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紀州藩文庫より郷土誌料

郷土誌料

      和歌浦物語 乾 和歌浦物語 乾[目録]


      和歌浦物語 坤 和歌浦物語 坤[目録]


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<翻 刻>
 
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和歌浦物語 乾
 
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和歌浦物語 乾(付箋)「拾八号
            和歌浦物語」
 
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和歌浦物語 乾の巻
 
 ○和哥浦
 
古今序註[第八]云、わかの浦とは紀伊国(キノクニ)にあり。[以上紀伊国とハ/伊の字をよまさ
るを習ひとす。されは古事記等には所々に木国とあり。素盞男(ソサノヲ)の命の御子五十/猛(イソタケルノ)神、八十木種(ヤソコタネ)を天か下にまき施し給ふ。此神のいます国なる故に木国と名
付けしとなり。しかれとも今紀伊と二字になすことハ、人皇四十三代元明天皇の御/宇に、吾朝の国郡等の名よき字を以て二字に限りて名付くへきよし勅有し
とき、紀の字にハ下におのつから以の音のひゝきあれハ、音便にそへたる伊の字/なり。されはにや、郡名人名なんとにも伊の字よまさるをならひとす。続日本
紀六[三左]云く、畿内七道諸国/郡郷ノ名ハ著[二]好字[一]以上]。全長考るに、海部(アマノ)郡[拾芥抄には海部郡と/かき、和名抄にも海部
郡となして阿末(アマ)と訓註す。紀伊七郡のうち四郡海辺なれとも、此海部の/郡ハわきて入江入海なとありて磯辺多くある故に名付しならん。今は
 
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多く海士郡とかく。海士とハ海人(アマ)といふに同し。海士舟(アマヲブネ)なんと云へハ意異なる/ことなし。国内にてハ西のかた北の方をさして海士郡と云といへり。]
雜賀(サヒカノ)庄なり[雜賀とハ、按するにむかしハ雜家(サヒカ)とかきしならん。海辺/なれとも農業をもなせは、海人農民家をましへて
すむ故に、雜家といひしを、家雑の字けの音もあれハよみ謬ることある故に、/音の転せさる賀の字にあらためしならん。雜の字かなにてはさひとかく
へし。さいと書くへからす。雜は入声の字なれは、さふのかな也。さふ・さひハはひふへほと/音通する故なり。されはにや、萬葉のかなにも左日鹿とかく云々。]。
和歌山の府城よりハ南一里はかりにあり。宗祗か
名所方角抄[下巻]云、紀伊国若浦、伊勢に同名有[以上]。
紀州舊記に云、和哥浦又ハ若浦・弱浦・明光浦な
との字になすと[云々]。考るに、往古はわか濱といひしと
 
 
なん、文字にハ稚(ワカ)濱と書きたるなるへし。此浦を
わか濱わか浦と名付くるいわれ、知る人まれなり。依て
是を玉津島の社家[高松采女少輔/従五位下]へたすぬるに、物
語に云、此事、旧記を考得されは子細分明ならす。
傳きくに當社玉津島明神は後に合祭の神にして、
元より地主の神いませり。稚日女尊(ワカヒルメノミコト)なり。此神の
います濱なる故に、むかしハわか濱といひしを聖武
帝詔(ミコトノリ)して明光浦(ワカノウラ)と改名し給ひしとなん聞けり[云云]。
 
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考るに、稚日女尊(ワカヒルメノミコト)は天照太神の御妹摂津国生田(イクタ)
大明神なり。此神、生田の里に鎮座の事ハ、日本紀
九[神功皇/后紀]云、伐[二]新羅[一]之明年(アクルトシ)[元文四年より千五百/三十八年已前]春二
月、稚日女尊誨之(ヲシヘマツリテ)曰、吾欲[ㇾ]居[ント][二]活田(イクタ)長峡(ナガヲノ)國[一]。因[テ]以[テ][二]海上(ウナカムノ)
五十狭茅(イソサヂ)[ヲ][一]令[ム][ㇾ]祭(イハ丶)[以上]。國花萬葉[摂津/巻]云、生田大明神御
位、貞観九年十二月十六に従三位と国史に見へ
たり[云々]。稚濱(ワカハマ)に鎮座の事は、生田より稚(ワカ)へ勧請
歟、また稚濱より生田へ勧請歟、前後をしらす[云云]。
 
 
全長考るに、稚日女尊いますによりてわか濱と名
つけしをもつて見れは、わか山の名もこの神のい
ますゆへなるへけれは、根元はわかの浦にて、後に
津の國へ勧請ありしならむと思はる。考ふへし。聖
武帝詔等とハ、続日本紀[九巻]云、神亀元年辛卯、天皇
[二]紀伊國[ニ][一]、壬寅詔[メ]曰、登[ㇾ]山望[ㇾ]海、此國最[モ]好[シ]。不[ㇾ][二]遠行[ヲ][一]
足[レリ][二]以[テ]遊覧[スルニ][一]。故[ニ]改[テ][二]弱濱[ヲ][一]、為[二]明光浦[ト][一]。宜[ク]置[二]守戸[一]、勿[レ][ㇾ]令[ルヿ][二]荒穢[一]
春秋二時差[‐二]遣官人[ヲ][一]、奠[‐二]祭[セシム]玉津島之神・明光浦之霊[ヲ][一]
 
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[已上]。今ここに玉津島の神といひ、次に重ねて明光浦の
霊といふハ、稚日女尊の御事をいひしならん歟と云。
本朝通紀[十巻]云く、神亀元年冬十月、勧[‐二]請衣通姫[ヲ]於
紀州海部郡[ニ][一]。崇[ム][二]玉津島明神[ト][一]。是月、天皇幸[二]紀伊國[一][二]
玉津島[ノ]頓宮(カリミヤ)[ニ][一]。留[ルヿ]十餘日、時[ニ]帝、以[三]弱浦[ノ]景堪[タルヲ][二]遊覧[ニ][一]、名[テ]更[タム][二]
明光浦[[ト][一]已上]。問て云、明光浦の三字、諸書にのするといへ
とも和訓のかなをつけす。前々太平記に[第一]ひかり
のうらと和訓をつけたり。此義是なりとせんや。
 
 
答て云、考ふるにおそらくは是にあらし。たゝわかの浦と
よむへきなり。明ハあきらかのあをとりて下略し、
あハあかさたなはまやらわと横音通す。光は
ひかりの上下を畧して、中のかをとり、わかの浦と
よみて可ならん。されハ、続日本紀等にわか浦の
名をあらたむるとハいはす、改[二]弱濱[一][二]明光浦[一]と云。
あらたむるとハ、むかしハ相ならふ濱を西濱なとと云
ことく、わか濱といひしを、後にわかのうらとあらため、
 
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また文字をも明光浦と改むるなり[明光の字は、もろ/こしの明光の宮に
なそらへしならんか。群玉韻府東[ノ]韻[ニ]、明光宮[ノ]註[ニ]引[二]三秦記[ヲ][一]/云、桂宮[ノ]中[ニ]有[リ][二]明光殿[一]。以[二]珠璣[一][ㇾ]簾、箔金為[ㇾ]〓(偏は戸つくりは巳)、玉為[ㇾ]階、
昼夜光/明云云。]。たゝし、漢文の詩なんとには音にてめいく
わうほとよむへきなり。玉津島の下に羅山詩集
を引く。見つへし[云々]。又和訓にハ明光浦をわか
浦とよむへき證あり。聖武帝わかの浦に幸して
あらためて明光浦となすの時、衣通姫示現して
詠哥し給ふに、
 
 
  立帰り又も此世に跡垂む名もおもしろき和哥の浦波
と詠し給へり[此歌玉津島の/下に具さに出す]。しるへし。また紀路哥枕
抄に引萬葉集以下二十一代集およひ堀川百
首源氏若菜巻六百番山家集拾玉長秋
名寄月清拾遺愚草夫木集建保百首建
保三名所百歌合草庵集建保元年熊野御幸
の時の歌等、和哥の浦の哥二百二十一首あり。おの/\
わかの浦とのみいひて、異なる名をいはす。今爰に引て
 
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證とす。
紀路哥枕抄に、和哥浦ハ海士郡なりと標して云、
 
[古今序/続古雜中] 若浦に塩みちくれは片男波芦辺をさして田鶴鳴渡る 赤人
続拾雜上 老の浪よせしと人ハいとへともまつらんものをわかの浦半に 連敏法師
金葉雜上  人なみに心計は立そひてさそはぬわかのうらみをそする [前中納言/甲斐]
詞花    美作や久米のさら山と思へともわかの浦とそいふへかりけり [大納言/師頼]
同返し   わかの浦といふにてしりぬ風ふかハ波のよりこと思ふ成へし 贈左大臣
千雜上   行年ハ浪とともにや帰るらん面かハりせぬわかの浦かな 祝部成仲
 
 
新古賀   藻塩草かくとも尽し君か代のかすによみおくわかのうら波 源家長
同雜上   和哥の浦に家の風こそなけれとも波ふく色は月にみえけり [民部卿/範光]
同     和哥の浦に月の出しほのさすままに夜なく鶴の声そかなしき 慈円
同中    和哥の浦を松の葉こしに詠れは梢によする蜑の釣舟 寂蓮
同下    和哥の浦や沖津塩会に浮ひ出るあはれ我身のよるへしらせよ 家隆
新勅[秋/下] 和哥の浦芦辺の田鶴の鳴声に夜渡る月の影そさひしき 御製
同雜二   和哥の浦に知られぬ蜑のもしほ草すさひ斗に朽や果なむ 法眼宗円
同     もしほ草かきおく跡やいかならんわか身によらぬわかの浦波 行念法師
 
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同     契置しちきりのうへにそへおかんわかの浦路の海人のもしほ木 俊成
同返し   和哥の浦に塩木かさなる契をハかける玉もの跡にてそ見る 西行法師
続古賀   和哥の浦に浪ませ帰る藻塩草かき集てそ玉もみかける 太上天皇
続後撰[雜/上] 和哥の浦や塩干の潟にすむ鵆むかしの跡を見るもかしこし [前大政/大臣]
同中    和哥の浦や四方の藻くすをかき置て蜑のしわさの程やしられむ [正三位/知家]
同     和哥の浦やへたてし跡の藻塩草かく数ならて又やくちなん [藤原/為綱]
同     もしは草かき集めてもかひそなき行ゑもしらぬわかの浦風 中原師季
同     かき置しわかの浦路のもしほ草いかなるかたに波のよすらん 平泰時
 
 
続古神祇  いかはかりわかの浦風身にしみて宮はしめけん玉津島姫 [後京極/摂政]
同哀傷   なく/\も跡とふわかの浦千鳥いかなる波に立別れけむ 平時直
同雜下   わかのうらやしらぬ塩路に漕出て身にあまる迄月をみる哉 藤原光俊
同     袖ぬらす形見也けりもしほ草かきおく跡のわかの浦浪 [正三位/経朝]
同賀    わかの浦に波よせかくるもしほ草かき集てそ玉もみかける 太上天皇
続拾賀   和哥の浦や昔にかへる波の上に光あまねき秋の夜の月 藤原秀茂
同     かす/\にみかく玉ものあらはれて御代静なるわかの浦浪 [後花山入道/藤大政大臣]
同雜    和哥の浦に昔を忍ふ濱千鳥跡おもふとて音をのみそなく 藤原恭朝
 
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同     若の浦の波の下草いかにして月にしらるる名を残さまし [権律師/定為]
同     若の浦に老すはいかてもしほ草波のしはさにかき集めまし 為家
同     絶もせし昔の世々の跡とめて立帰ぬるわかのうら波 道洪法師
新後撰冬  わかの浦に降つむ雪もけふしこそ世々にかはらぬ跡はみゆらめ [前関白/大政大臣]
同神祇   和哥の浦の道をはすてぬ神なれは哀をかけよ住吉の波 俊成
同雜上   わかの浦や五代かさねて濱千鳥七たひ同し跡をつけつる 為世
同神祇   跡たれしもとの誓ひを忘れすハむかしにかへせわかの浦波 為家
同雜上   わか代にハ集めぬわかの浦千鳥空しき名をや跡にのこさむ 院御製
 
 
同中    おもひのみみちゆく汐の芦分にさはりも果ぬわかの浦舟 津守国助
同     芦原の跡とはかりは忍へともよるかたしらぬ和哥の浦なみ [入道前/大政大臣]
同     若の浦ひとり老ぬる夜の鶴の子の為思ふ音こそなかるれ 爲氏
同     わかの浦に子を思ふとて鳴鶴の声は雲井に今そ聞ゆれ 法皇御製
玉葉賀   若の浦やなかき(本ノマ丶)久しき跡しあれハ猶千代そへて田鶴も鳴也 [関白前/太政大臣]
同     若の浦にとしへて住し芦田鶴の雲井に登るけふの嬉しさ [太宰大弐/重家]
同     わかの浦に千々の玉もをかきつめて万代まても君か見んため 俊成
同雜五   和哥の浦やかきおく中のもくつにもかくれぬ玉の光をそみる [入道前/太政大臣]
 
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同     和哥の浦に道ふみまかふ夜の鶴この情けにそ音ハなかれける [前右兵衛督/為教]
同     和哥の浦に友をはなれて小夜鵆其数ならぬ音こそなかるれ 藤原為守
同     わかの浦に跡つけなから濱千鳥名にあらはれぬ音をのみそする(本ノマ丶) 中臣祐臣
同     もしほ火の煙の末を便にてしはし立よるわかのうらなみ [前関白/大政大臣]
同     人なみに君忘れすは若の浦の入江の藻屑数ならすとも 俊成卿女
同     もくつにも光やそはん若の浦やかひあるけふの玉にましりて 為家
同     和哥の浦に沈むみくつにみかかれん玉の光をみるよしもかな [従三位/為子]
続千載[神/祇] わか浦や藻に埋れし玉も今光をそへて神そみるらし [前関白家/サヌキ]
 
 
同     和哥の浦にたてし誓の宮柱幾代も守れ敷島の道 津守国助
同     古への若の浦路の友ちとり跡ふむほとの言の葉もかな 津守経国
同     いたすらに(本ノマ丶)心はかりはよすれともまた名をかけぬ和哥の浦波 平貞俊
同     此春もあつまに名をは残しける代々の跡あるわかのうらなみ 藤原景綱
同     わかの浦に又もひろはは玉つしま同し光の数にもらすな 惟宗忠景
同     藻塩草かくかひあらは若の浦に跡つけぬへき言のはもかな 藤原忠定
同賀    あつめおく詞の林ちりもせて千年かはらし和哥の浦松 法皇御製
同     わかの浦にみかける玉を拾ひ置て古へ今の数を見るかな 為氏
 
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続後拾[雜/中] かひもなき和哥の浦半のもしほ草かきおく迄をおもひ出にせむ 平貞盛
同     かきすつるもくす(本ノマ丶)なりとも此たひはかへらてとまれ和哥の浦波 源高氏
同     数ならぬみくつなからも若の浦の波にひかれて名をやかけまし 藤原範秀
同     白浪のよるへもしらていたつらにこきはなれたるわかのうら船 大江高広
同     憂にのみ袖ハぬるとも世々経ぬる跡をはのこせわかの浦波 侍従隆教
同     代々の跡とおもへはわかの浦千鳥まよふかたにそ音そなかれけれ [前中納言/定資]
同     和哥の浦や代々にかハらす住田鶴のふみおく跡を形見とも見む 法眼行澄
同返し   芦田鶴の世々にふみおく跡なれはわすれす忍へ和哥の浦風 法眼源承
 
 
同     和哥の浦や雲井をしらぬ芦田鶴のきこゑん方も波になく也 藤原長遠
同     和哥の浦に代々をかさぬる老の波また立いつる道そかしこき [丹波忠/守朝臣]
風雅雜上  跡つけん方そしられぬ濱千鳥若の浦半の友なしにして 紀行春
同下    もしほ草かき集たる和哥の浦のその人なみに思ひ出すや 前兵衛督惟方
同     今も猶なれし昔はわすれぬをかけさらめやは和哥の浦浪 俊成
同     かきつもるもくすのみして有かひも渚によするわかの浦なみ 平久時
同     和哥の浦に心をよせて年はふれともくつそつもる玉はひろはす 大江宗時
同     わかのうらのなみの数には洩れにけりかくかひもなき藻塩草かな [後徳大寺/左大臣]
 
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同     若の浦に身そうき波の蜑小舟さすかかさなる跡なわすれそ 為家
同     若の浦に立登るなる波の音はこさるる身にも嬉しとそきく 藤原隆信
同返し  いかにして立登るらんこゆへしとおもひもよらん(本ノマ丶)わかのうらなみ 頼政
同     むかし今ひろへる玉も数々に光をそふるわかの浦なみ [冷泉前/大政大臣]
新千載冬  古へも跡みぬわかの浦千鳥今ふみそめて名を残す哉 源宗氏
同     君か代に集むる和哥の浦千鳥跡つけそめし道をわするな [前大僧正/道意]
同     集めこし世々の跡とて濱千鳥わか名もかくるわかの浦波 御製
同     わかの浦の夕波千鳥立帰り心をよせしかたに鳴なり [前大僧正/賢俊]
 
 
同恋上   妹か恋(本ノマ丶)わかの浦松うらみてもつれなき宮にとしそ経にける [土御門院/御製]
同雜上   わかの浦に又此秋も名をかけて六代まて同し月をみるかな 為世
同     和哥の浦に思ひよりしも濱鵆跡つけそふるたひそ重なる [後照念院/関白太政/大臣]
同     たつねゆく和哥の浦路の濱千鳥跡あるかたに道しるへせよ 紀淑氏
同     立帰跡をつけても濱千鳥こしかたしたふわかのうらなみ [前僧正/道性]
同     和歌の浦や道ふみ迷ふ濱ちとり跡つけんとハおもはさりしを 尊円
同     わかの浦にありとしられハ濱千鳥かなハぬ方ハ跡つけすとも [大僧正/道順]
同中    和哥の浦や道を尋て真名鶴のまなふる跡に迷はすもかな 藤原頼時
 
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同     和哥の浦や汀の田鶴の声はかり身は下なから聞えあけつつ 津守国夏
同     和哥の浦や入江の芦の霜の鶴かかる光にあはむとや見し 家隆
同     としふりて世をうみ渡る芦田鶴の猶立ましる若の浦なみ 花園院
同     芦たつの音にのみ鳴て年も経ぬ哀とおもへ若の浦波 法印実甚
同     今よりは家の風にそつとふ(本ノマ丶)へき名をかけ初るわかのうら波 祝部行氏
同     年経ぬる松はしるらむ昔より鳴つたへたるわかの浦波 [大僧都/宋縁]
同     言の葉のつもらハなをやかけまくもかしこき御代のわかの浦波 [作者/不知]
同     玉ならぬ藻屑なりとも若の浦に君かゝかはとかき集めつる 達智門院
 
 
同     玉よする波ものとけき御代なれは風もたたしき和哥の浦松 [微嘉門院/一条]
同     たまも猶光そへとて古への跡にそかへすわかのうらなみ [等持院/贈左大臣]
同     和哥の浦やうき人なみの名もつらしみかきし玉の跡のもくつは 後伏見院
同     若の浦のなみに思はぬ心よりそふへき玉のひかりをそみる 為定
同     名ほ(をイ)かけし跡を尋て藻塩草又ももらすなわかの浦浪 示證上人
同     わかの浦にたたよふ波の名はかりをかけてうき身の有かひそなき [従三位/為子]
同     名をかけて有かひも哉和哥の浦に年経る老の波のうたかた 為氏
同     四の海すみかたき世の思出にふるきにかへれ和哥の浦なみ [光厳院/法皇御製]
 
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同     我方にわかの浦風ふきしより藻くつも波のたよりをそまつ [等持院/贈左大臣]
同     わか心なくさむほとの言のはも猶よりかぬる和哥の浦波 同
同     わかの浦やその人なみになからへてもれぬ恵の身に余りぬる [大納言/顕実母]
同     いかにせんわかの浦はの漂樗身をたてなからあさき心を 法印浄弁
同     数ならぬ我身の程に越てけり心をかけしわかの浦なみ 惟宗光吉
同     わかの浦にかよふ計の道ハあれと昔の跡にふみ迷ふかな 藤原雅顕
同     和哥の浦に跡つけそめし濱ちとり今はよそなる音をのみそなく 行乗法師
同     わかの浦にたゆたふ船の綱手縄ひく人あらハ道もまよはし 性道法師
 
 
同     和哥の浦やむかしの波の跡にしも身を浮舟のなと迷ふらん 法印実清
新拾遺賀  和哥の浦によるとし波をかそへしる御代そ嬉しき老らくの為 [正三位/経家]
同     わかの浦にふたたひ玉をみかくこそ明らけき世のしるし也けれ 法印定熈
同神祇   わかの浦に玉拾ふへきみことのり道を守らハ神もうくらん [後西園寺入/道大政大臣]
同雜上   人なみに名をやかくるとわかの浪に猶跡したふ友千鳥かな [二品法親王/尊胤]
同     人しれぬ音をのみ鳴て濱千鳥跡をそかこつわかの浦波 信快法師
同     和哥の浦に心をとめて濱千鳥跡迄おもふ音こそ鳴るれ 正三位通藤女
同中    立帰りわかの浦浪此御代に老てふたたひ名をそかけつる 為世
 
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同     和哥の浦にとしふる田鶴の雲井まて聞えあけたる道そかしこき [按察使/実継]
同     和哥の浦に沈果にし捨舟も今人なみの世にひかれつゝ 藤原為顕
新後拾秋  和哥の浦にかよひけりとも濱千鳥心の跡をいつかしられむ [前中納言/親賢娘]
同     しるへせよわかの浦はの友千鳥いつ人数の名をもかけまし 三善為永
同     古への跡あるわかの浦千鳥立かへりても名をやのこさむ 小槻匡遠
同別    たつねみよわかの浦路の友鵆立わかれゆく跡はいかにと 藤原為範
同雜上   わかの浦の松に尽せぬ風の音に声打そふる田鶴そ鳴なる 左大臣
同     人なみの数にとのみや和哥の浦の入江のもくすかき集まし 源義時
 
 
同     藻塩草さすかかきおく跡なれや八十年を越るわかの浦なみ [一品法親王/寛尊]
同     みかくなる玉と聞にもわかの浦のもくつはいととよる方もなし [よみ人/不知]
同     及ふへき便もあらは松か枝に心をたに(本ノマ丶)かけよわかの浦なみ 同
同     しつみにき今さらわかの浦波によらはやよせん蜑の捨舟 鴨長明
同     さてもいつ誰かハひかん若の浦にまたよりやらぬ世々の捨舟 読人不知
同     和哥の浦や羽打かはし濱千鳥波にかき置跡や残さむ 順徳院
同     さても猶哀ハかけよ老の波末吹よはるわかのうらかせ [従二位/家隆]
同下    敷島の道は世々経し跡なから猶身に越る和哥の浦浪 為重
 
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同     今ハとて沢辺に帰る芦田鶴の猶立いつるわかのうらなみ [二条院/サヌキ]
同賀    君すめはよする玉ももみかき出つ千代も伝へよわかの浦風 家隆
新続古[春/上] 若の浦の芦辺の田鶴の群はかり波に聞へて立かすみかな [前参議/行忠]
同冬    若の浦の跡をもそへよ友ちとりたひ重れる数にもれすハ [後八条入道/前内大臣]
同賀    納れる和哥の浦風靜にてひろへる玉は千代の数かも [前大納言/公泰]
同     わかの浦にあつめてみかく玉鉾の道ある御代は光そふらむ [民部卿/為明]
同雜上   人しれぬわかのうらみに鳴ちとり絶ぬ跡をも世に残さはや 源経有
同     和哥の浦や老木の松に降雪のつもれる年も今そかひある [前大納言/為定女]
 
