東広島市立図書館/東広島市デジタルアーカイブ

東広島市の石造物

資料編

3 用語解説

愛郷廟 あいきょうびょう
 昭和十六年西条町出身の殉国犠牲者と町の発展のために特別に功労のあった人の英霊に弔意と敬意を表すために聖地を選び建立された石造の廟。
祭神は
 殉国犠牲者
 自治功労者
  西条町長     吉井常夫殿
 教育功労者
  松本学校創設者  松本隆興殿
  西条女学校創設者 西島嘉六殿
  育英校創設者   石井群造殿
  西条小学校長   檜高憲三殿
 産業功労者
           木村静彦殿
           島 博三殿
           石井峰吉殿
 
阿育王 あいくおう
 釈迦入滅後に仏舎利(遺骨)は8人のインド王に頒布され塔に納め仏教を広めた。布教が広まると仏舎利の要望が増してきた。そこでインドの阿育王が8か所に分散された仏舎利を集めて、8万4千に分けて小塔に納めて頒布した。これは中国に遺されていて銭弘俶塔に類似の金属の小塔とされている。
 
安芸国分寺跡 あきこくぶんじあと
(史跡)
 国分寺は天平十三年(741)聖武天皇の勅願によって、五穀豊穣・国家鎮護のため、国分尼寺と共に全国62か国に建立された。南大門、七重塔、金堂などの伽藍が建立された。奈良の東大寺は総国分寺であった。
 現安芸国分寺の西方50mにある、聖武天皇の玉歯が埋められているという伝承があったを昭和七年(1932)に発掘調査したところ、心礎をはじめとした塔の礎石が発見され、ここに国分寺があったことが明らかとなった。
 周辺が発掘調査され、ほぼ安芸国分寺の全容が明らかとなった。多くの新たな国分寺史の発見もあり、歴史公園として整備された。
 
安芸国分寺 あきこくぶんじ
 当初の安芸国分寺は平安末期源平の合戦のため焼失した。
 現在の安芸国分寺は真言宗・金嶽山・常光院と号す。宝暦七年(1757)衰微していた寺勢を復興した記念の宝篋印塔が建立されている。
 県重文の木造薬師如来座像、その他多くの市重文の仏像、建築物を有する名刹である。
 
菖蒲前伝説 あやめのまえでんせつ
 源三位頼政の絶世の美人妻菖蒲前にまつわる西条を中心に展開される伝説である。関連する寺社は10寺社におよび古文書も多数現存する。伝説の概要は以下の通りである。
 宇治で頼政の亡骸に別れを告げた菖蒲前は遺児種若丸と従者猪早太をつれて安芸国西条のある滝のそばに逃げてきた。この地で種若丸は斃れて葬られ、滝は吾妻子の滝とよばれている。懐妊していた子、豊丸が成長し、菖蒲前は源平の戦の戦功として西条の地を領す。
 二神山に城を築くが敵に攻められて幾多の苦難にあいながら生き延びて小倉山と名付けた山里に住む。菖蒲前はあるとき死を予感して洞窟に入り笛を吹きながら死に絶える。村人は小倉神社を建立して祀る。
 
荒谷家墓地 あらたにけぼち
 荒谷氏は竹原・小早川氏の有力家臣であり、堀、土塁がめぐらされた中世武家屋敷が現存している。応仁年中(1467~9)にこの地に進出したと考えられている。