市倉橋(くらはし)町で復元(ふくげん)された遣唐使船】 
出典:『ひろしまの海』(1990)広島県瀬戸内海白書
 

●天平8年(736)の遣新羅使
 次の事柄(ことがら)により、天平8年の遣新羅使は、悲運(ひうん)の使節団だといわれています。
・途中(とちゅう)、嵐(あらし)に襲(おそ)われ漂流(ひょうりゅう)する。
・両国の外交関係(かんけい)が最(もっと)も緊張(きんちょう)した時期だったので、目的である国書を手渡(てわた)すことができなかった。
・復路(ふくろ)(帰り)で大使阿部朝臣継麻呂(あべのあそんつぐ(ぎ)まろ)が死亡(しぼう)。
・副使(ふくし)大伴宿禰三中(おおとものすくねみなか)が病気になり遅(おく)れて帰京。
 

【8世紀後半の東アジア】
 出典:『世界史年表・地図』(2017)吉川弘文館

 
困難(こんなん)だった船旅
 当時の航海(こうかい)は、途中(とちゅう)で遭難(そうなん)したり病(やまい)に倒(たお)れたりすることも多く、全船・全員そろって帰国することはほとんどなかったそうです。
 その中でも、天平(てんぴょう)8年(736)の遣新羅使(けんしらぎし)たちの旅は、大変過酷(かこく)なものだったといわれています。
 まず、往路(おうろ)(行き)で嵐(あらし)に襲(おそ)われ漂流(ひょうりゅう)しました。このため船の修理(しゅうり)も含(ふく)め、予定よりも大幅(おおはば)な遅(おく)れをとってしまったようです。
 また『続日本紀(しょくにほんぎ)』によると、停泊地(ていはくち)の大宰府(だざいふ)(遣新羅使や遣唐使(けんとうし)の宿泊施設(しゅくはくしせつ)がありました)では、天然痘(てんねんとう)だと思われる伝染病(でんせんびょう)が大流行していました。それが原因かどうか定かではありませんが、一行の中には多数の病死者が出たそうです。復路(ふくろ)で大使が死亡し、副使(ふくし)も病のため、かなり遅れての帰京になったとのことです。
 この遣新羅使の目的は、新羅が日本に対する外交政策(せいさく)を変えた事に対して、牽制(けんせい)する(警告(けいこく)する、圧力(あつりょく)をかける)国書(こくしょ)を渡(わた)すためでした。しかし両国の関係(かんけい)が最(もっと)も緊張(きんちょう)した時期での交渉(こうしょう)であり、うまくはいきませんでした。
 風早の浦で歌を詠(よ)んだのは、そんな命がけの航海をして、責任(せきにん)ある重要(じゅうよう)な交渉に向かった遣新羅使たちです。
遣新羅使の船は風早の浦に泊まったんじゃって。
「風早の浦」って、三津湾のどこなんじゃろう?
3つ説があるんじゃ!