 
同中    皆人の心もたねもかはらねハ今もむかしのわかのうら松 読人不知
同     藻屑そと見へてもましる言のはや其名はかりの和哥の浦松 [従三位/雅家]
同     立帰るわかの浦浪さそわす(本ノマ丶)はかゝるもくす(本ノマ丶)のいかてしられむ 左大臣
同     たち返り思へはさすかふりにけり五十年なれぬる若の浦波 [前大納言/経継]
同     和哥の浦やふりぬる世々の跡をたにうき我からに猶たとるかな [大蔵卿/隆博]
同     嘆くそよわかの浦なみ代々かけし跡をみるにも愚なる身を 三善為種
同     かけてたに及はすなから代々の跡にかへるも嬉しわかの浦波 [権中納言/雅正]
同     雲井まて聞へける哉若の浦の芦辺の田鶴の音にもたてぬを 頓阿法師
 
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同     若の浦や雲ゐの友にさそはれて芦辺かくれの田鶴も鳴也 無品親王
同     わかの浦の塵(本ノマ丶)につけてやかきおかんかひも波まのもくつなれとも [従三位/行文]
同     若の浦に身は七十年の老の浪五たひ同し名をそかけつる [前中納言/雅孝]
同     わかの浦や風を便のしるへにも身そ出かての海人の釣舟 藤原秀茂
同     おくれゐて道まとへとハ若浦に夜なく鶴やおもはさりけん 法印慶運
同     和哥の浦の契もふかし藻汐草しつまん世々をすくへとそ思ふ [後京極摂政/前大政大臣]
同神祇   猶守れわかの浦波かゝる代にあへるや道の神も嬉しき 法印果助
新続古[神/祇] 若の浦に迷や果む三熊野の神のしるへのなき世なりせハ [権大僧都/堯孝]
 
 
万葉七   和哥の浦に白浪立て奥津風さむき夕はやまとしそ思ふ 無名
同十二   和哥の浦に袖さへぬれて忘貝ひろへと妹はわすれ(本ノマ丶)なくに 同
堀川百   若の浦の干潟はるかにぬる田鶴のひとりあまらん友なしにして 上実
源氏若菜  よる波の心もしらて若の浦に玉もなひかむほとそうきたる
六百番   住よしの松はあはれをかけやせん八十年過ぬるわかの浦波 俊成
同     和哥の浦のしるへとなれる老の浪けふ住よしの松もしるらん 左将軍
山家集   家の風吹つたふともわかの浦にかひある言の葉にてこそしれ 西行
拾玉    わかの浦や言の葉風に立浪を心にかけて契とをしれ 慈鎮
 
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同     若の浦の沖つ白浪おりかくや哀をよする秋の初風
同     思ふへしかゝれハとまる年月の六十年にあまる若の浦人
長秋    年たにも若の浦はの田鶴ならは雲井をみつゝ慰てまし 俊成
同     和哥の浦の波にとしふる諸人も法のうきゝにけふそあひぬる
同     若浦や波にかきやるもしほ草これもよしなきすさひ也けり
名寄    わかの浦の入江に朽し藻塩草ことし始て世にひかれぬる 光俊
月清    もしほ草はかなくすさふ若浦に哀をかけよ住よしの波 後京極
拾遺愚草  たらちねの心をしらはわかの浦に夜深き鶴の声そ悲しき 定家
 
 
同     和哥の浦や立うは波の跡をたに奥をふかめて見る人そなき 家隆
[夫木/千五百] 梨壷のむかしの跡に立帰り和哥の浦半に波のより人 家長
同     ためしなき松の烟にことゝはん時しもいかにわかの浦人 為家
同     和哥の浦の神にかきやるもしほ草心になひく手向ともかな 家隆
同     わかの浦やなきたる朝のみをつくし朽ぬかひなき名たに残さて 定家
建保百首  君をいのる便にかけよみくまのに跡垂そめしわかの浦なみ 僧正行意
[建保三方/所百哥合] 寄来へきかたも渚のもしほ草かきつくしてしわかの浦波 定家
草庵集   わかの浦に三たひの跡も今からや稀になりぬる友鵆哉 頓阿
 
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同     和哥の浦に跡をとめすハ濱鵆なにゝつけてか名を残さまし
同     時にあふわかの浦はの友ちとりおもひなきにも音こそなかるれ
同     和哥の浦や同し入江の跡つけてかひあるけふの友ちとりかな
同     今さらになに尋らんかきすてゝ跡なきわかの浦のもくつを [小宰相局/隆明卿女]
同返し   もくつをやかきも捨けんわかの浦にさなから残る玉とこそ見れ 頓阿
同     わかの浦に君かひかすハ綱手縄たゆたふ船やよるへなからん [修理大夫/源氏信朝臣]
同返し   わかの浦に入にし船ハ今更にたれひかすとも何かさはらむ
同     人ならハはかなくそみむ八十まて若の浦なみ立ましる身を
 
 
同     行末も漕ははなれし和哥の浦の同し入江のけふの友舟
        民部卿宰相中将と申ころ、住吉の社を絵に
        あらはして、名所の物にて硯文台なと作りて、
        歌講せられし時、和哥の浦の石にて硯作り
        て送り侍しつゝみ紙に
同     和哥の浦や心をかくる白浪の岩にくたけておもふとはしれ
同返し   わかの浦や浪うつ岩のいはねともくたく心の程はしりにき 民部卿
同     時しあれハ玉の光もあらはれてかたへに越るわかの浦なみ [権僧正/道我]
 
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同返し   何とたゝ浮ひいつらん和哥の浦の波の下草下に朽にて
同     濱千鳥ふりぬるよしの跡はあれと猶道たとるわかの浦なみ
同     哀とも聞人あらは若の浦の芦辺の田鶴の音をや添まし
同     若の浦に老てかたふく松かねのうつもれぬ名を思ふはかなさ
同     みかきける此玉のみそ若浦のむかしをうつす光とは見る 弾正宮
同返し   老の浪立かさねにし若浦のもくつハいとゝ玉もましらし 頓阿
       白氏文集余年七十一不事吟哦といへる事
       おもひ出て
 
 
同     今はあれ心もよせし七十に越ぬる後のわかの浦浪
同     もしほ草かくもはかなし若浦になゝそしへたる蜑のしわさに
同     和哥の浦の波まの千鳥諸声に心をよせて跡したふ也
同     わかの浦の波かけ哀なれ〱ておくるゝ袖のほす隙もなし
同     なきかけの立やそひけん此としもふるきにかへるわかの浦浪
同     今そしる若の浦なみうき身にもかけらるゝ神の恵有とは
同     わかの浦に今よひ尋ぬる友鶴の契は千代も絶しとそ思ふ
同     わかの浦の芦辺の田鶴も幾千代かかよひてすまむ庭の池水
 
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同     行末も猶そはるけき若浦に代々をかさねし鶴の毛衣
同     たつ波ものとかなる代に成にけりはや玉ひろへ若の浦人
同     和哥の浦になるるやなにそ友鵆跡もとめしと捨し浮世を
 
[建保元年十月/熊野御幸時] 和哥の浦の松吹風に月すみて波にやとかる冬の夜半かな [因幡守/通方]
以上、紀路哥枕抄にのせたる二百二十一首、いつれも和哥の浦とのみいふ。
又、羅山[林道春/なり]、惺窩[藤歛夫なり、下冷泉参議為純の子。/詩賦を善す。元和五年に卒す。道春の師也]
等の詩作もあり。并に和歌浦とのみいふ。又引て證とす。
 
 
羅山詩集[三巻/四葉]引[テ][二]続日本紀[ヲ][一]云、弱[ノ]浦、一[ノ]名ハ明光浦。後
人改[ㇾ]弱曰[ㇾ]若。又[タ]云[二]倭歌[ト][一][已上]。同[五葉]、倭歌[ノ]浦排律一首[アリ]。
  弱[ノ]浦昔聞[ㇾ]名[ヲ] 今看[テ]猶眼明[ナリ] 蠔粘(カウテン)[メ]疑[ヒ][二]石[ノ]出[ルカト][一]
  蟹走[テ]訝(イブカル)[二]銭[ノ]行[カト][一] 松下[ニ]有[リ][二]漁[ノ]到[ル][一] 蘆邊[ニ]奈[ン][二]鶴[ノ]鳴[ヲ][一]
  堆々(タイ〱)塩竃(エンサウ)冷[ク] 處々草苔生[ス] 土脵如[二]蜀府[ノ][一]
  潮去[テ]似[二]盆城[ニ][一] 乘[メ][ㇾ]興朗吟發[ス] 山青水自[ラ]清[シ]
惺窩文集[一巻/五葉]云、紀州雜詠、遊[二]和歌浦[ニ][一]
  遨遊[ノ]諸客海城[ノ]傍[ラ] 瀲灔(レンエン)[タル]水光連[ル][二]波蒼[ニ][一]
 
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  出[ㇾ]網[ヲ]跳魚、新[タニ]撥刺(ハツラツ) 一聲欸乃(アフアイ)逐[フ][二]斜陽[ヲ][一]
或人、弱浦秋月と云題にて一絶を賦し、一首を
詠す。
    弱浦秋月
  気霽[シ]潮平[ニメ]月正[ニ]圓(マドカ也) 嬋娟[タル]秋色眼中[ニ]寛[シ]
  名區不[二]獨[リ]洞庭[ノ]景[ノミナリ][一] 好[ミ]是[レ]明光浦上[ニ]看[ル]
  月清み千里の波にかけみちて秋をしらふる和歌の松風
全長按するに、和哥の浦はたゝ秋の月のみにあらす。
 
 
山々の晴嵐、海上の帰帆、平沙落雁、漁村夕照、
遠寺晩鐘、夜雨、暮雪まてに、明光浦に八景
ありといひつへし。但し、貝原翁か諸州めくりに
和歌八景といふは、東照宮、天満宮、玉津島、紀三
井寺、妹背山、片男波[又かたを浪と/いふ在所あり]、布引の松、芦辺
寺、是なり。八景の内、玉津島をのそきてハ、いつれも古
来の名所にあらす。近年あたらしく名付けしなりと
云ハ、誰人にか聞きし。いまた詳ならす。紀海音かつら
 
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ねし、片男浪帰帆、玉津島秋月、布引松夜雨、
濱辺落雁、紀三井寺晩鐘、市町晴嵐、芦辺夕
照、藤代暮雪とあるハ、似都合らしく聞ゆ。然れ
とも、これらは皆限る所ありて面白からす。たゞ、此所は
世にたくひなき名所といひ、ことさら浦辺の事
なれハ、蜑の釣舟の帰帆も見ゆ。また濱辺には
落雁もあり、月雪嵐雨、鐘の声、夕日の照らす
ひかりまても、よろつの景のおもしろく見へけるをこそ、
 
 
八景なんともありしとこそハいはめ。かならす八景には
かきるへからさるなり[云々]。
此和哥の浦名所旧跡を巡見するに、府城より
は、高松をはしめとして、此記の次第のことく廻る
へし。また他国より熊野詣ての順礼なとハ、下向
の時たち寄見物するに、多くハ紀三井寺より
わたし舟にてわたるゆへに、妹背山にいたりつく。
しかれは、まつ妹背山を見おはりて、石橋を渡り、
 
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橋のそはなる朝日の茶屋・芦辺の茶屋にて、布
引の松、紀三井寺、藤代山なんと遠望の絶景い
わんかたなきを一見し、それより左の方南へまはり、
こしのいはやを見、鏡の宮の小祠を拜し、夫より
さきへハ、道あれともゆかす。もとのみちをあとへもとり、
玉津島へ参り、やしろの左なる堯孝か植ゑし七本
の松を見て、やしろの右神主の宅の前より東の
方、いもせ山の見ゆる所、堀はたへおり、川堀のはた
 
 
をつたひ左の方へゆけは、養珠寺なり。此寺へ参り
つかんとてのまへ、左の方、山のむかふに鳥居のたちたる
瓦ふきの堂みゆるは、妙見堂なり。養珠寺へ参り、
それより北の方へゆかすして、また玉津島へもとり、
神前をとほり、左右松山の所に道あるをにしへ
出れハ、玉津島社と云四字をほりつけたる石あり。
此あたりの松原を和哥の松原と古歌にも読り。
一見して右の方市町へ出れハ、六坊の随一大相
 
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院なり。堂には廿五ほさつ来迎の体を安んし、
庭は自然山の絶景なり。参詣見物して、
片原町を北へゆきあたれは、札の辻へ出る。左の
方へハ道あれともゆかす。札の辻の高札とならひて
右の方に、東照宮前の下馬石あり。その右の傍に
ある石橋を下馬の橋といふ。橋より手前右の方
に二軒ある茶屋、松屋竹屋と云。これを下馬の
茶屋と云ふなり。橋をわたれは、左は並木の
 
 
松ありて外ハ葭原なり。右の方は塔中六坊
の内四院、門をならへたる前を通り、四軒目の和
合院の左隣前に閇戸の門あるは、御當家将軍
御代々台宗にいらせ給ふ尊霊の御霊屋なり。其
次に枝のたれたる松三本ある所に石のとりゐある
は、東照宮への入口なり。次に門二つあるは、別当社
僧の本坊雲蓋院なり。次は天満天神の社[鳥居ハ/並木の
松より/外葭原にあり]。それより左へ通しおり、六坊の随一十如院
 
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の前を左へ行て、国君第二代の亜相清渓院殿の
御位牌殿あり。次に天神の神主安田兵部の古宅
[今は東照宮の袮冝/安田助之進、居住す]。次は東照宮前下馬場の際限、木
戸あるを出れは出島なり。夫より片男浪を一見し、
御旅の鳥居のある所より、ます/\に道あるを東へ
いつれハ、もとの札の辻へもとる。それより村中を通り、
村はつれより東の川はたへゆき、宗祗か松を見物し、
川はたを北へ行きて、雜賀の古戦場御坊山を右に
 
 
見て、西へむき、鶴立島の所より府城への
往還本道へいて、道端、山麓に右に亀遊岩
を見、しはし行て、左に矢の宮の松林見え、
右に御坊山へのほる道あり。又しはしゆきて、道
端の右並木の外に猊口石あり。すこし帰り
て右に愛宕護山みゆ。夫より八町畷(ナワテ)、並木の
松ある道を経て、高松の茶屋にて休息し、
真砂(マサゴ)山・吹上の峯の根の高くあかりし松を
 
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みて、それより府城へいたるへし[云々]。是より
下に記すは、府城より廻見の次第を記す。故に
高松をはしめとす[云々]。
 
○高松茶屋附真砂山・吹上峯
 文選鷦鷯賦[ニ]云、隴埞之慕[フ][二]高松[ヲ][一] 六臣註十三巻[四十二左]
高松とは、府城の南の町はつれ、曹洞派の禅宗
 
 
高松寺ありて、次に丈六の阿弥陀います寺
あり。丈六寺と云ふ。俗におふほとけといふ。其大佛
より南に、吹上のすな山別けて小高き所に
松生ぬれは、外の並木の松よりも梢の高く
みえし故に、そのかみ高松とハ名付けしなるへし。
今松の根の高くあかりしハ、按するに、此砂山
にしのかたハ吹上の濱[又ハあら濱/ともいふなり]にて、風の恐し
き所なれは、砂山風の吹くことに次第に砂を吹ち
 
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らし、山のひくゝなるにしたかひて松の根たかく
あらはれて、壱間或は二間はかりも根のあら
はれたる松のあるなるへし。むかしより高松と云へ
と、今は根高松ともいふへき歟。松の根高く顕
ハれたるにて考ふれハ、いにしへは砂山高くして
小嶺をなせしとおもわる。されは、古人の吹上の峯・
吹上の濱の真砂山なんと哥に詠せしも、此所の
事にや侍らん。陽国名跡志に云、真砂山ハ
 
 
いつくをさすともさためかたし。此濱廣く、まさこ
風に吹きつもりて自然の山をなす事多し。
見るに今も所々に砂山多し。藻塩草に見たり。
名寄 秋かせの吹上の濱の真砂山ほかにハ見ける月の影かハ 為家
また名跡志云、吹上の峯は按するに、今の府城の
山より南につゝきたる山なるへし。
玉吟 秋の夜を吹上の岸の木からしに横雲しかぬ山端の月 家隆
全長按するに、吹上の峯を府城の南につゝき
 
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たる山といふハ、恐らくは是にあらし。府城の南
の山は、東面を岡山といふ。されはにや、台徳院殿
の御位牌殿ある大智寺の山号を岐阜山と
いふにて知るへし。又西面をハひえの山といふ。
むかし此所にゑい山法師住みし故に名付くと
なん。しかれは吹上の濱の真砂山、或は吹上の峯と
いふは、決して高松の砂山をいふにてそ侍らん。
たゝし一説には、湊の西要寺より南にて、むかし
 
 
渡辺若狭守下屋敷にて有し所の砂山なり共
いふ。今は高松をまさこ山とす。此高松の砂山、
南のおり口に茶屋二軒あり。中にもおりくち
北の方にある茶屋、家ハ一軒なれとも、前に棟を
たてて見世を二軒になす。北の見世を鶴屋と
云、南のみせを亀屋といふ。国守より暖簾(ノフレン)[和漢/三才
圖會家飾ノ巻[三左]、幌[ハ]音黄、和名止波利(トバリ)、俗云暖簾(ノフレン)。廣韻[ニ]/
云、幌[ハ]者帷幔也。以[二]布棉[一][ㇾ]之。其幅無[ㇾ]定。市廛毎戸[ニ]懸[テ][ㇾ]
幌[ヲ]、記[二]屋号及[ヒ]所[ㇾ]賈之品/類[ヲ][一]者、即[チ]幌之属也云云。]を給はりて、毎年四月十七日の
 
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御祭禮の時、或は国君和歌へ御社参の日は、
此のふれんをかくるといふ。外にある一軒の茶屋と
共に二軒をつる屋かめやかと人皆あやまる。
ゆへに事をつまひらかにしるす[云云]。たゝ茶屋と
はかり云時は、二軒ともに高松の茶屋なり。此高
松の茶屋のすこし北より和哥村近辺まて
八町ほとの間、道の左右に並木の松あり。八町
縄手並木の松といふ。左右は田畠あるひハ山の
 
 
麓なり。和漢三才圖會[大地/の巻]に畷(ナワテ)の字を注して
云、畷ハ音拙(セツ)。和名奈八天(ナハテ)。畷[トハ]者、井田両陌[ノ]道、形[チ]紆(ウ)、
行如[ㇾ]縄。故ニ和ニ訓[ス]縄手[ト][已上]。和尓雅[地理/門]に云、畷・
〓(偏は田、つくりは弱い)同[ト][已上]。並木の松とハ日本の語なり。漢文にハ列樹(レツジュ)
といふ。事文類聚[三巻]に云く、過[ルニ][ㇾ]陳[ヲ]道無[二]列樹[一]。[注に]列
樹ハ表[ニ][二]於道[ヲ][一]。且[ツ]為[二]城守之用[ニ][一]也[已上]。此高松の茶
屋より三四町も南、並木の縄手道よりひたりに
愛宕(アタゴ)山見ゆ。
 
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 ○愛宕山
あたこ山は高松の茶屋よりひかし南に見ゆ。
参詣の本道は、猊口石より壱町はかり手前、
海道より左壱町はかり東の方、山のふもとに、
石灯楼・華表・別当寺およひ門なんと見ゆる。
やしろハ鳥居より左の山の頂上松林の中に
みゆ。又たかまつの茶屋近辺よりも野あひの
近道あり。また東辺より参詣するにハ、小雜賀渡
 
 
船のつく所より真直(マスグ)に西へゆき、山の東北より
のほる道あり[云云]。熊野独参記に云、愛宕山ハ
寛永年中に不動院と云る山伏、開基草創す。
愛宕山瑞雲寺圓珠院と号す寺領少くあり。
脇坊は利生院・吉祥院・正光院三ケ坊あり[已上]。
南紀畧志にハ此山を東禅寺山と標して注して云[下]
[二]雜賀[ノ]庄塩屋[ノ]村西一町[ニ][一]。相傳[フ]山下[ニ]有[二]薬師堂[一]
元和壬戌、台宗之僧、勧[二]請[メ]山州[ノ]愛宕山権現[ヲ][一]
 
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[二]愛宕山瑞雲寺[ト][一]名[クト][上][已上]。全長考ふるに、愛宕二
字ハあいたうの音の下略なり。ごの字なきハあた
山なるへし。是、中古書き謬り脱するか。神社考
[四巻/十一]には愛當山と標し[十五/葉左]、當[二]桓武之時[一]、改[二]岩字[一]
[二]護字[一]、号[二]愛宕護山[一][云云]。又同書[十六/葉]圓久伝には
愛太子山と書き、是正を不[ㇾ]註[云云]。拾芥抄[五巻/九葉]に
愛宕護(アタゴ)とあり。壒囊抄[十七/九左]愛宕護(アタコ)とあり。下学集
[上巻/七左]には愛宕岩(アイタフガン)又ハ名愛太子とあり。南北二京
 
 
霊地集[下巻/廿一]にハ愛宕岩山とあり。蟠龍子か本朝
俗説辨[一巻/廿四]には愛宕権現と標し、登檀必究を
引て日本愛宕山等[ト]言[フ][云云]。貝原好古か和尓雅
[二巻/四十二]にハ愛宕神社とありて、註云、愛宕神社[ハ]在[二]
波国桑田郡水雄[ノ]北[ニ][一]。所[ㇾ]祭[ノ]之神二座、伊弉冊尊、火
産霊(ホノムスビノ)尊[已上]。蟠龍子か本朝俗説弁[一巻/廿四葉]云、俗説云、
愛宕権現ハ釈[ノ]日羅か霊にして本地は勝軍地蔵
なり。此故に武家これを尊敬す。今按るに此説非也。
 
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あやまり傳ふる事すてに久しうして、本邦にいふのみ
にあらす。登檀必究にも日本愛宕山霊威地蔵
王と記せり。しかれとも愛宕の神は日羅か霊にあら
す。伊弉冊尊と火産霊命也。はしめ山城の國
愛宕郡に祭るゆへに愛宕社と号す。後に丹波
国桑田郡にうつすといへとも旧名をあらためす。豊
葦原卜定記に、天神第七の陰神(メガミ)なり。火災を
なかく退けんためなりとて、若宮に火産霊を置
 
 
給ふとなり。此神、火を防き産火を忌給ふハ、軻〓(偏は車つくりは久)
突智(カグツチ)にやかれて退去(カンサリマス)によりてなり。惣して勝軍地
蔵といふ事、佛経になき事なるを、天應年中に
慶俊と云ふ僧、我朝ハ武を尚ふ国なる故に勝軍の二字
を附会せしと云り[已上]。全長考るに、寂照堂か谷響集
[十巻/十八]に云[ヒ][下]勝軍地蔵及[ヒ]其[ノ]秘法、出[タルト][二]何[ノ]経軌[ニカ][一]問。答[ニ]、雖[三]経
軌[ニ]無[ト][ㇾ][二]勝軍[ノ]名[ヲ][一]、而上古[ノ]大士、如[二]役[ノ]小角・霊遍上人[ノ][一]、親[タリ]
[二]感見[一]乃[チ]号[二]愛宕権現[一]者、即[チ]是也[ト][上]、又引[テ][地]元享釈書延
 
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鎮傳[ニ]云[フ][下]、坂将軍田村、奉[ㇾ]勅伐[二]奥州[ノ]逆賊高丸[ヲ][一]。依[テ][二]鎮勝
軍地蔵・勝敵毘沙門二像[ヲ]造供脩[スルノ]護念[ニ][一]、将軍親[ラ]射[二]
[一]而獻[スト][中]首[ヲ]帝城[上]縁[ヲ][天]、其[ノ]秘法者、知法之明師所[ニ]選出[スル]言[フ]
[云云]。縦[ヒ]雖[二]佛経[ニ]説[ト][一]、無[キハ][二]信行[一]者無[シ][ㇾ]益。若[シ]有[ラハ][二]信祈[一]者、誰[レノ]神[カ]可[キ][ㇾ]
[ㇾ]守、何[ノ]益[カ]可[キ][ㇾ]不[ル][ㇾ]蒙[ラ]。信[ノ]功、豈[ニ]唐捐[ナラン]乎。 貝原翁か諺草
[一巻/六葉]に、海鰛(イワシ)の頭(カシラ)も信心からと云に、風俗通の故事を
引く。見つへし[云云]。
 
 
 ○猊口石
けいこうせきハ、すこしき岩山なり。愛宕山へ参る
道の角よりハ壱町はかりさきにて、あたこ山のふ
もと、道はたまて出はりたる半町はかり手前にて、道
よりハ左の方、並木の松よりハそとに、すこしき岩山有
て、上にハ松生たり。岩窟ありて、其かたち猊の口
をはるに似たるとて、猊口石とハ名付けしと云。窟のうち
右の方に、猊口石の三字を横書刻彫す。李梅渓
 
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の手跡とも云ひ、又は永田道慶の筆跡なりとも云。
猊口の二字、出所いまた考へす。義楚六帖[廿四/三葉]、引[テ][二]西
域記[ニ]梭猊[ト云ヲ][一]、音釈[ニ]狻猊[ハ]即[チ]獅子也[已上]。又同書[ニ][廿四/初葉]、引[テ][二]
瓔珞経[ヲ][一]、師子張[ルト][ㇾ]口[ヲ]云語あり[云云]。
 
 
 ○御房山
猊口石より半町はかり行きて、あたこ山につゝきたる
山のふもと、道はたまて出はりたる所に、山へのほるひ
ろき道あるハ、御房山なり。すこしのほりて池有り。
三昧あり。其うへの平らなる所、むかしより弥勒寺山と
いふ。天文年中に、一向宗の中興蓮如上人より第
三世光教證如證人、此山に来住せしより御房山
とハ云ふなり。證如、此山に来住せし故は、和漢三才図會
 
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[山城/巻云]、證如聖人ハ實如の孫圓如の子なり。圓如は
逝去し、證如十歳の時實如遷化の故に、幼にして
嗣となる。こゝに家老下間筑前守[和漢三才図會常/陸巻ニ、西本寺ノ家老、
下間ト称ス。頼政/之子孫也云云]、恣に事を執し、且つ近ころは乱世にして
憚る所なし。北国の門跡をかたらひ所々を押領す。
然るに天文元年、江州佐々木六角弾正定頼、法華
宗の輩と同しく、山科の坊舎を攻めこれを焼亡す。
證如[十七/歳]敗走して摂州野田にいたる。敵これを逐ふ。
 
 
百姓ら宗門にして是を擁(カクマ)へ防戦す。其間に小艇(コブネ)に
乗して遁れ去る[已上]。また鷺森旧記にも云、證如、天文
元年八月、山科松林山本願寺を退去ありて大坂へ
御下向あり。其ころは天下静謐ならさるにより、大坂
にありてはあしかりなんと思ひ、当国へ御下向ありて
黒江の御堂に蟄居したまふ。然れとも此地も要害
の為あしけれは、同十九年に和哥の弥勒寺山へ御座
を移さる。今弥勒寺山に旧跡あり。其後、御堂みろく
 
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寺山に有りといへとも、参詣の便あしきとて、顕如上人
永禄六年四月に宇治郷鷺森に移し給ふ[已上]。
考るに、御堂をみろくし山より鷺森に移されしより
今元文三年まて百七十六年は、御坊山とのみ云
なり。此所、名所にハあらすといへとも。古戦場といひ、
殊に東照宮御祭礼の時の雜賀踊りの根由たる
ゆへに、具に事をしるすのみ[云云]。問て云、雜賀踊の
根由とハ其事なんそや。答て云、根は根元、由ハ由
 
 
来なり。鷺森旧記に云、雜賀庄宇治郷鷺森白砂(シラス)
にて毎年四月六日雜賀踊りの拍子揃あり。これは
東照権現宮勧請の時、南龍院殿はしめ給ふと
なり。其由来をとへハ、雜賀の衆中[同書に鈴木孫/市は雜賀大将
と云、又ハ天正年中に鈴木/孫市といふ在廰ありといふ]、大坂御門跡へ御味方申、城を
持ちかためけれは、信長公大にいかりてとかく大坂の城
の堅固なるハ、雜賀より人数を籠らせ弓鉄炮
の上手いくらともなく楯籠らする故なり。まつ雜
 
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賀を打ち果せとて、天正五年二月下旬に、雜賀三緘
[私に加註す。或か筆記に、雜賀庄西濱村に雜賀隼人正末孫あり。本/名ハ上村と云。西濱の城主にて尊氏将軍の侍也。信長公代に雜賀の
三縅と/云是也。]・根来の杉の坊を案内者として、秋田城介信忠
卿、北畠中将信雄卿、織田上野介、神戸三七等に数
萬騎を引率して、河内国若江まて出陣あり。雜
賀の者とも是を聞て、和哥の弥勒寺山を要害と
して、小雜賀の上下、玉津島、布引辺の川中にい
くらともなく桶・壺等を埋み、馬足の立ち行かさるやう
 
 
にとの巧みなり。さて此たひ、信長の勢数萬騎にて
当国へ発向の事、雜賀の運命此時にあり。人力
にてハ叶ふへからす。そも〱此軍と申ハ、大坂御門跡へ
御味方申故なり。先年證如聖人此山に座
ける時、関戸の明神[号矢大/明神]山下にありて佛法を守
護し、さま/\のふしきを顕ハし給ふ。今又なんそ捨て
給はん。此度のいくさ、味方利を得るやうに守らせ給へ
と祈誓して、男女老少をゑらはす山上山下に満々満ち
 
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たり。寄手ハ数萬騎なれとも、騎馬にて自由なら
す。味方は徒立ちなれハ、打越と弥勒寺山と陰陽(キタミナミ)
の高峰にありて、弓・鉄炮を放つほとに、先陣に立
たる堀久太郎[私ニ加註ス。古押譜四巻七左ニ堀久太郎秀政、/従四位下左衛門督、秀吉公時、賜豊臣氏。]
一支へもせすして敗北せり。雜賀勢さしつめ引きつめ
散々に射て、手下に百四五十騎討とりぬ。其上、信長
勢三月三日大塩干を心さして攻めけれとも、神力故にや、
数日塩たゝへて干塩といふ事なし、或は馬を渡
 
 
さんとすれハ、川中に埋みおける壺・桶の中へ乗こみ、
人馬ともに塩にひたりて漂ひけれハ、信長勢申しけるハ、
いや/\此軍ハたゝ事にあらす。三月三日ハ一年中の
大塩干なるに数日の満塩、これ人力の及ふ所にあらす
とて、皆悉く引退きけれは、雜賀勢勝鬨(カチドキ)喠(ドツ)とつく
りて、是ひとへに関戸明神の佛法を守護し雜賀
を救ひ給ふ故なりと、餘りに悦ひ、刀・脇さしを筧
とし、弓・鉄炮を水車にまハし、指物さしかさして、
 
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関戸明神にてよろこひ踊りぬ。其後、雜賀運を
ひらきぬるためしなれハとて、拍子をつくりて雜賀踊と
号してありしを、当国古例の踊りなれハとて、今の世迄、
権現宮祭礼の節これをわたすとなん。其拍子揃、御
堂の白砂ハ境地廣く、ことに因縁もあれハとて、今に旧
事としておこたる事なし[已上]。信長記第十巻[初葉]紀伊
国退治事と標するの下、大同小異。見合はすへし[云云]。
 
 
 ○矢の宮[関戸大明神トモ云]
此一社は、御房山の西二町はかりに関戸村あり、此
村に坐す神なるゆへに関戸明神とも云。神体によれは
矢の宮と云。和哥道より参詣するにハ、左に御坊山へ
登る道坂口ある所、海道より右に、並木の松の間
すこし廣き道ありて、禁殺生の三字を彫付たる
切石、北向きに立てあり。是ハ矢の宮の禁殺生石には
あらす。和歌一村の四傍にある禁殺生石なり。この
 
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石のある所より西へ壱町はかり行き、左右へ廣き
道あるを左の方へまかり、関戸村の人家ある所へ
また壱町はかり行て、西の方へ行道あり。此道を又
壱町斗行て、村の西はつれへ出れは、右の方に大なる
木の鳥居あり。松林ありて林中に矢の宮あり。
鳥居の右隣は当社の神主[矢田中務/小輔と云]居宅也。
大鳥居の内、左に瓦葺の一宇あるハ、神楽堂[国主御/社参の
時ハ此所にて御装束/の間になすといふ]、次に御湯立の場あり。その次に
 
 
一棟三扉のかり宮あり。造工の時のかり宮なりといふ。
右の方には、矢田氏の宅の後ろに御供所とみへて瓦葺
の一室あり。次に華表の正當、神前に神楽堂[二間/はりに
五間半、左右ハ二間四方つゝ床ありて、/常にハ閉戸す。中一間半ハ道なり]有り。次に又小鳥居有て
左右は柵なり。柵の外(ソト)左右に石燈楼六基[左右に/三基
都合六基なり。鳥居の傍にある一對、左に奉寄進石燈籠ヲ矢/宮御宝前。元禄十丁丑年九月十三日、雜賀庄関戸村講中とあり。
右にハ奉寄進等の十一字ハ同して、元禄十一戊寅年六月十三日、雜賀西濱/講中とあり。次の左右ともに正中にあるハ各柱石なく、かたち(絵)如此し。
銘に忌事ありて取りたるか。或は摧破の故にのそく歟。次の左右ともに/はたにあるハ、左右ともに銘同し。正徳三癸巳年二月、奉建願成就
 
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所祈。関戸村中野自適斎/与雜賀荘繪馬講中とあり]、又柵の内、垣の左に石燈樓一基
あり。銘に、獨立亭亭、一點熒熒。契于神霊、徹幽冥。
慶安三年四月十五日、建于海士郡雜賀荘矢宮。
此、府君之所命也。那波元誠誌。とあり。柵の内、左右
南向に末社あり。社に札有て、左にハ春日神社・住吉
社とあり、右には三諸神社[私に加註す。/三輪明神也]・伊勢大神宮と
あり。本社は、前に拜所ありて屋ねをふき、下にハ板を
はる。正面に大なる鈴をかけたり[左右の末社も/同し鈴なり]。本社の
 
 
左右にみかけ石の灯籠二基ありて、銘に永代常夜
燈。正徳六丙辰年五月吉日とありて、左右とも同し。
南紀略志に、矢の神社は雜賀庄関戸村の西北に
有り。相傳、住吉の神霊を祭る。寛永年中に国主
重臨し給ふ[已/上]。全長按するに、住吉の神霊を祭る
とハ非なり。末社に住吉の社ある故に[云云]。南紀雜集
略に云、矢大明神ハ雜賀庄関戸村の北にあり[もし/是、吹上
の神社か。/猶可尋]。社家者の説に云、むかし此所の林の内に夜々
 
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光を放つ。里人あやしみて行て見るに白羽の矢一
雙あり。衆人、神の化する事を知りて假殿(カリドノ)を設け
て祭る。後また神、巫(カンナギ)に託して云く、吾は軍神なり。社
をたて祭れ。矢大明神と号すと云々。雜賀庄廿一
村の氏神にて、天正五年大樹信長公雜賀をせめ
給ふ時も、村民やしろに詣て神助を乞に、神、女巫
に託して云、敵兵は三月三日潮(シホ)の涸(カ)るゝを待て攻来る
へし。しかりといへともわれ村民のために海水をひる事
 
 
なからしむへしと。果して神の言の如し。よつて織
田家、軍を帰せしと也[已上]。また南紀雜集略に云、
吹上の濱に吹上の神と云あるへし。今尋ぬるになし。
按するに関戸村矢大明神の事ならん歟。山家
集に云、待賢門院の中納言の局、小倉をすて高
野の山の麓に天野と申山にすまれける。帥の局、
みやこの外のすまひ問ひ申、さてはいかゝとて分けお
はしたりけり。ありかたくなん。かへるさに粉川へ
 
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参らせ給ひけるに、御山より出合ひたりけるをしる
へせよとありけれは、具し申て粉川へ参り
たりける。かゝる序は今はあるましき事なり。
吹上を見んと云、具せられたりける。人々申いて
ふきあけへおはしけり。道より大雨風吹て興
なくなりにき。さりとてハとて吹上に行着たり
けれとも、見所なきやうにて、やしろに輿はかき
すへておもふにも似さりけり。能因か苗代水に
 
 
せきくたせとつゝけてと、いひつたへられるものをと
おもひ、やしろに書きつける。西行法師、
 天降る名を吹上の神ならハ雲晴れのきて光あらハせ
 苗代にせきくたされし天の川とむるも神の心なるへし
と書きたりけれは、やかて西の風吹きかはりて、忽に雲
はれてうら/\と日和に成にけり。末の世なれと志
の至りぬる事にハしるしあらたなる事を人々申
つゝ、信起きて、吹上わかのうらおもふやうに見て帰られ
 
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ける[云云]。全長按するに、こゝに吹上の神と云ふハ矢の宮
の事にてはあるまし。府城の西、湊雄の町にある吹上
の社・蛭子社むかしハは和哥吹上二本松のあたりに有て、
中古今のみなとに移すと云。湊にいます神、まへにハ顕国・
蛭子両神社といひしを、今は華表の額も改りて、
吹上社・蛭子社とあれハ、西行かいのりて雨のやみたりし
は、今、湊にいます吹上の神にて、和哥の関戸村にいますハ、
矢大明神なるへし。されハ南紀略志にも云、顕国・蛭
 
 
子両神社、府城の西、紀水門にあり。初めは吹上二本
松の本に有て、中古此所に移す也。或か云、吹上
神ハ此御社歟[已上]。或か筆記に云、そのかみ雜賀に
鈴木左太夫と云人あり。紀州の内にて七萬石はかりの
領主にて、和歌村の入口養珠寺山の北の尾
前に城郭ありて、東の方ハ侍町、西の方の北、
矢の宮の前、南北六七町ハ町屋にてありしに、
雜賀没落以後、町は若山へ引といふ[云々]。吹上の
 
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やしろ、みなとへ移せしも此時の事ならん歟。考ふ
へし。
 
 
 ○亀遊巖
此巌は、御房山の坂口ある所より一町はかりの間、
道より左、山の麓出はりたる山きわをとほり、さき
にては又道をはなれて、山の麓道より遠さからんと
するまはりかとに、岩あり。形(カタチ)亀のあそふに似たるとて、
亀遊巌とハ名付けしなり。岩窟の下に別に青石を
立てて、龜遊巖の三字を竪書刻彫す。これも道慶
の筆なりと云。或ハ一説に、道慶すてに筆を染し
 
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かとも、梅渓の云、亀の字の龍尾、道慶の手に及ふ
へからすとて、梅渓是を書すとも云。考ふるに亀遊の
二字ハ出史記[百廿八巻/一葉]。亀策[カ]傳[ニ]云、龜千歳乃遊蓮
葉之上[已上]。全長考るに、龜遊巖の龜の字不正なり。
李文仲[カ]字鑑第一[平声/脂韵]云、龜[ハ]、居達切。甲蟲[ノ]之長[ナリ]。説文、
[ㇾ]它[ニ]、象[ル][二]足甲尾[ノ]之形[ニ][一]。它[ハ]、古[ノ]蛇字。俗[ニ]作[ㇾ]龜[已上]。
 
 
 ○鶴立島
亀遊岩より半町はかり和哥の方へ行て、道より左
の方六七間十間はかりもはなれて畠の中に松三
本生たる小高き所みゆ。其所に行きてみれハ、丘の上、
松のもと草むらの中に、大きなる石四つ五つあり。中
にも、道の方へむきたる、平面にて場廣き石に、
鶴立島の三字を竪書刻彫す。是も梅渓か筆
跡とも云、又は道慶の手跡とも云。此所、むかしハ芦辺
 
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寺の有りし旧跡なりといへハ、四つ五つある大石ハ、昔の
寺の其址石にてもやあらん。旧記に芦辺寺ハ和哥
村の北二町半に、寺はなくして址そんすと云故に[云云]。
鶴立の二字は、五車韻瑞[五十六/巻輯韵]云、鶴立[トハ]、張協[カ]七命[ニ]、
俯[メ][二]榮領[ニ][一]以[テ]鴻[ノ如]歸[リ]、仰[テ][二]矯首[ヲ][一]而鶴[ノ如]立[ツ][已上]。問て云、鶴立嶋の
嶋の字、心得かたし。此所、畠のなかに土の小高き所
なれは、鶴立丘なととも云へし。順か和名抄[一巻]に云、丘[ハ]
周礼[ノ]註[ニ]云、土[ノ]高[ヲ]曰[ㇾ]丘[ト]。音、鳩(キウ)。和名、乎加(ヲカ)。また島ハ、説文
 
 
云、島ハ海中[ノ]山、可[キ][二]依止[ス][一]也。都晧(トカウ)[ノ]反。一[ニ]音、島。和名、之万(シマ)
[已上]。今は海中の山にあらす。なんそ島といふや。答て云、
名号し昔は海中の嶋なれとも、今は丘となりたる
なり。これらを従本立名といふなり。或云、楊枝はもと
やなきにてなしたる故に楊枝とハいへるなり。しかれとも、
今ハ杉にてけつりたるをも杉楊枝と云のたくひにて、
本にしたかひて名を立るなり云云。陽國名跡志云、
むかしハ今の愛宕山・御房山の辺より遠干潟にて、
 
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亀遊岩、猊口石、鶴立島なと云所まて、浪うち
来ると見へたり。近代は田畠となりて、天神の前
より玉津島の南東はかり、入江を残せり[已上]。又、里
翁か物語にも、昔ハ大浦と名草濱と海水通せし
所なりしに、今は雍閼して陸と成るなりといへハ、さも
あらむかし[云云]。全長考るに、道慶か梅渓の筆也と
いふ、鶴立島の鶴の字不正なり。呉郡の学生李
文仲か編せる字鑑第五[入声/鐸韵]云、鶴、曷各[ノ]切。鳥、似[テ][ㇾ]鵠[ニ]、
 
 
長啄、丹頂。説文[ニ]从[二]鳥寉[ノ]聲[ニ][一]。寉[ハ]、胡沃[ノ]切。五経文字云、从[ㇾ]
霍者譌[ント]。俗[ニ]又作[ㇾ]鶴。皆誤[已上]。同書[入声/沃韵]寉[ノ]註[ニ]、胡沃[ノ]切。説
文[ニ]高至也。从[ㇾ]隹。上欲[ス][ㇾ]出[ント]冂。冂[ハ]、音垌。凡[ソ]鶴、〓、搉、確之類、
[ㇾ]隹[ニ]。俗从[ㇾ]宀、作[ㇾ]鶴誤[ナリ][已上]。
 
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 ○蘆邊寺舊跡
此寺の旧跡分明ならす。或か筆記に云、和哥浦の
芦辺寺は、海士郡雜賀庄弱浦の北二町半に
寺は無して址存すと[云々]。考るに、これ鶴立島の
ある所なり。昔は此辺まて塩の満干ありて、芦辺の
遠干潟にてありしと云。此磯辺、芦原のほとりに
寺を立てしゆへ、芦辺寺とハ名付けしならん。むかし
赤人の芦辺をさして田鶴啼き渡ると詠せしも、此
 
 
辺りの事なるへし。貝原翁か諸州めくりに、芦辺
寺は赤人の歌によりて名付しならんと云。おもひ
合すへし。[たたし、同翁か諸州めくりに、芦辺寺は妹背山の南、弁/才天のある所なりといひ、又芦辺の田鶴なと詠せし
所ハ、東照宮の下、天神の鳥居ある所なるへしなといへるハ、あやまりなり。按/するに、妹背山の南、弁才天といふハ、玉津島の前なる、こふかり山をも妹背山と心
得、こしのいわやの鏡の宮を弁財天と/聞きたかひしなるへし云々]。或か旧記に[熊野独/参記]云、鶴立
嶋のわたりに、芦辺寺と云青面不動の堂ありしと云
傳ふ。むかし源義経、讃州屋島の内裏を攻給ひし
とき、臣佐藤嗣信、教経の矢先にあたりて馬より落、
 
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その夜洲崎堂より遣戸を取り寄せ、これに乗せて
よしつねの御前へ出せしと云事あり。其洲崎堂[飛/騨
内匠/造之]を當國へ引て、芦辺寺と号すとかや。其故を聞
に、天文年中に讃州洲崎堂の住僧は紀州の人
なりしか、其頃ハ乱世にて、兵火の為に此堂を焼ん
事をかなしみ、彼堂をたたみて筏に組て舟にひかせ、
本尊青面不動をも守りて、紀州海士郡に帰りて、則
和哥の浦辺に彼堂を取立て、改めて芦辺寺と号す。
 
 
其後天正の頃は當国も乱国となりて、爰かしこ兵火
多し故に再ひ此堂を名草郡山本庄黒岩村に
於て再興せり。然るに慶長のはしめの頃、當国の主、
浅野但馬守長晟の内室[会津御前と申。/家康公の御娘]、蒲生飛騨
守秀行の後室なりしか、但馬守へ再嫁して、元和
二年二月に當国へ入輿の後、芦辺寺の旧跡なる
事を聞し召して、又かの堂を同国岡の谷に引き
移さしめ給ふ。且ハ御祈願所、且ハ岡大明神の別當
 
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職をも勤めしめて、松生院芦辺寺と号せり[已上]。
しかれとも近年ハ岡の宮も唯一に改めさせ給ふに
よりて、松生院今ハ別當職をも勤めすといふ。和漢
三才圖會[七十/七巻]云、讃岐國山田庄屋嶋[ニ]、有[リ][二]屋嶋寺[一][四/国
遍路八十八箇所/内、第八十四番]。本尊千手観音[座像三尺。/弘法作也]。此屋嶋
寺内、洲崎堂あり。本尊正観音、弘法作[已上]。按るに、
芦辺寺はむかしより真言宗にてありしと聞ゆ。本
尊、一にハ正観音と云ひ、一にハ青面不動と云。いぶかし。
 
 
今は芦辺寺の名を唱へす。岡の松生院とのみ
いふ。今の寺堂前の石燈楼にハ、向陽山松生院と
ありて寺號ハなし。五間四面の堂、皆けやきの丸
柱、ふとみ壱尺はかり、檐は三重に組み出したる垂木
にて、近代工匠の所作にハあらしと見ゆ。本尊の
不動尊、霊験あらたなるよし申傳ふ。いつの頃にか、
ねづみ、不動の尊像を損さしたるを、住僧本尊へ
申さく、鼠にくはれ給ふ本尊、明王の威力もまし
 
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まさすや。と云に、翌朝、明王の利剱に鼠をつらぬき
ありしと云。
 
 
 ○宗祗か松
此松のある所は、鶴立嶋より東南にあたりて、川端
に紀三井寺の塩濱よりわたし舟の着くところ、
南は武家の別業にて、東・北ともに並木の松有。
その北東の角、並木の外なる土堤(ツツミ)に、松二本あり。
土俗はきすご松といふ[此所にて、きすこといふ魚を釣に、/おほくつりたる故に、名つくといふ]。
またハ二本松とも云。是すなはち、宗祇かうへし松なる
故に、宗祇松とハいふなり。宗祇子、布引・紀三井寺
 
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辺に旅宿して、玉津島明神へ百日詣しけるに、
此所を塩干にハかちにて渡り、塩みちぬれハ渡し
舟にて渡りしと云。かちにて渡りし瀬の、今ハ淵と
なりしを、宗祇か淵といふ。百日詣せししるしにと
やおもひけん。此所に松二本植しを、宗祇か松と云。
土俗は、あやまりて無理に義をつけて、きすこ
松と云。按するに左にハあらす。其頃ハ、宗祇子か植し
松なる故に、略して祇子かうへし松と云ひ、又後に植し
 
 
と云言葉を略して、祇子(ギス)か松と云、祇子か松を土俗
いひあやまりて、きすこ松とハいひ来たりしならん。是、名
所にハあらねとも旧跡なれは、爰にしるして土俗の
いひあやまりをたゝたすのみ[云云]。扶桑隠逸傳[下巻/卅四]云、
宗祇[ハ]者、紀州[ノ]人。姓[ハ]飯尾氏。少[メ]好[ミ][二]和歌[ヲ][一]、以[テ][二]風月[ヲ][一][二]生涯[ト][一]
最[モ]長[セリ][二]連歌[ニ][一]。素[トヨリ]聞[テ][二]心教[カ]之名[ヲ][一]、慕藺(リンスルコト)之久[シ]。遂[ニ]去[テ][二]南紀[ヲ][一]、来[リ][二]
洛陽[ニ][一]、親[‐二]炙[スルヿ]心敬[ニ][一][ㇾ]年矣。東[ノ]野州常縁、能[ク]傳[フ][二]和歌[ノ]道[ヲ][一]。常
縁[ハ]者、下野守益之[カ]子。謫[セラレテ]有[リ][二]関左[ニ][一]。文明三年、宗祗出[テヽ][二]
 
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師[ヲ][一]、赴[キ][二]東関[ニ][一]、就[テ][二]常縁][ニ][一]問[フ][二]和歌[ヲ][一]。乃[チ]傳[テ][二]古今集[ヲ][一]而返[ル]。宗祗常[ニ]
無[ニ]定居[一]。旅泊[ヲ]為[ㇾ]家。以[テ][ㇾ]故[ヲ]、西[ハ]究[メ][二]九州[ヲ][一]、東[ハ]至[ル][二]奥州[一]。晩年偶[々]
遊[テ][二]北地[ニ][一]、止[ルヿ][二]越[ノ]後州[ニ][一]二年。又邁(ユク)[二]東方[ニ][一]。到[ル]處[ロ]、和歌連歌之
徒景[ノ]如[ニ]従[フ]。宗祗喜(コノンテ)焚[ク][ㇾ]香[ヲ]。又自(ミ)愛[メ][ㇾ]鬚(ヒゲ)、毎[ニ]以[テ][ㇾ]香而薫[ス]。有[レハ][ㇾ]問[モノ][ㇾ]
之對[テ]曰、吾非[ㇾ][ㇾ]鬚也。愛[二]香氣気之常[ニ]在[ヲ][一]焉尓(ノミ)。文亀二年
七月、會病[テ]卒[ス][二]于逆旅[ニ][一]。年八十二。宗祗、称[シ][二]自然斎[ト][一]、呼[フ]種
玉庵[ト]。[賛あり。今/こゝに略す]。陽国名跡志に云、宗祗家地、有田郡
藤並庄下津野村中。縦五十間、横四十間斗。今土民
 
 
居所となれり。宗祗、姓ハ飯尾氏なり[已上]。花押藪七[廿八/左]、
宗祗、姓[ハ]三善飯尾氏。紀伊[ノ]人。七月廿九日寂[已上]。和漢
三才圖會[山城/巻本]に云、宗祗ハ飯尾氏の子也[已上]。全長考
るに、飯尾氏の子なりと云ハ誤なり。飯尾の名字ハ、近江
国にて或武家より譲られしとなり。其ゆつれる
時、しるしに一章の發句あり。あらぬ名をかるや山彦
ほとゝきす[已上]。此事世にかくれもなかりしにや、宗祗箱
根の湯本にて卒せし時、内大臣実隆公、いたみの哥に、
 
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名をかるとその世に聞きしことの葉もたへてつく
はの山ほととゝす[云云]。むまれ付の飯尾氏にハあらさる
事しりぬへし[云云]。
 
 
 ○養珠寺
和哥村の入口、道よりひたり、人家の後に山あり。養珠
寺山といふ。山より北東の方にも少々人家ありて、村の
入口、木戸の外より、左りへ半町はかりゆき、川堀にそふて
右の方へ半町はかり行は、左は川堀、右の方山の麓
に寺有り。妹背山養珠寺と云。[貝原翁か諸州めくりに、/寺を明珠寺といひ、左の
山上に妙見の社ありなと云ハ、寺号もちかひ、左にハ山も妙見の社も寺も/なけれハ、あやまる事甚し。但し、貝原ハ、和哥村権現宮の本道を通り
て、養珠寺山の西をとほりての云分か。又ハ、かへりに玉津嶋辺より/養珠寺のまへを通りてのいひ分か。考ふへし。]法花宗
 
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にて寺領弐百五拾石あり。国君前亜相頼宣卿の
母堂、養珠院玅紹日心大姉[承應二癸巳年八月/二十一日遠行し給ふ]御
為に創建の精舎なり。開山は、[権大僧都法印/中正院日護上人]なり。
和漢三才圖會[紀州/巻]に、養珠寺ハ正保年中の建立
とあり。しかれとも、御廟所妹背山の制札をみるに、
慶安四年とあれハ、養珠寺も慶安・承應の頃の
創建なるへし。此寺ハ北と東とに門二つあり。北は
樓門にて鐘楼を相兼たり。楼上に鐘あり。銘ハ
 
 
長田道慶の筆なりと云。銘にいはく
紀伊(キノ)国海部[ノ]郡和歌浦妹背山養珠寺[ハ]者、國主前
亞相源頼宣卿創[テ]所[ニテ][ㇾ]營[ム]而顯[二]㚾養珠院源太夫人之
霊骨斂座[ヲ][一]此[ノ]地[ニ]矣建[二]堂宇[ヲ][一][二]門樓[ヲ][一]。森厳、不[ㇾ][ㇾ]言。且[ツ]新[ニ]
鑄[テ][二]巨鐘[ヲ][一]、以[テ]備[フ][二]晨昏[ニ][一]。蓋[シ]皆[ナ]共[ニ]其[ノ]志徳、助[ケ][二]冥福[ヲ][一]、跡[ヲ]垂[二]無窮[一]
者也。明暦元[乙未]年五月廿一日。永田道慶謹誌。住持
比丘通玄院日演とあり。此北の門は、寺より平日
出入りの門なり。此門より入て、右に庫裏(クリ)方丈あり。
 
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玄関は北の方へむき、楼門のむかふ、右の方に見ゆ。門
より左は土塀にて、塀の内、門より左東の方に、馬庌(トツナギ)
あり。とつなきと玄関との間は塀にて、正中に路地
門ありて、本堂前へまゐる。しかれとも、路地門常には
とさせり。よつて尋常にハ本堂へ参詣なりかたし。
路地門より入て、左に東向の門あり。是も常には
戸させり。國君の御成門なり。此門の正面のかた、
路地門より入ての右の方ハ、本堂にて、堂の
 
 
正面に額あり。経王寳殿の四字を模印[俗に云/角字也]にて
横書刻彫す。道慶か筆かと云。本堂の左より廊架(ロウカ)
つたひにて、東南[路地門よりハ/向の右の方]に瓦葺の御霊屋あり。當
國君宗直卿の尊父、源性院殿[正徳元卯十月七日逝去。/前亜相頼宣卿之次男。豫
州西条之領主。従四位/少将左京大夫頼純公]の御位牌殿なりと云。夫より又左へ
廊架傳にて一切経蔵あり[路地門よりハ/向の左の方]。先國主頼職公[深/覚
院殿/御事]の母堂、眞如院殿妙圓日教大禅定尼公[享保/廿年
六月廿四日/遠行]の御寄進なりと云。
 
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養珠院殿ハ根元三浦氏にて在すよし、新編鎌倉志
に見へたり。彼巻第二巻[九/葉]高松寺之下に、紀伊大納言
源頼宣卿の母堂、三浦氏とあり。又同書に、三浦藤氏
[全長考るに、三浦ハ平氏/なり。今藤氏とあるハ、いかゝ]定環の女、水野前文主監[監物の/唐名也]源忠
元簾中、高松院日仙[養珠院殿の/姪姫君なり]、鎌倉西帝谷に法花
尼道場高松寺を創建の時、養珠院殿力を合せ
て建立し給ふよし見へたり[云云]。
 
 
 ○玅見堂
養珠寺後の山の頂上にあり。崎山氏[楠右衛門/直頣]か和哥
名所記に、養珠寺峯に峙つ妙顕堂といへる、是
なり。[但し顕の字相違す。/見の字になすへし。]堂は辰巳向。瓦葺にて三間四
方。堂前に鳥居あり。堂内に妙見の尊像を安すと
いふ。問て云く、妙見ハ菩薩といひ、堂といへハ佛なり。
宮といひ、鳥居あるをみれは、神かとも思
はる。いつれとかせんや。答て云く、神と云も佛といふも
 
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さらにさまたくる事なし。寂照堂谷響續集[二巻/九葉]
云、問、北辰[ヲ]号[スルヿハ][二]妙見[ト][一]者、何[レノ]經説也。答、七佛所説神呪經
第二云、我[ハ]北辰菩薩ナリ。名[ヲ]曰[二]妙見[ト][一]。今欲[ス][下]説[テ][二]神呪[ヲ][一][中]護[セント]諸[ノ]
國土[ヲ][上]。所作甚[タ]奇特[ナルカ]、故[ニ]名[ヲ]曰[二]妙見[ト][一]。處[メ][二]於閣浮提[ノ]衆星[ノ]中[ニ][一]
最[モ]勝[タリ]。神仙中之仙、菩薩之大将[ナリ]。光[ヲ]目(ナヅク)[二]諸菩薩曠濟諸
羣生[ト][一]。有[リ][二]大神呪[一]、名[ク][二]胡捺波[ト][一]。胡捺波晉[ニハ]言[二]擁護國国土[ト][一]。佐[ケテ][二]
諸國王[ヲ][一]、消[シ][ㇾ]災[ヲ]郤[クルヿ][ㇾ]歒[ヲ]、莫[シ][ㇾ]不[スト云ヿ][ㇾ]由[ラ][ㇾ]之[ニ][已上]。桜陰腐談[一巻/四十二]云、按[ルニ][二]
七仏所説神呪経[ヲ][一]、妙見[ト]者北斗七星[ナリ]。[乃至]三井[ニハ]曰[二]尊星[ト][一]
 
 
東寺[ニハ]名[ケ][二]妙見[ト][一]。天文家[ニ]号[二]文昌星[ト][一]。妙見[ハ]是[レ]跡身。不[ㇾ][二]
地何[ノ]佛[ヲ][一]。答曰、妙見[ハ]、本地[ニ]有[二]二説[一]。或[ハ]為[二]観音[一]、或[ハ]為[二]薬師[ト][一]
具[ニ]如[シ][二]頼除秘抄問答十七[ノ][一]也[已上]。また神國決疑編[中/巻
十/九]云、玅見菩薩[ハ]者、度會姓[ノ]遠祖。[乃至]妙見星、童形[ノ]像[ヲ]、奉[ㇾ]
居(スへ)[二]尾部[ノ]陵(ミササギ)、以西(ニシ)、小田岡崎[ノ]宮[ノ]霊地[ニ][一]、以[テ]祈[二]氏人之繁栄[ヲ][一]
[云云]。これらの説によれは、神として華表を立つるも更に
さまたくる事なし。今養珠寺これを山上に安して、
寺の鎮守に擬するならん。惣して法華宗の寺
 
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院には、多く妙見菩薩を安置すといふ。雍州府
志[神社門上巻/二十一葉]云、妙見菩薩[ノ]社、在[二]京極今出川[ノ]北、立
本寺[ニ][一]。是亦、日蓮宗[ノ]寺院[ニ]多[ク]有[ㇾ]之[已上]。井沢長秀か廣益
俗説辨[廿巻/六葉]云、俗説に云、妙見菩薩ハ神なりとて
宮号を用る事あり。考るに妙見菩薩ハ、北辰菩
薩陀羅尼経云、我[ハ]北辰菩薩、名[テ]曰[二]妙見[ト][一]、[乃至]菩薩
之大将[ナリ][云云]。此説に依て見れハ、妙見は異域の人にして、
我朝の神にハあらす。なんそ宮号を用むや[已上]。
 
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和歌浦物語 坤
 
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和歌浦物語 坤の巻
 
 ○玉津島社 [玉津二字出[二]文選[一]。左太沖[カ]蜀都賦[ニ]云、西[ノ方]踰[二]金隄[ヲ][一]、/東[ノ方]越[二]玉津[ヲ][一]。六臣註四[卅八右]云、劉[カ]云、金隄[ハ]在[二]岷山都/安縣[ノ]西[ニ][一]。堤[ニ]有[二]左右[一]口。當[二]成都[ノ]西[ニ][一]也。壁玉津[ハ]在[二]犍為之/東北[ニ][一]。當[二]成都之東[ニ][一]也[云云]。]
 
養珠寺の南二町はかりの間、道より左は川堀に
て、右は人家[和哥村の内にて、小名を/つやといふ所なり]なり。人家の南の
端に土塀あり。是、玉津島の神主、高松采女少輔
[従五位下。神職/領高三十石]の宅なり。其土塀の角より右の方へ、廣き
道をすこしのほるに、左はこふかり山[此山、玉津島につゝきて同し/く昔は海中の島山なり。
 
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されハ、一説に云、万葉第六に赤人の左日鹿由背上尓所見奥津島(サヒカノユソガヒニミユルヲキツシマ)とハ、此やま、/玉津島なとをさして云と、紀路哥枕抄にもあれハ、此山、玉津島の辺ハ、海少し
ふかゝりし故に、こふかみ山といひしを、小ふかりと詞の転したる歟。りとみとハ/横音通する故に。後撰集恋の三に、黒主か玉津島深き入江をこく舟のと
詠したる、思ひ合すへし。又一義にハ云く、此島山は入江の海にて大海にハあらす。小海に/ある山なるゆえに小うかみ山といひしを、こふかりと唱へあやまりしか。ふとうと
横音通する故に。貝原翁か日本釈名中巻十六葉に、海ハうかみなり。中を略す。/舟のうかむ所なり。又ふかみなり。ふとうと通す。已上。しかれハ、こうみ、こうか
みを、こうかりとハ/いひしならん歟。]、右は玉津島の社なり[玉津島とは、日本後紀にハ、/玉出島とあり。考ふるに、玉ハ
貝の珠なるへし。海中より出つ。此島、むかしハ地方をはなれたる島山なる故に、/貝の珠も多くありしならん。津ハ、字彙水部[ニ]云、津ハ音晋。水ノ渡ナリ。水ノ會スル處ナリ矣。
海水の会する所、貝も多けれハ、珠も多くあつまる故に、玉出島とも書くなるへし。/此神、此島にいます故に、玉津島大明神とハいふなり。問て云、大明神といひ、明神と
いふ。差別ありや。答て云、差別なきにあらす。神社便覧に云、傳聞、神位各高/下あるなり。皇大神宮を上とし、大神宮これにつく。大明神またこれにつく。
 
 
明神またその次なり。しかれハすなはち、正統にあらされハ又号しかたきか。已上。/玉津島ハ、神階従一位にて、しかも神宝に後奈良院宸筆玉津島大明
神とある神号あれハ、/大明神と称すへきなり。]神前の入口正面にすこしく土堤有て、
往還の道と簡別し、東西左右より道ありて入口に
いたる。入口の所は左右土塀にて、門はなし。すこしく行て、
木の鳥居有て額ハなし。次に神楽屋(カグラヤ)の舞殿(マヒドノ)[三間/四方]
ありて、哥仙をかけたり。常にかけてある哥仙は、繪を[狩野]
何某書き、歌は國の右筆十河宅右衛門[一勝]書すと
いふ。崎山氏か和歌名所記に、拜殿にハ御寄進[国君/前亜相
 
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頼宣卿の/御寄進也]として、狩野興甫か[万宝全書下云、興甫、俗/名弥右衛門ト云。道味
聟也。系譜/興意ニ鉤]哥仙の絵、当御代の公家衆の御筆等と
あるハ、元禄・宝永の頃、国君の命によりて宝庫に
納り、今は自由に拜見する事も成かたし。右、当御
代公家衆の御筆とハ、考るに、
左 柿本人丸[ほの/\と/二条関白光平公] 右 紀貫之[さくらちる/徳大寺右府公信公]
左 凡河内躬恒[いつくとも/八条宮忠仁親王] 右 伊勢[みわのやま/二条前摂政康通公]
左 中納言家持[はるの野に/照光院道晃法親王] 右 山邊赤人[わかのうらに/梶井宮慈胤法親王]
 
 
左 在原業平[世の中に/曼珠院宮良尚法親王] 右 僧正遍昭[たらちねハ/実相院前大僧正義尊]
左 素性法師[みわたせは/円満院前大僧正常尊] 右 紀友則[秋風に/随心院前大僧正栄嚴]
左 猿丸太夫[奥山に/西園寺右府実晴公] 右 小野小町[色みえて/鷹司内府房輔公]
左 中納言兼輔[人の親の/大炊御門前内府経孝公] 右 中納言朝忠[あふことの/転法輪前内府公冨公]
左 権中納言敦忠[あひみての/久我右将広通卿] 右 藤原高光[かくはかり/日野大納言弘資卿]
左 源公忠朝臣[行やらて/柳原大納言資行卿] 右 壬生忠岑[ありあけの/烏丸大納言資慶卿]
左 斎宮女御[ことの音に/飛鳥井大納言雅章卿] 右 中臣頼基朝臣[一ふしに/中御門大納言宣順卿]
左 藤原敏行朝臣[秋きぬと/清閑寺中納言熈房卿] 右 源重之[風をいたみ/油小路中納言隆貞卿]
 
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左 源宗子[常盤なる/園中納言基福卿] 右 源信明朝臣[あたら夜の/中院中納言通茂卿]
左 藤原清正[あまつかせ/持明院前中納言基定卿] 右 源順[水の面に/藪中納言嗣孝卿]
左 藤原興風[契りけむ/六条参議有和卿] 右 清原元輔[をとなしの/東園参議基賢卿]
左 坂上是則[みよしのゝ/千種前参議有能卿] 右 藤原元真[なつ草ハ/白川三位雅喬王]
左 三条院女蔵人左近[岩はしの/平松三位時量卿] 右 藤原仲文[有明の/裡松三位資請卿]
左 大中臣能宣朝臣[ちとせまて/花山院中将定誠朝臣] 右 壬生忠見[恋すてふ/勘解由小路中将資忠朝臣]
左 平兼盛[くれてゆく/飛鳥井雅直朝臣] 右 中務[秋風の/愛宕中将通福朝臣]
以上三十六枚の哥仙、竪のたけ壱尺八寸にて、横壱尺三寸
 
 
七分、杉板にて繪を書き、おの/\哥の筆者をハ、絵の肩
に[長四寸八分/はゝ五分]別に小札にて、地を紺青にし、金泥にて梅渓是
を書といふ。四方黒ぬりのふち、しんちうの金物あり。然るを
貝原翁か諸州めくりに、玉津島の社、拜殿の哥仙ハ逍遥
院實隆公の筆なりと云ハ、甚誤れり[云云]。次に、石の階三つを
のほりて、左右は石垣の上に柵あり[柵ハ井柵と書くへき歟。続日/本紀に柵をかきとかなあり。
全長考るに、立たる柱をつらぬきて、おなしく横のぬき二すし/あれハ、井の字のことく見ゆる故にいかきといふ歟]。正面に門有て、
此門は常にひらく。此門の内、左右に石燈楼二基あり。
 
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二つともに銘同し。銘に云く、於戯霊瑞于于昔質堅影熒、
永世同跡[これまて二行にて大字。次の二行ハ/少し細字にて四行を二行になす]。石燈楼二株[これまて/一くたり]、
國君寄献于[これまて/一行]、玉津島神社[此一行ハ先行より/一字あけて書す]。承應四年
乙未正月吉日[此九字ハ又一字さけて/一くたりとす]とあり。次に本社の所、又
一檀高くして、後ハ岩山の峰、左右ハ板の瑞籬塀、
面に門ある左右ハすかしほりの瑞籬塀にて、門の扉も
すかしほりの戸常にとさせり。しかれとも、すかしより
門の内、やしろの躰まちかし。詳に見ゆ。本社[柱内五尺四方/はかりの小社
 
 
にて、正面卯/辰の方向]は、ひはたふき。正面に拜み所ありて、鈴をつり
てあり。社の左右きりかくしの内に、みかけの石燈楼二株
ありて見ゆ。是、禁裡よりの御寄附なりと云ふ。銘にハ
御願御成就[これまて/一くたり]神前常夜燈[これ/一行]、次に年号月日の
二行ハ小字にて[正徳四甲午年/十一月吉祥日]と、如此書す。本社の左り端、
籬の外柵の内廣し。此所に大木の松七本あり。是ハ
往昔[三百年ほと/以前]、洛陽新玉津島の別当、常光院の堯孝
法印、当社は玉津島の根元なれはとて参詣せしに、折
 
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ふし当社頽廃の時にて、やしろのかたちもなかりし故、
社のありしといふ所をたつねて、松七本を植て一首、
  七本の松をすかたの神垣や君か千とせを猶やいのらん
と詠哥して帰りしとなん。今ある七本の松は、かの堯孝か
植し松なりと云[云云]。また社の左右、柵の外に宝庫二
ケ所にあり。右の方にあるハ、社に付したる諸道具を入れ
おくなり。左の方にあるは、禁裏或ハ国君より御奉納の
御宸筆等を納る宝庫なりと云。玉津島神宝目録、
 
 
寛文四辰年、百九代後水尾帝より御奉納短冊五十枚。
天和三亥年、仙洞御所より御奉納短冊五十枚。正
徳四年、霊元院法皇、月次御詠哥御奉納巻物二巻。
卜部兼連勘文一通、并南龍院殿、右勘文之御證文
一通。国主社領御寄附状二通。和歌浦絵図一
巻、當将軍吉宗公、紀伊御在国之時御奉納。後奈
良院御宸筆玉津島大明神と云草文字之神号一
巻、当国主宗直公御奉納。わかの浦にひかりをそふる
 
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玉つしまはしなき道の末もたのもし、南龍院殿御詠
哥短冊一枚。當社殺生禁断南龍院殿御證文
一通。扶桑拾葉集三十五巻、水門光國卿より御奉
納。中院通躬卿三十首和歌御短冊。冷泉為久
卿百首御巻物。武者小路實陰卿十首御和歌。[已上
神寳/目録]。右神宝なとも、萬治年中、南龍院殿御再建
より八十年以来の所有なり[云云]。南紀雜集略に云、
玉津島神社草創の時世分明ならす。萬治年中、
 
 
國主頼宣公、是を修造し、并に神庫を建給ふ。この社
頽廃すてに久して祭奠の規式もなし。よつて寛文四
甲辰年、國君源二品頼宣公、これを聖護院法親王
道晃に達す。親王此よしを聞給ひて、急き後水尾
帝に奏す、帝その志を感し給ひ、神祇官領卜部
兼通に勅有りて、祭奠の規式、并に国史に載る所
の玉津島の神故事數条を抄出せしめて賜ふ。夫
より後、毎歳三月九月中の卯の日二時祭あり。又同年
 
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後水尾帝御製の御歌三首、自宸翰を染、并公卿
親王の和哥四十七首同書して寄納す。右五十
首ハ、帝古今御傳授の事ありて法楽のため玉
津島へ納め給ふ[云云]。翌年社司某正六位下叙[已上]。
後水尾帝御製和哥三首
松雪  起かへる枝より落ちて松陰は中/\深くつもる雪哉
寄枕恋 かはしつる手枕ならハしるといふ浮名ハよしや世にもらすとも
寄莚恋 わか心いかてかのへんつれなさに恨みてハまく床のさむしろ
 
 
外の四十七首ハ爰に略して載せす[云々]。問て云、先に引る雜集
畧に玉津島神社草創の時世たしかならすといふ。
実に分明ならさるや。答て云、全長か所見の如きハ、不分
明にハあらさる也。本朝通紀前編[十巻/初葉云]、聖武天皇神亀
元年冬十月、勸請衣通姫於紀州海部郡、崇玉津島
大明神。是月天皇幸紀伊國、至玉津島頓宮、留十有
餘日[以上]。是、聖武帝、衣通姫を紀州に勧請と云、草創
の時にあらすしてなんそや。今元文三年よりは千十
 
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五年以前のむかしなり[云云]。全長重ねて考ふるに、本朝通
紀に依れハ、玉津島ハ聖武帝の勧請と見へたり。然れとも
続日本紀[九巻/廿四]をよめハ、左にもあらす。續日本紀[九巻/十五葉]
神亀元年[同書/廿四葉]冬十月辛卯、天皇幸[二]紀伊國[一]。癸已、行
[二]紀伊國那賀[ノ]郡玉垣勾(マガリ)頓宮[ニ][一]。甲午、至[二]海部[ノ]郡玉津
島[ノ]頓宮[ニ][一]。留[ルヿ]十有餘日。戊戌、造[二]離宮[ヲ]於岡[ノ]東[ニ][一]。是[ノ]日、従駕
百寮六位已下至[テ][二]于伊部[一][ㇾ]禄。各有[ㇾ]差。壬寅、賜[二]造離
宮司、及紀伊國國郡司、并行宮側辺ノ高年七十已上
 
 
禄。各有差。百姓今年調庸、名草海部ニ郡田租、咸免
之。又赦罪人死罪已下。名草郡大領外従八位上紀
直摩祖為國造、進位三階。少領正八位下大伴櫟津
連子人・海部直土形、二階。自餘五十二人、各位一階。
又詔曰、登山望海、此間<國本マヽ>最好。不労遠行、足以遊覧。故、
改弱濱、名為明光浦。宜置守戸、勿令荒穢。春秋二時
遣官人、奠祭玉津島之神、明光浦之霊。忍海手人大
海等、兄弟六人、除手人名、従外祖父外従五位上守
 
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連通[カ]姫[ニ][一]。丁未、行還[テ]至[二]和泉國所石[ノ]頓宮[ニ][一]。[乃至]己酉、車駕
[ㇾ][二]紀伊国[一][云々]。聖武帝の創建より四十二年を経て
天平神護元年冬十月、四十八代の女帝称徳天皇、
即位の年玉津島にいたり給ふよし、続日本紀に見え
たり。[紀州旧記云、那賀[ノ]郡鎌垣(カマカキ)[ノ]行宮[ノ]跡ハ、粉川村ノ東四町計ニ在リ。続日/本紀云[廿六巻廿葉/ヨリ廿一葉ニ至]、称徳天皇天平神護元年冬十月乙亥、至[二]紀伊国
那賀[ノ]郡鎌垣[ノ]行宮[ニ][一]。通夜(ヨモスガラ)雨堕(アメフル)。丙子、天晴[ル]。進[テ]至[二]玉津島[ニ][一]。又旧記ニ還幸事/ヲ載テ云、栄谷[ノ]行宮跡ハ在[二]岸[ノ]庄栄谷村[ノ]西[ニ][一]。続日本紀廿六巻[廿葉ヨリ在廿一葉]云、称徳
天皇行[‐二]幸紀伊國[ニ][一]。癸未、還[テ]/至[二]海部郡岸村[ノ]行宮[ニ][一]。云云]。それよりハ四十年の後、聖武帝
創建よりハ八十壱年を経て、五十代桓武天皇延暦
 
 
廿三年冬十月壬子、幸[二]紀伊国玉津島[ニ][一]と日本後紀
に見えたり。[泉州志五引日本後紀云、桓武天皇延暦廿三年冬十/月甲辰、行[‐二]幸和泉国[一]。其夕、至[二]難波[ノ]行宮[ニ][一]。壬子幸[二]紀伊
國玉出島[ニ][一]。癸丑、御舟(ミフネニマシ)遊覧。甲寅/自[二]雄山[ノ]道[一][二]日根[ノ]行宮[ニ][一]。云云]。桓武帝の行幸より八十
四年を経て、聖武帝の創建よりは百六十四年の
後、五十八代小松院光孝天皇、当社御再建の事あり。
崎山氏か和歌名所記にも、月に瑩る玉津島、衣通
姫の跡たれて小松院の御願所といへる、是なり。親房古
今集序註に、或抄を引て云、光孝天皇御悩有し時、
 
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御祈禱あり。暁に赤袴着たる女房の、枕に立て曰、
 立帰またも此世に跡たれむその名うれしきわかの浦波
帝、御夢にみえけれは、夢中にたれ人そと御尋ね有けれハ、
衣通姫と答へ給ふ。依て仁和三年九月十三日、右大弁
源隆行を勅使として、和哥の浦玉津島の社を造立
して、信遍上人を以て、勧請して崇め奉る等[云云]。これハ、
聖武帝創建の後、再興ありて遷宮の勧請なる
へし[云云]。光孝帝御再建より二百十餘年
 
 
をへたて、八十三代正治帝土御門院、玉津島へ臨幸
の時、藤原隆信朝臣の歌に、
  かねてより和哥の浦路に跡垂れて君をや待ちし玉津島姫
と詠したりしといふ事を、或旧記に載せたり[云云]。全長考
るに、正治帝玉津島へ臨幸の事、いまた考得す。隆
信の哥は、続古今集[神祇/哥に]正治二年十首哥合にと
いふ題にて、歌の言葉かはる事なし。臨幸の事ハ知る
人詳らかにせよ[云云]。光孝帝御再建より五百二年の
 
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後、百一代後小松院御宇、嘉慶二年将軍義満公
玉津島に社参ありしと云。本朝通紀後篇[十六巻/廿一葉]
云、嘉慶二年秋七月、将軍家遊[二]紀州濱[ニ][一]。註。時[ニ]将軍家、
[ㇾ][‐二]望和歌玉津島之佳景[ヲ][一]、出[ㇾ]洛赴[二]紀州[ニ][一][巳上]。
光孝帝御再建より五百八十六年の後、文明四年
後土御門院より、かな題百首の和哥御奉納あり。中
におゐて御製二首あるをここに出す。
朝霞 さして日のかけはくもらぬ朝霞ひかりやかはす玉津島山
 
 
思事 とにかくに思ふ事なき時にあひて君か千年をあふかさらめや
右百首の巻物、乱世の時紛失して当社にはなく、今は
紀国造方にありと云ふ。其写を見るに、文明四年土御
門院假名題百首とあり。考るに、文明は百四代後土
御門院の年号なるを、八十三代の土御門院と云ハあやまれ
るなり。夫より五六十年も後、百六代後奈良院宸
翰を染められし、玉津島大明神とある神號、当社の
神宝にあり。夫より又五六十年の後、天正十三年四
 
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月、大閤秀吉公社参し、詠哥[此哥布引の/松の下に出す]したまふと云。
夫より萬治年中、國主頼宣公の修造、寛文
年中、後水尾院五十首の奉納、天和年中、短冊五
十枚御奉納、正徳年中、月次御詠哥の巻物御奉納
及石燈樓の御寄附等、天子・将軍・月卿雲客の御
崇敬、世にたくひなき神徳称挙すへからさる哉[云云]。
問て云、玉津島明神ハ衣通姫の霊なりと云、しかなり
や。答て云、しかなり。本朝神社考[三巻/四十一]に云、玉津島
 
 
神者衣通姫也[已上]。[衣通姫大系図[帝子傳/八葉]、和漢三才図會[紀州/巻]にハ、應神天/皇第六[ノ]皇子稚渟毛二派(ワカヌケフタマタ)王、第三皇女なりとありて、允
恭天皇の后なりとす。これに異説あり。古事記下巻[十三/葉]にハ、允恭天皇の御娘、第五の/皇女なりとす。古事記云、男浅津間若子宿袮(ヲアサツマワクコスクネ)命、坐[二]遠飛鳥(アスカ)宮[一]、治[二]天下[一]也。天皇、娶[二]
意富本杼(オホホト)王之妹、忍坂之(オシサカノ)大中津比賣[ノ]命[一]、生[マル]御子、木梨軽(キナシカル)[ノ]王、次長田(オサタ)[ノ]大郎女、次境之(サカヒノ)/墨日子(クロヒコ)王、次穴穂(アナホ)[ノ]命、次軽(カル)[ノ]大郎女、亦名[ハ]衣通(ソトホリ)[ノ]郎女、次八瓜之白日子(ヤツリノシロヒコ)王、次大長谷(ハツセ)[ノ]命、次橘(タチバナ)[ノ]
大郎女、次酒見(サカミ)[ノ]郎女[九柱]。凡天皇之御子、九柱[男王五/女王四]。此九王之中、穴穂命者[ハ]、治[二]天下[一]也。次/大長谷命[モ]、治[二]天下[一]也とあり。古事記延佳頭書[下巻/十四葉]云、按[二]日本紀[一]、衣通郎女[ハ]為[二]大后
大中姫命[ノ]妹[一]、此記[ニハ]為[二]軽[ノ]大郎女[ノ]之別名[ト][一][已上]。又古事記素本・首書、共に、軽大郎女、亦名、/衣通郎女と云、十字に細注して云、御名[ノ]所[三]以負[二]衣通王[一]者、其[ノ]身之光、自[ㇾ]衣通
出也。/已上。]。和漢三才圖會[紀州/巻]に云、玉津島明神は、應神
天皇之孫[稚渟毛二脈(ワカヌケフタマタ)[ノ]/皇子之女]忍(ヲシ)坂大中津姫[允恭天皇/之正妃]之妹[ト]、
[二]弟姫(ヲトヒメ)[一]。其[ノ]姿容、絶妙[ニテ]無[ㇾ]比(タグヒ)。艶色(ウルハシキイロ)徹(トヲリテ)[ㇾ]衣[ヲ]晃(ヒカル)時[ノ]人、号[メ]曰[二]
 
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衣通郎姫(ソトヲリノイラツメ)[ト][一]、允恭天皇甚ダ寵(カシヅキ)[ㇾ]之、別[ニ]構(ツクリ)殿宇於藤原[ニ]、潜
行幸(ミユキナル)。[詳続日本/紀]。以[テ][二]當社[ヲ][一][二]和歌三神之一[ト][一][住吉、人丸、/玉津島也]。有[二]
子細[一][已上]。また同書云、玉津島[ノ]明神[ハ]、在[二]海部[ノ]郡弱補[ニ][一]
祭神一坐、衣通姫[ノ]霊[ナリ]。聖武天皇神亀元年、幸[二]海部[ノ]郡
玉津島[ノ]頓宮[ニ][一]。造[二]離宮[ヲ]於岡[ノ]東[ニ][一]。[全長加註して云、玉津島社後の/山の上に、離宮の跡とてすこしく
平なる所今にあり。土俗ハ/これをとの山といふ]。改[二]弱濱[ノ]名[ヲ][一]、為[二]明光浦[ト][一]。時[ニ]衣通姫示
現詠哥す。立帰又も此世に跡垂れむ名もおもしろき
わかのうら浪。春秋二時、遣[二]官人[一]、奠[‐二]祭玉津島之神、明
 
 
光浦之霊[已上]。本朝通紀前編三[十七葉]云、允恭天皇七
年冬十二月。皇后[ノ]妹[ト]、弟姫、容姿無[ㇾ]比[ヒ]。曰[二]衣通姫[ト][一]。帝聞[ㇾ]
之ヲ、遣[メ][二]使者[ヲ][一][ㇾ]之時[ニ]通姫、與[ㇾ]母在[リ][二]于近江[ノ]坂田[ニ][一]。畏[レテ][二]皇后
之情[ヲ][一]、不[二]参向[セ][一]。常強(シキリニ)召[フヿ][ㇾ]之七[タヒ]。通姫、猶固[ク]辞[メ]、以[テ]不[ㇾ]至。帝又
使[メ][二]中臣烏賊津(ナカトミノイカツ)者[ヲ][一]、招[シム][二]通姫[ヲ][一]。烏賊津、奉[ㇾ]勅、糒(ホシヒ)[ヲ]裹(ツツミ)[二]裀(キヌ)[ノ]中[ニ][一]、到[二]
坂田[一]。伏[シ][二]于通姫[カ]之庭中[ニ][一]、述[二]勅命[一]。通姫尚[ヲ]不[ㇾ]應。烏賊津、
[二]通姫[一]曰、帝命[メ][二]於臣[ニ][一]、不[ニハ][ㇾ]召[シ][二]來[ラ]通姫[ヲ][一]、必[ス]罪[ン]矣。返[ラ]被[ンヨリハ][二]
刑[ヲ][一]、不[ㇾ]如伏[テ][ㇾ]庭而死耳(ノミ)。伏[メ][二]庭中[一]不[ルヿ][ㇾ]起七日。與[レトモ][二]飲食[一]而不[ㇾ]
 
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食。毎夜(ヨゴトニ)、密[ニ]食[フ][二]懐中之糒[ヲ][一]。於是(ココニ)通姫以為(オモヘラク)、妾、惶[ミ][二]皇后之
嫉[ヲ][一]、既[ニ]拒[二]天王之命[ヲ][一]。且亡[サハ][二]君之忠臣[ヲ][一]。是[レ]亦妾[カ]罪[ナリト]。則[チ]伴[テ][二]
賊津[ニ][一]、至[二]京師[一]。天皇大[ニ]喜[ヒ玉ヒ]、厚[ク]賞[二]烏賊津[一]。欲[下][二]通姫[一][甲]
宮[ニ][上]時[ニ]皇后聞[テ]之、不[ㇾ]喜。帝、憚[二]皇后之妬[ヲ][一]、不[ㇾ][ㇾ][二]宮殿[ニ][一]。別[ニ]
[二]殿屋[ヲ]於藤原[ニ][一]而居[二]通姫[一]矣[已上]。一説には、住吉四社
の其一は衣通姫にて、玉津島の明神なりといふ。
古今序註[九巻/十葉]云、神主国基、顕季卿に語て云、住吉
四社の中の其一つは衣通姫なり。若浦に玉津嶋の
 
 
明神と申すは是なり。むかし、かしこをめておほしける
故に、跡をたれ給へるとなん、申傳へたりと云。玉垣四
社の中の南の社は衣通姫なりと[云云]。全長按るに、
住吉四社の内、一社は神功皇后なりと云。しかるを衣
通姫と云。此姫は應神天皇第六皇子、稚渟毛二
派皇の第三の御子なれハ、神功皇后のひまこなれは、
神功皇后と一社に合祭して歌の神とする歟。古今
著聞集[一巻/八葉]にも、住吉は四所おはします。津守国
 
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基申傳けるハ、南の社は衣通姫なり。玉津島明神と
申也。和哥の浦に玉津嶋の明神と申は、此衣通
姫なり。昔かの浦の風景を饒(ユタカニ)思食し、故に跡たれ
おはしますなりとそ云ふ[已上]。[土左日記抄下[廿三/左]、住吉明神ハ、日本/紀云、底筒(ソコツ丶)男[ノ]命、中(ナカ)筒男[ノ]命、表(ウハ)筒男[ノ]
命、是[レ]即[チ]住吉大明神[ナリ]矣。纂疏曰、住吉ハ三神、而摂州曰[二]四坐[ト][一]。即祀[二]神功皇后之霊[一]矣。住吉ノ/名ハ、神功皇后ノ時、此神言テ曰ク、真住吉(マスミヨシ)之国也。因[テ]鎮[‐二]坐其地[一]、名[テ]曰[二]住吉[ト][一]云云。彼社家ニハ、
住吉四所ト申スハ、第一天照大神、第二宇佐明神[田霧姫命]、第三表筒中筒底筒男/命、第四神功皇后也トイヘリ。釈日本紀六[八右]引仲哀天皇紀、表筒男中筒男底
筒男三神。又神名帳ヲ引テ云、摂津国住吉ニ坐ス神社四坐。又先師説ヲ引テ云、称/四坐者、神功皇后別殿坐ス歟。又引神功皇后紀云、元年三月皇后親為神
主/云々。]南紀雜集略[矢大明/神の下]に云、天正五年信長公雜賀
 
 
を攻給ふ時、矢の大明神力をそへ給ふのみにあらす。
一人の美女、甲胄を着、矛をとりて、信長公の兵をふ
せくあり。これ玉津島の明神にてありしと云。
玉津島明神位階の事、社家高松氏の云、本國神名
帳にハ、従四位上玉津島大明神とあれと謬なり。従一位にてましますといふ[云云]。
本地身の事、南紀雜集略に、親房古今序註を引
て云、本地聖観音[云云]。また浮屠氏の一説を引て
 
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玉津島明神は本地釈迦佛也[云云]。又一説にハ立帰り
またも此世に跡たれむ、との御神詠ある故に、本地
釈迦佛なりとも云ふ。しかれとも、今ハ唯一となる故に
本地佛のさたには及はさるなり[云云]。
類字名所和歌集[三巻/四十九]、玉津島歌廿二首を出すを
爰に載す。
  玉津島[入江、峯[岸カ]、/宮、神] 紀伊
古今雜上  和田の原よせくる波のしは/\もみまくのほしき玉津島かも 読人不知
 
 
後撰恋三  玉つしまふかき入江をこく船のうきたる恋も我はする哉 黒主
金葉恋下  玉津島岸うつ波の立ち帰りせないてましぬ名残さひしも [修理大夫/顕季]
新後撰[春/上] 人とハ丶みすとやいはん玉つ島霞む入江の春のあけほの 参議為氏
続古今[神/祇] いかハかり和哥の浦風身にしめて宮はしめけん玉津島姫 [後京極摂政/前大政大臣]
同     兼ねてより和哥の浦ちに袖たれて君をや待ちし玉つしま姫 藤原隆信
同賀    此度と波よせつくす玉津島みかく言葉を神ハうくらし 前内大臣
玉葉賀   三代迄に古今の名もふりぬ光をみかけ玉つしまひめ 後嵯峨院
同雜二   過きかてにみれともあかぬ玉つしまむへこそ神の心とめけれ 崇徳院
 
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同雜五   玉津島哀れとみすや我方に吹き絶えぬへきわかのうらかせ 為家
続千載[神/祇] みかきおく跡を思はは玉つしま今もあつむる光をもませ 同
同雜中   和哥の浦に又もひろはゝ玉つ島おなし光の数にもらすな [惟宗/忠景]
続後拾遺  雪つもる若の松原ふりにけり幾代経ぬらん玉津島守 [鎌倉/右大臣]
風雅雜中  玉つ島みれともあかすいかにしてつゝみもたらんみぬひとの為 読人不知
新千載[秋/上] 玉つしま宿れる月の影なから寄せくる波の秋のしほかせ [源親長/朝臣]
新拾遺[神/祇] ためしなき光をそふる玉つ島世々にも越えて神やうくらん 津守国道
新後拾遺  老の波猶しは/\もありとみは哀れをかけよ玉津島姫 信実朝臣
 
 
新続古今雜 玉津島入江漕き出るいつて舟五たひあひぬ神やうくらん 頓阿法師
同神祇   我迄は三代につかへて玉つしまかひある神の恵みをそ見 [権大僧都/堯尋]
同     我も三代人も三代まて馴きつゝともにそみかく玉つしま姫 [後鹿苑院入道/前大政大臣]
同     くもりなき御代に光をさしそへて猶道てらせ玉津島ひめ [後光明照院/関白左大臣]
同     とこしへに君もあへやもいさなとり海のはまものよる時々を
        此歌ハ玉津島の御哥となん[以上ハ類字名所/和哥集に出たり
         全長加註す。此哥ハ日本紀十三巻/九葉にも出たり]。
紀路哥枕抄に玉津島の歌四十六是を載す。はしめ廿二首ハ
 
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類字名所和歌集の歌なり[右に出す/かことし]。すへの廿四首を
今ここにいたす。
[日本紀十三/八葉] わかせこかくへき宵なりさゝかにの蜘のおこなひこよひ(ふるまひかねてイニ)しるしも [衣通姫/御哥]
[万六/短哥] やすみしる わかおほきみのとこ宮とつかへまつれる  山辺赤人
      さひか野ゆ そかひにみゆる おきつ島清きなきさに
      かせふけハ 白波さハき しほひれは玉藻かりつゝ
      神代より しかそたふとき玉つしま山
同     奥つ島荒磯の玉もしほひみちいかくれゆかはおもほえんかも
 
 
右の歌によりて、一本に奥嶋といふ名所を挙けたり。
歌の意にては、奥の島とは玉津島をさしたるやうにも
きこゆ。さりなから、わさと名所とは聞こえすや。しかれとも、古
歌によまれたるによりて名所に成るへきならは、さひか野
よりそかひにみゆるとあるに叶ひたるハ、海部郡柳村の
西にこれある浦初島をそ奥島とハいふへき。今もこの
嶋を沖の嶋と云なり。猶一決しかたし。
万七    玉つしまよくみていませ青によしならなる人のまちとははいかに 無名
 
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同     玉津島みてしよけくも我はなし都にゆきて恋まく思へは 同
同九    玉津島磯の浦間の真砂にもにほひてゆかな妹もぬれけん 人丸
建保百   吹きまよふ若の浦風しるへせよ玉津島もる神のまに/\ 知家
良玉    濁りなき玉つしま江の小松原あらハに千代の陰そ見へける 相模
六帖    玉つしま入江の小松人ならハ幾代か経しと問ましものを
名寄    まつら舟楫とりまはし漕きめくれ玉津島山ほとゝきすなく
月清    玉津嶋絶ぬ流れをくむ袖にむかしをかけよわかの浦なみ 後京極
玉吟    玉つしま空に千鳥の声更けて波にかたふく冬の夜の月 実隆
 
 
同     玉つしま天つ空まて聞へあけん月にも及ふことの葉もかな
千五百   曇なきはこやの山の月影に光をそふる玉津島哉 兼宗
同     此ころは和哥の浦波立ちそひて君をや守る玉つしまかな 家長
新六    いかにせん玉津島姫我道にたゆたふ波のしは/\も哉 行家
夫木    たとふへき方こそなけれ玉つしまてらしかはせる住の江の月 慈鎮
同     玉つしまみかゝる代(本ノマヽ)の湊より時にあへりと月やすむらん 後九条
同     芦田鶴のこころ(本ノマヽ)をしらは玉つしま代々に伝ふる跡な忘れそ 為家
同     玉津島岩ねのすゝき穂に出てまねけは帰るわかの浦浪 兼昌
 
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同     玉つしま入江の小松生にけりふるき御幸のことや問まし 読人不知
同     玉つしまわかの松原夢にたにまたみぬ月に千鳥鳴く也 鎌倉右大臣
同     跡たれて守とならハ玉つ島よこ浪たつなわかのうら風 兼家
草庵集   玉津嶋玉拾ふより立つ波もしつかになりぬよもの浦風
同     人毎に道をそみかく玉つ島玉拾ふへき時やきぬらん
以上ハ紀路歌枕抄に出たる四十六首の歌なり[云云]
[雜集畧/ニアリ] 今そしるむかしにかへる我か道のまことを神も守りけるとハ [大納言/家世]
貞亨年中仙洞御所五十首奉納の内、仙洞御製[もしくハ天和年/中の御奉納歟]
 
 
[雜集畧/ニアリ] 玉つしま入江の霞打ちなひき春まちゑ(本ノマヽ)たる和哥の浦風 [仙洞/御製]
和語連珠集[三巻/初葉]に云、袋草子云、津守国基住吉の社
檀建立の時、檀石とらむと、紀伊国に渡り和哥浦に至る。
玉津島の神社あり。所のもの語りていはく、此所の地、景
おもしろきによりて、衣通姫、神と現し跡を垂れ給ふと申
けれハ、国基
   年ふれと老もせすして和哥の浦に幾代になりぬ玉津嶋姫
とよみて奉りける。其の夜の夢に、唐装束したる女十人斗
 
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出て来て嬉き喜いひて、取るへき石を教ゆ。夢さめて、
教のことくこれを求むるに、告のことく石あり。此石一を破て
檀をつくるに、不足もなく、又片石もあまらすとそ[已上]。
羅山詩集[三巻/五葉]に、玉津島神社と云題にて林道春の
一絶あり。
  百世[ノ]神蹤何[ノ]処[ニ]尋[ン] 明光浦畔古宮深[シ]
  昔時曽[テ]報[ス][二]蜘蛛[ノ]喜[ヲ][一] 網住[ス]允恭天子[ノ]心
又ある人、玉津島暮雪と云題にて詩哥あり。
 
 
  社頭日落[テ]雪猶濃[ナリ] 千載[ノ]幡松化[ス][二]白龍[ト][一]
  想像(オモヒヤ)ル灞橋驢背[ノ]景 玉津島[ノ]上(ホトリ)倚[ス][二]唫筇[ヲ][一]
  玉つしま入江の雪は月花のおよはぬ昔の光也けり
已上和歌連珠集以下の詩歌等ハ、古来より有きたる
和哥浦の旧記に不載といへとも、全長の所見の有たけを
ひろひあつめてそへ記すなり。又玉津島の條下に先に
紀路哥枕抄を引て、さひか野よりそかひにみゆる沖津
島とあるを、遠望の一景名所とす。一説にハ、玉津嶋を
 
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さしたるやうになといひ、又一義にハ、同郡柳村の沖にある
浦の初島をいふともあれハ、和哥浦よりハ遠望の景にて、
しかも玉津島よりハ山にのほらされハ見へす。いわんや所
にある名所にてハあらねと、さきにいひし言の葉のあれは、
そのあらましをここにのせて、紀三井寺或は布引の松
なと、遠望の景の例とそし侍る。南紀雜集略に云、
浦ノ初島ハ、濱中[ノ]庄椒(ハジカミ)村の西北八町はかり海中に地嶋
あり[東西四町余/南北八町余]。地の嶋の西二町はかりに沖の嶋あり[東西/五町計
 
 
南北/六町余]。此二つの島を浦初島と云。類字名所和歌集[四巻/十六]
に浦初島ハ紀伊なり。新続古今冬
  紀の海や沖つ波まの雲はれて雪にのこれる浦の初島 大納言
重光とあり[云云]。浦初島、摂津に同名あり。類字名所
和歌集[四巻/十三]に、浦初島は摂津なり。紀伊に同名ありと
云て古歌八首を出す[云云]。紀の浦初島と混する事
なかれ[云云]。紀路哥枕抄にハ、浦初島の詠紀の海やの哥
と共に三首を出せり。外の二首ハ、
 
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夫木     湊こす塩風寒し紀の国や浦のはつ島雪は降りつゝ 公朝
[方与/現六]   今も又恋にハくるし尋こむいてそも紀路の浦の初島 知家
 
 
 ○妹背山
玉津島の前なるこふかり山の東にあり。[貝原翁か諸州めくりに/いもせ山、玉つしまの東に
あり。弁才天の社ありといふハ、あやまれり。玉津島明神/よりハ東南にあたり、又弁才天のやしろハなし]。こふかり山よりハ、壱
町はかりも川堀をへたてて東にある嶋山なり。されハみかけ
石の橋[香欄ともに/石にて作る]三をわたりて行きて、橋を渡りて行当り
よりすこし右へよりて西へむきたる小堂あり。内には
高さ一間はかりの切石に、法華経の題目の梵語を漢
字にてほりあけたり。曩謨薩達磨芬陀利伽蘇多攬(ナウモサツタツマフンダザキヤソタラン)
 
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とあり。此の小堂の前より左右へ道あり。左ハ守の僧かすむ
穀屋への近道なり。右の方はこれ経堂へ参る道也。
此の道左の方、小堂の次にならひて高札あり。妹背山禁
殺生と樹木の枝折るへからすとの制札にて、慶安四年四月日
とあり。それよりちと南へまハりて、東へゆく道あり。右ハ磯に
て、石垣の岸なり。左は伽羅(キャラ)岩の山の崖なるを、外の
切石にて築きたる石垣なれとも、所々にハ自然石の伽羅岩を
大小築出したる所あり。貝原翁か諸州めくりに、妹背
 
 
山は、みな伽羅の文理(キメ)のことき薄墨色の石山にて、一山
たゝ一石なり。甚奇しき観(ミモノ)なり。岩の形勢あやしき事、
目を驚せり。凡和歌の浦の石ハ、皆木理(モクメ)ありて甚美也。
他州にてハいまた見さる所なり[已上]。南の磯辺の道[此の道、南の/方と東の
石階の左右まてハ、大なる海石を/石畳の如く敷ならへて土をふます]を、東北へまハれは、東向の正面に
川中へかけつくりの瓦葺の舞臺[三間ニ/七間]あり。川中の柱、
床より下ハ切石にて、舞臺ハけやきの材木なりと云。
舞臺の所より西へむかひてのほる石階(イシダン)十五段[内、上五段ハ/外の切石、
 
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次の七段はきやら岩の自然石、/下三段は又外のきり石なり]あり。檀の上に門ありて、左右は
柵なり。門より内は小石をしく。真中に経堂あり[二間に/二間半]。
佛像はなくて、堂の真中そらにハ天蓋ありて、下に礼
盤およひ机あり。机の上に経有、八軸をならへ入たりと
みゆる函を安す。左右にハ燈楼をつりてあり。一説にハ、
此の経堂の下に法花経を石に書て[一石に一字/つゝなりと云]埋納たり
とも云。堂の右の傍に井戸あり。此経堂の後一段
高し。石階五つをのほりて、唐八分ひわたふき三棟の
 
 
門あり。左右は石垣の上に石の柵、東と南とにあり。西
北ハ山の岸なり。石階の左右に石燈楼二基あり。銘に
奉寄附燈石一雙株。三浦長門守平爲時。慶安二年
己丑春二月十五日とあり。燈臺石、六角なるに、一
面に二字つゝほりあけたる字あり。右にハ廣説諸經而於
其中此經第一[全長私に加注す。法花経/見宝塔品の文なり]とあり。左にハ此經
能令一切衆生離諸苦悩[私に加注す。これハ同経薬王/菩薩本事品の文なり]と有り。
又燈臺頂上のきほうしゆの臺、六角なるに、一面に一字
 
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つゝ妙法蓮華經燈と云六字を、左右ともに彫あけ
に切付たり。唐門の内にハ正中に丸堂作りの二重の塔
あり[上の重ハ扇たる木にて、/下の重ハ常のたる木なり]。常にハ閉戸す。内には養珠院殿
妙紹日心大姉[承應二癸巳年/八月廿一日遠行]の石碑を安置すと云。
正面舞臺の所より北の方へゆけハ、松林の中に瓦葺
の穀屋ありて、守の僧住す。夫より左へ山根を廻れハ
近道にて、はしめの石橋の所へ出るなり[云云]。全長
考るに、此山をいもせ山と云に付て、同国及ひ近国に同
 
 
名ある故に、一説にハ此の山をいもせ嶋といふへしと云説あれと、
名付る故各別なれはまきるゝ事なし。これをも妹背
山といふへきなり。同国の同名とハ、伊都郡加勢田庄背
の山村の南二町はかり、紀伊川の南辺に妹山あり。同しく
背山村の西北に背山あり。これをいもせ山といふハ、宗祗
か名所方角抄[下巻/十葉]紀伊国の分に妹背山ハ、いも山せ山
ふたつをひとつにいふなり[已上]。又近国に同名ありとハ、
和漢三才図會[和州/巻云]、妹背山ハ吉野郡宮瀧の西、上市
 
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村の東にあり[已上]。古今序註[十巻/十一葉]云、そも/\此の婦夫の
山に付て子細ありといふハ、本説・新説両所あり。両所
なから名所なり。本説は、大和國三輪の山是なり。其故
は、すさのをの尊の御子大己貴(オホナムチ)神、少彦名(スクナヒコナノ)神又ハ少名(スクナ)
神とも云、此の二神婦夫として此國をつくりたひらけ
しつめおさめ給へり。隠れ住み給ハんとして彼山に入り、
夫の神ハ左の方の山をつくり給ふをハ夫の山と云。婦の
神は右の方に山をつくり給ふをハ婦の山と云ふ。両山の中
 
 
間におつる渓水(タニミヅ)をハ婦夫(イモセ)河となんいふ。さて二神たかひに、
せの山をも見吉(ミヨシ)と讃(ホ)め、いもの山をも見よしと褒(ホメ)給ふ。
さてこそみよしのゝいもせの山といふ言ありけれ。古哥云
[万葉/集]、大己貴・少名彦神の造りてし婦夫の山ハ見れハ
見吉野。新説は、今此の集(古今集なり)になかれてハいもせの山の中
に落るよしのゝ川のよしや世中と云所なり。是ハ、みよしのゝ
里よりなかるゝ河なれハ、よし野川といふ。末は紀伊国へ
なかれたる故に、紀伊の河となんいふ。むかし紀伊国に
 
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婦夫住むものあり。よすかはたへ/\しかりけれとも、男女の
志、たかひに浅からすして年来過きけり。こゝに公事にて
夫、京へのほる。たかひにたちはなれん事、名残を惜む事
限りなし。夫すてに出けれは、婦したひて追て見けり。
おとこ河をわたりて西の山へのほる。女たへかねて東の山に
のほり、河をへたてゝ見送けるか、互に見合て、行きもやら
すとゝまりもしゑす、時をうつし日をおくるとそ、よそよりハ
見へける。其のまゝ二人なから空しくなりにけり。今の世まても
 
 
よしのゝ河中にへたてゝいもの山せの山とてあり。此意を
いもせの山の中におつるよし野の川とはいへるなり。彼本説は、
神世の三輪のいもせ山に准らへて見れハ、みよしのも縁有
ぬへけれは、是をもよしのゝ河(本ノマヽ)の中におつるいもせ山と云。
但し、本説は夫(セ)山・婦(イモ)山、新説ハいもの山・せの山なり。
左右の次第ハ前後すれとも、共に婦夫(イモセ)山と云也。又本説ハ、
中に落るハ婦夫川也。新説ハ吉野河なり。かの婦夫河
をハ今は三輪河と云。此吉野川をハ末にハ紀伊の川と
 
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なんいふとかや。[乃至]男をせといふハせなといふ事也。兄なり。
女をいもと云ハいもうとといふ事也。妹也[已上]。今和哥の
浦にいもせ山といふハ、右の二説とハ名付る故異ことなり。
崎山氏か和歌浦名所記に云、芦辺の茶屋に腰か
けてむかふをみれはそのむかし、小野の小町と業平の
いも背の契りをこめし山と[云云]。然れハ和哥の浦の
いもせ山は、彼の大己貴・少彦名の二神のいもせの中の
ことくにもあらす。又、紀の川辺なる女と男とか、志の
 
 
深かりし如くなるにてハなけれとも、さすかに哥と又色に
名高き在原の中将と、相もおとらぬ小野小町か、稀
に此山に出合て夫婦妹背の中になす。然ありしとて
此山をいもせ山と名付しなれハ、似たる事は似たれとも同し
故とハいはれぬなり。然るを、貝原翁か諸州めくりにわかの
浦のいもせ山を評して、此所の妹背ハ、近俗の称する名なり。
吉野にあるを正とすへしなと云ハ、わけを知らすしてあや
まれるなり。今此の名所記にいへるかことく、小町と業平の
 
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いもせの契りをこめし故にいもせ山と名付るそならは、
小町といひ業平といひ、定て詠哥なんともありしならん。
しかるを、土民のいやしきか伝へたるハおしひかな。かゝるいもせの
山なれと、今は御法の山となり、法華八軸の経王堂、
層塔、拜殿、僧坊まてにいらかをならへて森々たり。
けにや楞厳経にハ婬欲即是道と説き、八軸の経
王にハ娑婆即寂光土と説給ひしも、かゝるためしの
事にてや侍らん。
 
 
 ○芦辺の茶屋并朝日の茶屋
此の二軒の茶屋は、玉津島の前なるこふかり山の東の
麓、妹背へわたる橋よりすこし南にあり。家は壱軒
なれとも見世を二軒とし、北を朝日屋と云[東をうけて日光の/早くさし入故に名付る]。
南を芦辺屋と云[塩みちくれは田鶴此辺に/鳴わたる故に名付るならん]。妹背より紀三井寺へ
渡るにハ、此の茶屋より舟をかりてわたるなり。此茶屋も
国主よりあさひやあしへ屋と云ふたつの暖簾を給
ハりて、毎四月十七日御祭禮の節、或は国君御仏参ある
 
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日は、右の暖簾を懸ると云。此の二軒の茶屋より東南遠
望の景、いわんかたなし。されは崎山氏か和歌名所記にも、
芦辺の茶屋に腰かけて、向を見れハ布引の松にかゝれる
藤代や、二番の札所紀三井寺、塩焼浦の其の景趣無双の
勝地なりとハほめられしなり[云云]。貝原翁か諸州めくりに、
玉津島より川を舟にて渡り、むかひに布引の松あり。
大木にて枯たり。蟠居して猶見所あり。布引とハ此の松
のある所の西南にある町の名なり。紀三井寺ハ妹背山
 
 
の東にあり。是、西国三十三所観音の第二番也。観音堂
の前より臨めハ、和哥山・弱浦眼下に見え、海山のけしき
霞わたり、塩竈の煙立のほりて風にたなひけり。眼界
廣けれは、かしこ爰、見所多し。會稽山の佳景多して
其應接にいとまなしと、王子敬かいへるか如し。詩哥の料
多し。諸国の佳景多しといへとも、かくのことくなる美景ハ
希也[已上]。かくいへるハ其の所にいたりての景也。今哥には、茶屋
より遠望の佳景を云のみ。或る旧記[名勝/志]に云、布引松ハ
 
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名艸山ノ西十町計リ、名艸濱ノ中ニアリ[已上]。また或旧記[名跡/志]
に云、名草濱ハ和哥浦ノ東、入江ヲ隔テヽ東ニアル山、紀三
井寺山ノ続キ也。此濱ニ布引ノ松トテ、元禄初ツ方迄ハ朽
残タル松アリシニ、今ハ其木サヱナシ。若木ノ松アリ。土人コヽヲ
名草濱ト云。布引松ト云ハ、清正家集ニ、はかなくやけふの
子の日を過さまし名草の濱に松なかりせは[已上]。
萬葉廿に名草山ことにし有けり我か恋のちへのひとへもなく
さまなくに。拾穂抄廿上ノ下、名草山、八雲抄に紀伊と[云云]。
 
 
天正軍記[三巻/二葉]云、天正十三年四月はしめ、内府[秀吉/公]
御ちんまハりなり。和哥の玉津島に参詣ありて、一首の
御詠哥に云、
  打出て玉つしまより詠れハみとり立そふ布引の松。
里老の物語に、むかし宗祗、布引に旅宿して玉津嶋へ
百日詣し、此所を去るとて一首、
  百日まておりあらしたる布引をけふ立ち出ていつかきてみん。
又或か物語に、聖護院の宮、熊野へ御とほりの時、布引の
 
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松を見給ひ一首、
  都にてきゝもおりにし布引をけふたちそめてみにきつる哉。
林道春ハ和哥浦一見に来たりしと云。其時芦辺の茶屋
にて遠望せしにや、布引・紀三井寺・藤代山等の詩
あり。羅山詩集[三巻/六右]、紀三井寺ト云題ニテ、布引ノ松ヲ吟
スル詩アリ。
  紀野三井寺[ハ]、寺中置[二]大慈[ノ]像[ヲ][一]。世[ニ]傳[フ]、昔有[二]一僧[一]。常[ニ]
  信[二]観音[一]、住[二]此處[ニ][一]。一旦、龍神来[テ]請[フ]。僧乃[チ]倶[ニ]入[二]水府[一]
 
 
  及[テ][二]其皈[ルニ][一]、神授[ク][二]一[ノ]貝一[ノ]錫杖[ヲ][一]。其[ノ]後有[二]一[ノ]梵鐘[一]。出[二]
  畔[ニ][一]。人々恠[ㇾ]之、欲[レトモ][ㇾ][ㇾ]之、鐘不[ㇾ]動[カ]。於[ㇾ]是僧[テ]出見[ㇾ]之、撫
  摩[スレハ]、即鐘動[テ]而鳴[ル]。其[ノ]聲清亮[ナリ]。乃[チ]繋[二]布[ヲ]於松[ニ][一]、連[二]之[ヲ]於
  鐘[ノ]追(タイ)[ニ][一]、以[テ]牽[ㇾ]之。所謂[ル]布引[ノ]松、是[レ]其[ノ]縁也(ナリ)。既[ニ]而鐘甚[タ]
  軽[メ]而出[ツ]。遂[ニ]置[二]寺樓[ニ][一]。爾[ヨリ]来[タ]七月九日[ノ]夜[コトニ]、見[ルト][二]龍燈于
  松下[ニ][一]云。
  補陀岸下有[二]神僧[一] 一夜海鯨音出[テ]應[フ]
  白布維(カヽリテ)[ㇾ]松[ニ]如[シ][二]瀑布[ノ][一] 龍綃千尺是[レ]龍燈
 
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全長考るに、布引の松にハ異説多し。紀三井寺の縁起にも、
鐘を布にて引と云説と、又一義にハ、布引の松より南の方へ
並木の松ありて、西海の白浪を紀三井寺より見わたせは、
そのまゝ松に布を引きたるやうにみゆ。よつて布引の松といふ
説もあり。又或か一説には、そのむかし、日前宮の神鏡、此
所にあからせ給ひしに、餘光、陸に移る故に往還の人民
恐れをなす。よつて此の松に布を引て光を覆ひ奉る。夫より
布引の松といふと、熊野独参記にしるせり[云云]。又茶屋より
 
 
遠望の景に藤代山の詩あり。羅山詩集[三巻/七葉]に藤代
山と標題して、
  紀人謂[テ][ㇾ]余曰、藤代距[ルヿ][二]弱浦[一]一里餘[リ]、其[ノ]風景尤[モ]竒[ナリ]。
  南海道[ノ]之諸州、全[ク]在[二]目下[ニ][一]。昔[シ]巨勢氏登[テ][ㇾ]此、将[ㇾ][二]
  其[ノ]壮觀[ヲ][一]而不[ㇾ]能之、遂[ニ]輟(セツ)[ス][二]翰[ヲ]于松下[ニ][一]。俗所謂[ル]金岡[カ]
  棄筆松、是也。余聞[ㇾ]之、欲[メ][ㇾ]行[ント]而不[ㇾ]果。於[ㇾ]是、想像賦[二]
  一絶[ヲ][一]
  聞[ク]説[ク]紀州藤代[ノ]峯 海南[ノ]絶景目前[ニ]供[ス]。
 
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  人[ハ]云[フ]詩[ハ]是[レ]有[ノ][ㇾ]聲畫。欲[ス][ㇾ]掛[ント][二]金岡[カ]棄[シ][ㇾ]筆[ヲ]松[ニ][一][已上]
これらハみな茶屋より遠望絶景なれは、此の茶店も
和歌の浦名所数多の随一なるへきものそかし。是
より南へまハれは牛の窟なり[云云]。
 
 ○牛の窟[又ハこしのいわやとも云]
芦辺の茶屋より南西へ磯際(イソギハ)を半町はかりまハりて、
こふかり山の南の麓に、奥へハ一間半もあらんかとおもふ
 
 
岩窟あり。内に小社を安置す。これハ、もと輿(コシ)の窟(イハヤ)
なりしを、假名(カナ)にてこしと書たるを見そこなひて
うしとよみあやまりしとなり。土俗は鏡の宮とも云。
又は鏡の窟とも云。慶安年中に此所にて唐の鏡を
掘りいたし、それより、しか云となり。昔ハ、輿の窟いつれの所と
云事をしらす。近頃さくりて、人皆これを知ると云。紀路
哥枕抄に云、牛の窟は玉津島山の南、江の畔にあり。
相傳ふ。昔高野明神の神輿、此窟へ渡御の事、毎年
 
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これあるよし。其子細は高野明神、玉津島衣通姫を
御思ひ人にて、御馬にて忍ひて通ひ給ひけるを、丹生明神
安からぬ事におほしけれハ、彼の玉津島へ神馬を奉られし
時は、丹生明神の御前にてハ、くつはみの音をならさぬ
事にて侍る也[云云]。此説、高野大師の行状記に見えたり。
たゝし、神輿を渡し奉る事、今ハ断絶なり。窟の内に
小社あり[已上]。南紀雜集畧に云、公任か家集を引て
云、晩に出ていとおもしろくかあるらむ。所々見んとて
 
 
玉津島に詣てんとて、ある道おほつかなくなといふほとに、
神人たちたるもの先つかふまつらんとて出来り。あいの
松原より行ハ、まこもをひしけり、沢に駒の有もおかし。
小琢の松こくらき中より白波の立もみとをさる。漸々
御社にいたるほとに蜑の家かすかにて、舟ともつなき、網(本ノマヽ)
ともほしなとしたるも、みやこにかわりておかし。御社に詣て
つきてみてくら奉て、所々めくりてみれハ、いひやらんかた
なし。おもしろくおかしきを、おもふ人にみせぬを、たれ/\も
 
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おもひ入へし。そこのありさまいかゝ(本ノマヽ)中々おとりぬへし。かゝる
所にて中々ものもいわれん(本ノマヽ)ものにそありける。かへるさに
牛の窟をみれハ、佛いとけ(本ノマヽ)にておハするをなん、
  海人ののりわたしけんしるしにや岩屋に跡を垂るゝ也けり(ととめ置きけんイニ) [公任]
  蜑のすむはまのいわやの佛にハなみの花をやおりてよすらん 少将
  かのきしに遠きをしりて岩かけにみかけをやとす水の月かな 公任
全長考るに、公任か家集の詞およひ和哥の哥集に
よれハ、此の窟にむかしは小石仏なんとを安んしたるか、知
 
 
らす。今はなし[云云]。是より和哥の松原にいたるに
磯辺の山際を西へまハれハいたる。しかれとも、玉つしま
わかの松原と哥にも詠したれハ、ふたゝひ玉津島へ
もとり、神前より西へとほり、若の松原を一見すへし
[云云]。
 ○和哥の松原
此旧蹟しる人なし。或か旧記に若松原とは、和歌
 
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浦にハ今、松原多し。邑老か云、むかし東照宮の森、和
歌村の中に松原有しと也[已上]。按するに、此説も分
明ならす。紀路哥枕抄にハ若松原と標し、哥一首
を載す。續後拾遺集神祇に、鎌倉右大臣
  雪つもるわかの松原ふりにけり幾代経ぬらん玉津島守
[已上]。また類字名所和哥集[二巻/三十三]に、若松原紀伊[名草/海部
両郡、可決之。伊勢/に同名これあり]と標して、続後拾遺集雪つもるの哥
を出す。これも分明ならす。剰、名草海部両郡これ
 
 
を決すへしと云。よつて續後拾遺の本集を考るに、
第廿巻神祇部巻尾に題不知と標して此の歌あり[云云]。
全長按するに、哥の言葉によりて考ふれは、わかの松原
のふりにけるにつきて、玉津島守も幾代か経ぬらん、と云
意に聞ゆれは、これ外にてハ有へからす。玉津島の邊り
にて、神前より西へ行く出口の左に玉津島とほり
付たる石のある北の方、大昌院より南の方の山際の松
原を云にてあるへし。紀路哥枕抄に玉津島の哥四十
 
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六首を書す。中にも夫木集鎌倉右大臣
  玉津島わかの松原夢にたにまたみぬ月に千鳥鳴也
と云歌あり。これも玉つしまわかの松原といへハ、玉津島の和
哥の松原といふ意なるへけれハ、同し意なり。しかれハ、紀伊
に和哥の松原と詠せしハ、いつれも玉津島の邊りと
心得へきか。是を玉津島の辺とせハ、名草海部両郡
の決にハ及ふへからす[云云]。たゝし若の松原にハ同名二
三ありてまきらわしゝ。先伊勢に同名あり。類字名
 
 
所和歌集[二巻/廿四]に云若松原伊勢三重郡[紀州に/同名あり]。
天平十二年十月、伊勢国にみゆきし給ひける時、
新古今旅  妹にこひわかの松原みわたせハ塩ひのかたに田鶴鳴渡る 聖武天皇
続古今[雜/上]  いせしまや若松原みわたせハ夕塩かけて秋風そふく [光明峯寺/入道前摂政/左大臣]
風雅春上  伊勢嶋や塩干のかたの影なきに霞にまかふわかの松原 後鳥羽院
新古今賀  雪降れハわかの松原埋れて塩干の田鶴の声そ寒けき 藤原雅永
以上は名所和哥集に、いせの国に若松原ありと云ふ也[云云]。
又、河内国にも若の松原と云ふ同名ありと云。頓阿の井蛙
 
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抄[四巻/十葉]に、和哥の浦わかの松原と標して、萬に赤人、
わかの浦に塩みちくれハかたをなみ芦辺をさして田鶴鳴渡
[紀伊国也。玉津/嶋も此の浦の内也]。萬に聖武天皇、いもにこひわかの松原見渡
せは塩干のかたに田鶴啼わたる[河内/国也]。續古今に光明峯
寺殿、いせしまや若の松原み渡せハ夕塩かけて秋風そ
ふく[是ハ伊/勢なり]、以上井蛙抄なり。全長考るに、頓阿の
井蛙抄に聖武帝の妹にこひの御詠を河内国なり
と注するハ、あやまれり。これ伊勢国なり。されハ萬葉
 
 
集にも、作者此哥に注して若の松原三重郡に有と
注す。三重郡ハ伊勢也。それのみならす、河内国は
日本に海なき国十三ヶ國[山城・大和・河内・伊賀・丹波・美作・/近江・美濃・飛彈・信濃・甲斐・上野
・下野]の随一なるに、なんそ塩干の潟に田鶴なきわたると
いふ哥の有へきや。此事をこゝにしるすも、歌道の達人
たる頓阿すら、かゝる心得たかひのあるなれハ、此巻の
始終に多く古哥ひけるにあやまりのおほからんを、みる
人罪ゆるし給へとのかねての申分にてそ侍る[云云]。
 
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和哥の松原邊より市町を北へゆけは、左ハ入江の
川にて、右は市町の人家なり。町の南のはしに大
昌院あり。
 
 ○大昌(相)院
市町の南のはし、玉津島山の北に、切りとほしの道を
へたてゝある山[養珠寺山/とも別なり]の西のふもと、市町の街道よ
りハ半町はかり東に、門并ひに寺ともに見ゆ。うしろハ
 
 
自然石の山を庭とし、植木なとも見ゆ。是、大相院なり。
雲蓋院塔中六箇坊の随一にて、堂にハ廿五菩薩来迎
の像あり。住侍ハ私官の権大僧都法印[六ケ坊/皆同]なり。問て云、
六ケ坊の内五ケの塔中ハ皆、下馬の橋より内にありて雲
蓋院に輔翼たり。此院一箇別にこゝにあるはなんそや。
答て云、これに故あり。神領の境内ハよろつ釋をいむ故に、
雲蓋院并に五ケの塔中に亡僧なとある時ハ、早速当
院におくりて葬儀等をなす。これか為に別に爰に一院
 
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あり、と云。大相院より市町を北へ行ハ、和哥村の札の辻、
下馬石の所へいたる。
 
 ○下馬
札の辻よりすこし右に、制札と同しむきに下馬石あり。
高さ七尺はかりのみかけ石に下馬の二字をほり付たり。
下の字のしもをはねたるハあやまりなり、と人皆いふ。かけ
たるにてハあらさるか。南光坊の筆跡なりと云。四方に石の
 
 
圍垣あり[云云]。和漢三才圖會[神祭/巻]に下馬下乘と標
し、註云、按[ニ]、諸伽藍地[ニ]門[ノ]傍[ニ]、豎[テ][二]石或[ハ]木[ヲ][一]、書[ス][二]下馬下乘等[ノ]
文字[ヲ][一]。自[ㇾ]此而内、乘[テ][二]車馬[ニ][一][ㇾ][ㇾ]入之制禁也。本[ハ]名[ク][二]卒都
婆[ト][一]也。兼好[カ]曰、退凡・下乘[ノ]卒塔婆、在[ㇾ]外[ニ]者[ハ]下乘[ナリ]、在[ㇾ]内[ニ]者[ハ]
退凡[ナリ][已上]。全長按するに、下馬ハ所々に多し。下乗の卒都
婆ハ余か所見、洛東知恩院三門の右傍に見るのみ
なり。退凡下乗卒都婆の事、西域記九巻[八/葉]に出たり。
 
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 ○下馬の茶屋
下馬の石橋をわたらんとするに、右の方に茶屋一棟にて
二軒ならひて有り。右をまつ屋といひ、左をたけやと云。
此二軒の茶屋も、國君よりのうれんを給ハりて由緒ある
家なり。此茶屋にハ二軒ともに常にも松屋たけやの
のうれんをかけてあるなり。
 
 ○下馬橋
 
 
茶屋と下馬との間より此のはしを渡るなり。長さ
三間に横は二間ほとのみかけ石の橋にて、欄檻<ランカン>も同
石なり。橋をわたりて左は、並木の松ありて、其そとハ
入江の葭原なり。右は廣き道をへたて、宝蔵院の
塀なり。
 
 ○寳藏院[高五十石]
下馬の橋をわたりて右に、此院はしめにあり。門は
 
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むきにて、雲蓋院の御成門と相對す。正法院の右
隣にて六坊の随一なり。
 
 ○正法院[高五十石]
宝蔵院の左隣にて門ならへり。同く六坊の随一也。
 
 ○玉泉院[高五十石]
正法院の左隣にて、二坊の間まハり角。門は葭(ヨシ)原に
 
 
むかへり。六坊の随一にて和合院の右隣なり。
 
 ○和合院[高五十石]
玉泉院の左隣にて、二院の門同しむきに相ならへり。
六坊の随一なり。
 
 ○大猷院殿の御霊屋
和合院の左隣、東照宮華表の右隣に門ありて、
 
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内に檜皮葺の御霊屋見ゆ。大猷院殿の御位牌
殿なり。此の御霊屋ハ、前亜相頼宣公、承應四乙未年
四月廿日に御造立なり。大奉行渋谷角右衛門重信。御
造工奉行ハ松下彦十郎信綱、栗生利右衛門重正。大工ハ
中村藤吉、藤原宗久等なり[云云]。此御霊屋より右の
方に瓦葺の殿二箇みゆるハ、嚴有院殿、常憲院殿
の御位牌殿なりと云。
 
 
 ○東照宮
大猷院殿御霊屋の門の左となりにさかり松とて
枝のたれたる古き松[寂照堂[カ]谷響集八巻六葉[ニ]、引[テ][二]宋/彭乘[カ]墨客揮犀[ヲ][一]云、蘇伯材奉議[カ]
曰、凡[ソ]欲[セハ][二]松[ノ]偃[ンヿヲ][一ㇾ]蓋、極[テ]不[ㇾ]難。栽[ル]時、當[ニ][下]去[テ][二]松中[ノ]/大根[ヲ][一]、惟[々]留[中]四旁[ノ]鬚根[ヲ][上]。則無[ㇾ][ㇾ][ㇾ]蓋矣。]三本ある所
に、石の華表[鳥居の事なり。貝原か日本釈名上云、鳥居ハ神門な/れハ通り入と云意なり。通入障子をとりゐしやうしと云る
かことし。又神門の上に雞の栖し故、鳥居と云説もあり。然るに下学集に、とりゐを/華表とかけるハあやまりなり。華表ハかたち違ひ、殊に神門にハあらす。倭漢、制こ
となり。しゐて同しくすへからす。今の人、おほくハ華表とかく。習て察せすといふ/へし[已上]。谷響集ニ云、依[ルニ][二]古今註及[ヒ]列仙傳[ノ]中[ノ]所[ㇾ]圖華表[ニ][一]
止(タヽ)一柱也。又見[レハ][下]他圖[ノ]畫有[二]二柱[一]者[ヲ][上]、與[二]鳥居[一]相似[リ]。但華/表[ハ]、横木貫[二]二柱[一]。柱[ノ]端、如[シ][二]花[ノ]状(カタチ)[ノ][一]。鳥居[ハ]、横木蓋[二]柱上[一]。是[レ]為
 
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[ㇾ]異耳(ノミ)。故[ニ]尺書、称[二]天王寺[ノ]石[ノ]鳥居[ヲ][一]、曰[二]衡門[ト][一]。/然[レトモ]以[ㇾ][‐二]識衢路[ヲ][一][ㇾ]之義、与[二]鳥居[一][ㇾ]似矣。]あり。これ御
宮への入口なり。華表に銘あり。右の柱にハ東照掲日
華表斲石とあり。左にハ維明維堅萬世垂跡とあり。
此左の柱の方に寛永丙子孟春立とあり[これま/てハ昔
の華表の銘を/うつすなるへし]。次に一字さけて元文丁已歳再立とありて、
同柱の裏に紀州和歌浦とあり[元文再立の華表の石は、/当國熊野尾鷲庄大曾根浦
より出ると云ふ。みかけ/石に似たり]。華表より内の道にハひらみなる小石をしき
ならへて、壱町はかりの間ハ左右塀なり。華表よりし
 
 
はし行て道の左右、大かた石燈樓ならひつつけり。鳥居
よりすく道の行當りまて壱町ほとの間、左右に十一つゝ
都合廿二有り。夫より道すこし左へまかる。此まかりての
行當り、道よりハ左に、雲蓋院内より御宮へ参る小
門あり。此門より右の方、西北へむきて橋まてゆく事
半町はかり。此間に石燈籠、道より右に八つ、左ハ打ま
はりと、門の左に二つ、門の右傍に一つ、夫より橋まての間ハ
左右對々に八つゝ有て、都合道より左にハ打まハり
 
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共に十一基あり。其次は、左の方の山より水のなかれ来
る谷川に木の橋[長さ四間ばかりに、横はゞ二間ほど。/らんかんぎぼうしゆなどあり]をかけたり。
橋の左の谷川に名石。
右は池なり[池中にハ島ありて、そり橋を/かけて、弁才天の小社を安置す]。其次は、切石の石階
百五段をのほる。此石階、大段を分て三階とす。下ハ十五段。
橋のつめに石燈籠左右に二基あり。石階十五段を登
りて又左右に石燈籠二基あり。次の三十段の石階ハ
左右に石燈籠なく、たた生垣はかりなり。登りつめに
 
 
石燈楼左右に二基あり。次の上み六十段ハ左右に石
燈楼各十箇つゝあり。岩山を檀にきりて燈樓を安す。
左右には都合廿基あり。右百五段の石階をのほりて
頂上に楼門あり[瓦葺にて二重/ともに常のたる木]。門の表、左右に隨神[書言/字考
に、隨神又ハ随身とも云。接官近士の士。但し本府随身に随身の二等あり。/又閽神とも云。本朝神祠の外門に往々に看督長の像を設く。俚俗呼て
為矢大臣。これある門を土俗ハ矢大神門といふ。廣益俗説弁四[廿/葉]云、箭大臣/ノ説、俗間、神門ノ左右ニ箭大臣ト云テ安置ス。其名ヲ知ル者希ナリ。今按スルニ
舊事記ニ豊磐間戸命・櫛磐間戸命二神ヲシテ/殿門ヲ守ラシムトアリ。今ノ箭大臣ハ此二神タルベシ]有り。門の樓上には
東照宮の三字豎書の額あり。日光の御門主、輪王寺
 
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守澄法親王の筆なりと云[続花押藪一[ニ]云、輪王寺守澄法親王、/初ノ名ハ尊敬。後水尾帝第四ノ子。一品
天台座主。延宝八年/五月十六日薨東叡山]。傳聞に、當社の額むかしハ東照大権現と
ありて、竹内良恕法親王の筆にてありしか、延宝三年
に宮號の宣下ありてより、日光の御門主の筆、今の
額に改まるといふ[云云]。門に入りて左は、楼門より廻廊続にて
御供所なり[供僧/あり]。前に石の手水鉢ありて、傍に桜の
木あり。日光山御手水鉢の桜をつくと云。同しく手水
鉢の所に金燈樓一基あり。燈楼の臺に、丸の内にあ
 
 
をひの御紋を三つ星のことくに三つゝ、六所に十八あり。其故
をしらす。按するに、燈楼は一基なれとも合祭の神と
共に三神へ手向の表示にてもやあらんと思ハる[云々]。樓
門の内右の方には、護摩堂[四間はりに/六間]あり[本尊。/毎日護广供ありと云]。
御祭礼の時の御輿、常にハ此の堂内に置と云。護摩堂の
次に、すこし右の方へよりて鐘楼あり。聞に、鐘には銘無
しと云。鐘楼のうしろより、本社の右の方、瑞籬のそと
小高き所にのほれハ、三重の層塔[内にハ大日如来を/須弥檀の上に安す]あり。
 
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次に御本社の上檀は、楼門より御供所と護广堂との
間にはゝ壱間ほとにて拾間程の間切石を敷る道にて、
上檀へハ石階十箇を登りて唐門[檜皮/フキ]あり。門の左右ハ、
切石の高さ壱間餘りに築上たる石垣の上、瑞籬塀、
瓦葺なり。御宮の左右も同前なり。唐門の外、石階の
左右、石垣にそふて石燈籠八基ならへり。右に六基、左
に二基あり。唐門の内、正面にハ切石をしき、左右ハ檐の
下はかり切石にて、其の外ハ白き小石をしく。御本社[柱内/三間
 
 
四方。拜殿ハ棟行五間に二間はり。/両殿の間ハ廊下にて皆檜皮葺也]四邊、霧かくしあり。拜殿の正
面御扉三所。正中ハ東照宮、左ハ山王権現、右ハ摩多
羅神なりと云[此の左右ハ正中に在す東照宮の左右/なるへし。拜する者の左右ハこれに反す]。御本社の
[正面己午/の方むき]中央に東照神君の尊像[南龍院殿と南光坊と/相共に御彫刻の御影と云]
を安置すと云。御神前、ごはいの柱四本ありて、三所に各
鰐口あり。三扉の上のほり物、正中は鷹のきしをつかみ
たる躰、今一の鷹ハ樹上よりこれをなかめいる躰なり。拜す
るに、右の方ハ桐に鳳凰の雄鳥、左ハ牡丹に鳳凰の雌鳥
 
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なり。正中のほりもの、鷹なる事ハ、これにも故あり。東武増上
寺に、東照神君御自作の御影ましますの堂あり。安
國殿と云ふ。家光公、此堂御再興の時の給ハく、神君御
在世の時、殊の外鷹を御好ありしかハ、宮殿の内悉く
鷹を画けとの給ひ、門の彫物にも鷹を仰付られしと
いふ事あり。先君當社御建立の時も、御同意なる
へしと察せらる。されハ南紀略志にも云、
東照大権現[ノ]社、元和六年庚申[ニ]國主建[テ玉ヒ]。閟(ヒ)宮有[ㇾ]侐(キツ)[タルヿ]。玉
 
 
磌(シン)居(スへ)[ㇾ]楹(エイ)[ヲ]、金壁飾[ル][ㇾ]鐺(コジリ)[ヲ]。瓊(ケイ)門聳(ソビへ)、朱垣(エン)繚(メグラス)。層塔、寳庫、鐘樓、神
楽屋及[ヒ]社家、社僧、悉[ク]皆[ナ]備足[シ]、乃納[ル][二]封戸[ヲ][一]。社司、社僧、朝
暮[ノ]精修行法、無[レ]有[二]怠懈[一]。神之霊瑞感應維[レ]新[ナラン]。誰[カ]不[ン][二]
[一]。國主[ノ]至孝誠敬、所謂[ル]祭[ルヿ]如[ナル][ㇾ]在者也(ナリ)[已上]。御本社の左右
みつ垣の内に石燈籠十基あり。右の方の五基、口二つ
奥二つハ安藤帯刀とあり、中の一基ハ松平八郎左衛門と
有り。左の方、奥に二つあるハ水野出雲守とあり、次の二つハ
松平三郎兵衛とあり、口の方にある二つハ久野丹波守と
 
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あり。此の丹波守とある二基の石燈楼のあハひ、御本社の
左の方の瑞籬塀に小門あり。此の門より往てみれハ本社と
同しむきに瓦葺の一堂[三間/四間]あり。本尊ハ座像金色
の薬師如来。これ大権現の本地身なりと云。脇立は
立像の日光月光[同しく/金色]二大士、并に十二神将[綵/色]なり。
堂の真中に礼盤あり。机上に佛具を荘れり。堂前の
正面にハ門なく、板塀なり。薬師堂の左に一宇の見ゆ
るハ、當社の宝庫なりと云。本社の後、瑞籬の外ハ、岩山
 
 
の岸なり。薬師堂も同しく、後ハ松の生たる岩山の岸
なり。此山、もとハ天神の山にてありしを、當社創建の
時、國君より天神へ御ことわり有て、當社をたて、代地
として田畠を多く天神へ御寄進ありしと云[已上]。
問て云、本社三神の随一摩多羅神とハ、これいつれの神そや。
答て云、摩多羅神とハ唐の青龍寺の鎮守の神なり。
日本にてハ叡山の日吉山王と云。三井寺にハ赤山権現とも
又新羅明神ともいふ。上ミ下モの醍醐二所にてハ、清瀧明神
 
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と号す。又は三輪明神ともいふ。素盞嗚父子の神なりと
いふ。道春の本朝神社考二[十八/葉]略に云、唐[ノ]青龍寺[ノ]鎮守[ヲ]
[二]摩多羅神[ト][一]、又名[タ][二]金毘羅神[ト][一]。昔佛在[二]灵鷲山[一]、祭[二]十二
[一]中[ニ]有[二]金毘羅神[一]。吾朝[ノ]三輪大明神也。空海入[ㇾ]唐、到[二]
青竜寺[ニ][一][二]神祠[一]、祈[二]佛法東漸之事[ヲ][一]。帰朝[ノ]後、於[二]上醍醐
下醍醐二處[ニ][一]、立[ㇾ]祠号[二]清瀧明神[ト][一][青龍二字、/共加水偏]。圓仁在[ㇾ]唐、祈[二]
求法[ヲ]青竜寺[ノ]鎮守[ニ][一]。皈[二]本朝[一]、所[ㇾ]建西坂[ノ]赤山権現、是也。
圓仁釈云、日吉山王[ハ]者、西天霊山[ノ]地主明神、即[チ]金毘
 
 
羅神也。隨[二]一乘妙法[ノ]東漸[ニ][一]、顕[二]三國應化[一]灵神[ナリ][云云]。円珍
[ㇾ][ㇾ]唐、至[二]新羅[一]。有[ㇾ]神現[二]舟中[一]。問[ㇾ]之。答[二]青龍寺[ノ]神也[ト][一]。其[ノ]
後、三井寺[ニ]立[ㇾ]社、号[二]新羅明神[ト][一]。此[ノ]四大師所[ル]祈神、皆[ナ]是[レ]
素盞嗚父子神也[已上]。しかるを書言字考[神祇/部]云、摩多
羅神、野州日光山、源頼朝霊廟[已上]。貝原翁か日光名
勝記を考るに、相輪摚の後、三佛堂の邊に頼朝の廟あり
とのみいふ[云云]。又和漢三才圖會[下野/巻]にも、日光山下に頼
朝堂とのみ云て、摩多羅神の注なし。按するに、頼朝の
 
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霊廟摩多羅神と云ハ、東照宮に合祭のことく同社に
まつりしをいふにてやあらん。考ふへし。
 
 
 ○雲蓋院
東照宮華表の左、隣山の麓にあり。和歌山天曜寺
雲蓋院と云[按するに、寺号ハ知る人希也。/世人常に院号をのみいふ故に]。天台宗にて、開山は
南光坊天海慈眼大師なり。元和年中、東照宮と同
時に國君前亜相頼宣公御建立にて、大権現の別
當社僧なり。六箇の別院ありて當院に輔翼す。社領
高千石を収納す[此の千石の内にて塔中六坊へ/高五十石つゝ分配すといふ]。別に将軍家并
國君御代々の尊霊へ佛供料有と云。大猷院殿現
 
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米廿石、嚴有院殿廿石、南龍院殿高百石、清溪院
殿高弐百石、高林院殿高百五十石、深覺院殿高五
十石、高岳院殿現米十石なり。當院には表に門
二つ有て、一は東照宮への入口、華表の左隣[是ハ院内/より平生
出入/門なり]にて、葭原の方へむかふ。御門よりすこし左に、石階
三つを登りて門有り。塔中正法院の門と對向す。常
に戸させり。是、国君の御成門なりと云。門の内に本堂
ありて、塀の外よりも見ゆ。[庫裏/方丈]も同しく見ゆるなり。
 
 
本尊は薬師仏なり。本尊とならひて、
南龍院殿二品前亜相顕永天晃大居士[寛文十一/正月十日]
とある頼宣公の御位牌を安置すと云[御廟所ハ/代々濱中
長保寺/ニアリ]。清溪院殿[源泉對山大居士。宝永二酉八月八日逝。/従二位大納言光貞卿。當将軍吉宗公
之尊/父ナリ]は、院外に前に御霊屋あり。高林院殿[雲峯/浄空
大居士。宝永二酉五月十四日尊父ニ先立逝ス。/従三位中納言綱教公。贈従二位大納言]深覺院殿[圓巖/真常
大居士。宝永二酉九月八日逝。継兄業、領紀州/百余日。従四位少将頼職公。贈従三位宰相]は、院内に別に御
位牌殿ありといふ。高岳院殿[童名二郎吉君。延宝/七未十月十八日]
 
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は、霊牌本堂にあるなるへし[云云]。
経蔵、開山慈眼堂、
右二宇は雲蓋院内の山原に有と云。
代々の住持ハ寺付の権僧正なり。緋服なり。
 
 
 ○天神社
雲蓋院より左へ、塀にそふて芝原を右になしてゆき、
道より左、並木の松の外、葭原に天神の木の鳥居有。
此鳥居ある所の道より右は天神山の入口なり。道廣く
して坂口の、道よりは右雲蓋院の塀きハに、井戸あり。
坂の取付の所にハ、石燈籠四基あり。一對ハとまか峯石
にて、銘に弱補廻舟中より寄附すとあり。又一對は
みかけ石にて、銘に石檠雙柱、獻標寸誠、燈熒不滅、永
 
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仰昭明。寛分十庚戌五月廿五日比叡山とありて、
施主三人の名あれとも分明に見へかたし。坂は青き
わり石の石階六十三段のほりて、樓門[瓦葺にて上の/重ハ扇たる木、下の
重ハ常の/垂木なり]、二王も隨神もなく、楼上に高陽門と云三
字竪書の額あり。近衛信基公の筆なりと云。楼門
の左右は廳の屋[瓦葺にて三間はりに七間つゝ、/左右にあれハ都合拾四間なり]にて、門の内へ
入り少し間ありて、舞殿[神楽屋とも云へし。/桧皮葺二間四方]ありて、哥仙
あり。同しく信基公の筆なりと云[一説にハ信基公の哥仙ハ/宝庫に納め、常にかけて
 
 
あるハ新筆/なりといふ]。次に石階三段をのほりて門[瓦ふき/なり]あり。左右ハ石
垣の上に瑞籬塀なり。門より外、石階の左右にみかけ
石の燈籠四基あり。門の南傍にある一對の銘は、紀伊
國和歌天神。浅野紀伊守幸長[此の十四字ハ見へて/外の字ハ分明に見へかたし]。又其
左右の外にある一對には、石檠两基、奉于紀州和哥菅
神廟。承應二年癸巳六月日、平武明とあり。門より
内の左右に石燈籠一基あり。銘は、奉寄進石燈篭
一對。延宝三乙卯年九月廿五日とありて、垣田左衛
 
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門、同市兵衞、二見源義政[七人並書の内、此の/二見の二字あけて書]、垣新兵衞、
同新七郎、山本新平、北村弥之右衞門とあり。次に
本社[已の方むき。/桧皮ふき]。拜殿、廊下、本社と次第に三棟なり。
本社の棟木にしんちうにて菊と巴との紋一つ、更に九つ
あり。其故をしらす。神前の正面に、鰐口一箇有り。又
やしろの正面の高欄の葱臺、四つともに彫付たる銘有。
紀伊國和歌天滿天神。浅野紀伊守豊臣朝臣幸長
再興。慶長拾乙巳年五月朔日とあり[云云]。問て云、當
 
 
社を和漢三才圖會[紀伊/巻]にハ云、天神社在弱補。慶長
年中、自泉州勧請之[已上]。南紀雜集略にハ云、雜賀庄和
哥村菅神社、草創の時代分明ならす。或云、橘直幹宰
府より京師へ帰る時、此浦に着て初て小社を崇奉す
ると云。今の社は慶長九甲辰年、前国主浅野紀伊
守幸長朝臣、改造也[已上]。いつれをか是なりとせんや。
答て云、二説の中に、橘直幹草創と云の義、是なるへし。
慶長の頃の林道春、當社を泉州より勧請とハいはす。
 
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羅山詩集[三巻/七葉]云、倭哥浦[ノ]天滿宮[ハ]者、未[ㇾ][二]其[ノ]草創之
時世[ヲ][一]也。其[ノ]従來己[ニ]久[シ]矣。或曰、橘[ノ]直幹自[二]宰府[一][二]京師[一]
時、過[テ][二]此浦[一]而始[テ]崇奉[スト]焉。今所[ㇾ]在[ハ]者、淺野幸長之所[二]
[一]也[巳上]。全長考ふるに、直幹は村上天皇の御宇の人
なり。山城北野の菅廟も、村上帝の御宇天暦元年
秋九月に建るとあれハ、此の和哥浦の天神も、創建ハ北野
の菅廟と同時代なり[云云]。
當社にハ、今末社五神四社あり。本社の右の方、瑞籬の外
 
 
小高き所に、本社と同しむきに一社あり。三宝荒神と札有り
[書言字考云、三宝荒神ハ、一名鹿乱荒神、俗云竃神。事見旧事記矣。和尓雅ニ、/荒神社所祭神三座。土御祖神、澳津彦命、澳津姫命已上]。
又右の方に舞殿の方へむきたる三社有り。中は伊勢両
宮と札あり。右は白山権現[書言字考三云、白山社トハ妙理/権現ト号ス。本地十一面観音ナリ。延
喜式ニ、賀州石川郡。○今止為/賀越ノ界、全不属州已上]、左は多賀大社[書言字考三云、多賀/又[ハ]作[ス][二]陀我[一]。江州犬上
郡。号[二]日少宮[一]。所祭、/伊弉諾尊矣]と札あり。又舞殿の左の方に石の手水
鉢ある所より、山へのほる道あり。道に石をしけり。少し
山道へ登れハ、右の方に一堂[弐間/四面]ありて菅廟の本地堂
 
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なりと云。本尊十一面観音と札あり。
或旧記に云、此堂ハ慶長四己亥年二月に桑山治部法印
宗栄の建立なりと云。奉行ハ時の代官三谷太郎兵衛、
大工ハ和哥山の中山與三左衛門なりしと云。一説に、当社は
菅廟にてはなし。先國主浅野紀伊守幸長公、豊国の灵
を祭り天神と号するなりと云。これ大なるあやまりなり。
幸長公より先の領主、菅廟の本地観音堂の建立有し
をもつて知るへし[云云]。
 
 
羅山詩集[三巻/七葉]云、倭哥浦天滿宮者、未詳其草創之
時世也。其従來己久矣。[乃至]今所在者、淺野幸長之所
造也。頃歳、滕惺窩、應幸長之求、而作廟碑銘。然有
故不建碑云[此次に一絶の詩あり]。
  菅氏家風儒者宗 霊神今古仰遺跡
  西都北野南溟浦 三處祠堂一色松
全長考るに、惺窩とハ、続花押藪[六巻/初葉]に云、藤原歛
夫。下冷泉参議為純子。諱粛。始開宋儒性理学。兼善
 
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詩賦、達[ス][二]和歌[ニ][一]。元和五年九月十二日卒[ス]。年五十九。世
[二]性窩先生[ト][一][已上]。惺窩文集ニモ行状ヲ載テ云、
先生赴[二]南紀[ニ][一]。蓋[シ]大守淺野幸長、招[ㇾ]之也。其[ノ]所[ㇾ]待、尤[モ]謹[メリ]。
弱浦[ニ]有[二]菅神[ノ]廟[一]。大守請[二]先生[一]誌[シム][二]其[ノ]碑銘等[ヲ][一][云々]碑銘と
は、惺窩文集[二巻/二葉]に云、
重[テ]建[ル][二]和歌浦菅神[ノ]廟[ヲ][一]碑銘
於乎(アヽ)神姓[ハ]菅。三[ハ]其[ノ]字[全長加註ス。本朝高僧傳七十四巻/五葉云、天神、菅姓、諱三、字道真トアリ]、諱ハ道真。
世謂儒宗也(ナリ)。天生岐嶷多材多藝。幼季章々[タリ]焉。竟甄
 
 
抜[セラレテ]登(アゲラレ)甲科、居[リ][二]翰林[一]也。在[二]試局[一]也、調(アゲラル)[二]於右相[一]也。経術史
學之博(ヒロキ)、敷奏議論ノ之詳[ナル]職業履歴之實[ナル]班々[タリ]乎遺[二]
殘稿[ニ][一]矣。百千歳之(ノ)後、廟[二]食[メ]於京師[ニ][一]、而祠典肅々[タリ]也。上[ニメ]
而王公搢紳、下[ニメ]而廝徒負羪[マテ]信奉欽慕[メ]而不[二]敢[テ]止[一]。載[テ]
[二]口碑[ニ][一]。不[ㇾ][ㇾ][二]彝鼎[ニ][一]。何[ソ]其[レ]盛[キヤ]也哉。雖[ㇾ]然、窺[‐二]測其[ノ]家乘[ヲ][一]
[ㇾ]論遣(ヤル)[ㇾ]辤之(ノ)際、如[ㇾ][ㇾ]免[三]雜[‐二]駁于寂滅之(ノ)教[一]。人或[ハ]疑[フ]焉。
彼[ノ]〓(モトレリ)[二]大道[ニ][一]。宜[シク]攘斥(セキ)、拒[‐二]絶[ス]之[ヲ][一]。而慫慂(アフス)之若[二]儒名[ヲ][一]何(カン)矣。讒
口嗷(ガウ)々[トメ]、竄[セラル][二]紫陽[ニ][一]。都府樓之(ノ)瓦、觀音寺之(ノ)鐘、幽欝無聊(レウ)
 
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之(ノ)懐[ヒ]、不[ㇾ][ㇾ]掩[フ]矣。蓋[シ]、素行之(ノ)学未[タ][ㇾ]明而然[ルカ]乎、非[カ]乎。當時
之(ノ)有[ㇾ]識[ノ]者、詠[スルヿ][二]赤舄(セ)儿儿[タリト][一]有[リヤ]乎、無乎(ヤ)。不[二]少[シモ]概見[一]者、奚[フヤ]也。
人亦[タ]疑[フ]焉。何[レ]其[ノ]劣也(ヤ)哉。於乎(アヽ)神。可[ㇾ][二]一人[ヲ][一]而不[ㇾ][ㇾ][二]
衆人[ヲ][一]。可[ㇾ][二]一世[一]而不[ㇾ][ㇾ][二]後世[一]。豈[ニ]無[シテ][ㇾ][二]其[ノ]中[ニ][一]而長[ク]可[ㇾ]
飾[ル][二]其[ノ]外[ヲ][一]哉(ヤ)。豈[ニ]無[ㇾ][二]其實[一]而久[ク]可[ㇾ][二]其名[一]哉(ヤ)。必[ス]有[ラン][下]所[三]以
令[二ㇾ]人信奉[セ][一]之故[上]也。眷(カヘリミルニ)、吾邦上下、渾[‐二]淆・陥[‐三]溺釈氏[ニ][一]者、由[テ]
來[ルヿ]遠[シ]矣。神其[レ]無[ㇾ]意哉(ヤ)、時其[レ]不[ㇾ][ㇾ]得焉。犯[二]人主之(ノ)怒[ヲ][一]、済(スク)フ[二]
天下之溺[ヲ][一]、談何[レ]容易[ナランヤ]。故[ニ]以[テ]漸黙消潜奪[二]其[ノ]邪僻之氣[ヲ][一]
 
 
而欲[スル][ㇾ]使[ント][三]之[ヲ]歸[セ][二]至正之(ノ)域[ニ][一]乎(カ)、非[スヤ]耶。其[レ]若[イ][二]儒名[一]何(カン)。神必[ス]不[ㇾ]
然。齊王、好[二]貨色[一]、孟子不[二]直(タヽチニ)掃[一ㇾ]之[ヲ]、而先[ツ]導[ㇾ]之。魯人、為(スレハ)[二]
較[ヲ][一]、孔子不[二]卒[ニ]改[一ㇾ]之、而小[ク]同[ス][ㇾ]之。於乎(アヽ)、神[ノ]意、果[テ]在[ㇾ]茲[ニ]乎。姫
旦其[レ]不[ン][ㇾ][ㇾ]学哉(ヤ)。彼[モ]一時、此[モ]一時。憂[ヒ][ㇾ]君憂[フ][ㇾ]民、
[ㇾ][ㇾ]無[マク][二]不豫[ノ]色[一]、不[ㇾ][ㇾ]得焉。是[レ]亦不[ㇾ][ㇾ]非[ニハフル][二]素行[ノ]学[ニ][一]。冝[ナリ]矣。人欽慕[テ]、不[ㇾ]
止矣。復何[ソ]疑[ヿカ]之有[ン]矣。南紀和歌浦[ニ]置[二]菅廟[ヲ][一]者、逓代尚[シ]
矣。今[ノ]國主、豊臣姓[ハ]浅野氏幸長公、就[テ][ㇾ]胙土[シ][ㇾ]之封[テ][ㇾ]之、五
年[ニ]相(ミテ)[二]舊制之隘陋[ヲ][一]、而於邑不[ㇾ]措焉。然[ドモ]神、乏[ㇾ]主<先ツ>成[シメ][ㇾ]民、而
 
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後[ニ]致[ス]力[ヲ]於神[ニ]。鑿[‐二]開[メ]兆域[ヲ][一]、依[二]崖壁[ニ][一]、畳[テ][二]鉅石[一]、躋[二]攀[シ]崢蠑[ヲ][一]、百
工子(如)来[リ]、祠堂不[メ][ㇾ]日[アラ]以[テ]落[ス]矣。刻畫華彩、丹漆黝堊(ヨウアク)、延袤(モ)
之宏壮、照[シ][ㇾ]顔[ヲ]奪[フ][ㇾ]目。昔[シ]、狄梁公、毀(ヤブル)江淮[ノ]淫祀一千七百
區[ヲ]。所[ㇾ]存[ハ]者惟[々]、夏[ノ]禹、伍子胥[カ]二廟[ナリ]。君子猶[ヲ]以[テ]、為[下][二]伍子
胥廟[ヲ][一]未[ス][ㇾ]是[ナラ][上]。國主之於[ル][二]此[ノ]廟[ニ][一]、可[ン][ㇾ]毀[ル]乎(ヤ)。以[テ]新[ニス]焉。可[ㇾ]廃乎(ヤ)。以[テ]
崇[フ]焉。所[ㇾ]為可[ㇾ]知而已(ノミ)。維[レ]時世[ノ]道、幺麼(ヨウマ)日甚[シ]矣。列國[ノ]侯
伯達官、唯[々]有[リ][下][二]賣瞿曇[ヲ][一]、衒(テラフ)[二]耶蘇[一]者之譸(アザムキ)張[テ]為[スヿ][上ㇾ]幻[ヲ]、而未[タ]
[ㇾ]有崇[二]儒教[一]者。彝倫[ノ]攸[ㇾ]斁(ヤブル)、是[レ]之懼[ル]。偶[々]因[テ]衆人之(ノ)信奉[スルニ]
 
 
此神之有善名、而作振、以擴充其秉彝之徳。降裹性、
不亦韙哉。頼之、士知所学、民得所由、國主為之倡、則
列國、嚮風慕化、有如日矣。此舉、豈淺淺哉。然則、今日
神廟則他日聖廟也。今日國政則他日天下之政治
也。夫、神之所道之道、先聖之道也。所欲之教、先聖之
教也。於乎、神。其道屈于昔日、而伸于今日。其教晦于
昔日、而顕于今日。於是、神始得為神。神若有知、則可
謂國主者千載之知己矣。神其安焉、神其饗焉。於乎
 
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神[ハ]千歳之精爽也(ナリ)。<何ソ>其[レ]幸也哉(ナルヤ)。初[ニ]余應[二]國国主之佳招[ニ][一]、入
國[ノ]境[ニ]縦観[ス]焉。徒矼(カウ)舟梁以[テ]得[二]往還轉運之便[ヲ][一]。列[ㇾ]樹以[テ]
表[シ][ㇾ]道[ヲ]、立[二]鄙食[一]以[テ]守[ㇾ]路。塘[シ][二]于池沼[ニ][一]、陂[メ][二]于川澤[ニ][一]、以[テ]備[二]水旱[ニ][一]
民高[フシ][二]其[ノ]閈閎[ヲ][一]、厚[シ][二]其[ノ]墻垣[ヲ][一]、偫(ソナヘテ)[二]畚挶(ホンキョク)[ヲ][一]而無[シ][二]懸耜[一]。食[ミ][ㇾ]力[ヲ]樂[ミ][ㇾ]生[ヲ]、
含[ミ][ㇾ]哺[ヲ]鼓(ツヅミウチ)[ㇾ]腹[ヲ]、熈々然以[テ]安[シ]矣。暇[ニハ]則講[二]罛罶(クワリウ)[ヲ][一]、設[二]穽鄂[一]、魚鰲
禽獣不[ㇾ]可[ニ]勝[テ]用[ユ][一]也。雖[ㇾ]不[ト][二]佃作[セ][一]、而足[ナン]矣。況[ヤ]、腴田之饒(ユタカナル)、園
圃之(の)利[アル]乎。千樹[ノ]棗・栗・橘・柚・梨・柿、千畝[ノ]漆・枲・桑・麻・竹・葦・
梔・茜、千畦[ノ]老芋母薑、衣食於[ㇾ]是乎生[シ][二]楩・柚・橡・樟・松・栢・
 
 
檜・杉[一]、有[二]周廻數十里之山[一]也、材器於[ㇾ]是乎成[ル]積雪百
里之鹽、惟(タヽ)金(コカネ)三品銀(シロカネ)及[ヒ]鉛(ナマリ)与[ㇾ]汞(ミツカネ)、怪石、緑青、財用、<於是>乎出[ツ]。
[二]大洋[一]也、荒服異域之産、重[テ][二]寄象鞮譯[ヲ][一]而來貢[ス]。奇貨
[ㇾ]是乎居[ク]。此[レ]皆[イ]、所[ロニ]取[テ]給(ツキ)、仰[テ]足[ル]也。可[ㇾ]謂[ワ]、天府[ノ]國也(ナリト)。哿[ナル]哉、
秦[ノ]徐福逃[レテ][ㇾ]難[ヲ]而投[シ][ㇾ]化[ヲ]、明[ノ]太祖題[ㇾ]詩而想像[ス]矣。紀之(ノ)為[ㇾ]
州、雖[ㇾ][二]京畿[ニ][一]、地迫[ル][二]南裔[ニ][一]。嘗[テ]聞[ク]、前世其[ノ]民、恃[ミ][ㇾ]嶮潜[マリ][ㇾ]幽、爭[ワン][二]
捷(トキコトヲ)於猿狖(エンユウ)[ニ][一]、比[ス][二]猛[キヿヲ]於材狼[ニ][一]。狡猾暴悍、不[ㇾ][ㇾ]測[ル]。有[レハ][ㇾ]事則、枯
木朽株盡[ク]為[ㇾ]難[ト]矣。守[ㇾ]土者、以[ㇾ]為憂、而至[ㇾ][ㇾ][二]奈何[トモス][一]焉。
 
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今也、〓爽(コツサウ)[ノ]闇眛、得[テ][ㇾ]耀(カヽヤカスコトヲ)[二]乎光明[ヲ][一]、而化[メ]為[ル][二]樸魯質直之民[ト][一]
想[フニ]是[レ]、教羪兼施[シ]、刑賞並[ニ]設[ク]、駕御之術、有[ㇾ]在[ルヿ]矣。由[テ][ㇾ]是[ニ]見[レハ][ㇾ]
之[ヲ]、敬[ㇾ]神之至誠、實[ニ]出[二]聖教[ニ][一]。若[シ]其[レ]、托[メ][二]荒誕迂僻奇怪恍
惚ト祝禳禱之(ノ)説[ニ][一]、而扇[二]惑[ワシ]善良[ヲ][一]者、得[すハ]逞[スルヿヲ][二]其[ノ]淫巧[ヲ][一]、則有[リ][ㇾ]
愧[ルヿ][二]狄公之手段[ニ][一]。於乎(アヽゝ)神雖[二]獨[リ]豊[ント][一]、其[レ]何[ノ]福[カ]之有[ン]矣。余適[々]
抵(イタル)[二]和歌浦[ニ][一]。浦之勝[タル]古今ノ風人、韻詩、不[ㇾ][ㇾ]口[ニ]。然[モ]獨[リ]山部[ノ]
明人[カ]之歌乎万葉集[ニ]、僉(ミナ)曰[フ]、雋(シュン)永無[シト][ㇾ]窮矣。先[ㇾ]是[ヨリ]、因[テ][ㇾ]歌[ニ]而
以[テ]知[リ][二]此[ノ]地之(ノ)絶景[ヲ][一]、今也因[ㇾ]地而以[テ]知[ル]斯[ノ]歌之(ノ)警策[ヲ]。試[ニ]
 
 
高歌数闋[メ]、不[ㇾ]覺此[ノ]身遊[フ][二]此地[一]歟(カ)、此[ノ]心在[二]此歌[一]歟(カ)。憑(ヨリ)[ㇾ]欄[ニ]
繞(メグリテ)[ㇾ]廊、逍遙徜徉[ス]矣。山之偃塞(ソク)長[キ]也、横[ハリ]或[ハ]側(ソバダチ)、圓或[ハ]尖(スルドニ)更[ニ]
断(タヘ)復[タ]連[ル]如[ㇾ]笑、如[ㇾ]睡。如[二]延佇[一]、如[シ][二]俛仰[一]。水之汪洋而遠[キ]也、
[ㇾ]走、如[ㇾ]逐、如[ㇾ]遊、如[ㇾ]倒、如[ㇾ]狂。似[ㇾ]驚、似[ㇾ]怒。地勢圻(サケテ)而隝嶼(タウヨ)
出[テ]、潮聲退而(テ)岩石高[シ]。飛鳥之為[ル][二]聯翩[一]、風破[ル][ㇾ]烟[ヲ]、跳魚之(ノ)
[二]撥刺[一]、波砕[ㇾ]月。或[ハ]一望千里[ノ]曙雲共[ニ][二]遠帆[ト][一]消[ス]。少頃多
時。歸牛、載寒鴉過。遠淡近濃。雨抹晴粧。一日千態、四
序万状、不[ㇾ][二]具[ニ]述[フ][一]焉。至若(シカノミナラズ)、人事絡繹、蘭烝椒漿、迎[ㇾ]神[ヲ]
 
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送[ル][ㇾ]神[ヲ]。有[リ][二]來[リ]集而(テ)祭[ル]者[一]。山酒海物、上交下交、有[リ][二]相伴而(テ)
遊[ノ]者[一]。携[ㇾ]幼扶[ㇾ]老、夫[ハ]倡[ヒ]婦随[フ]、主先[チ]奴従[フ]。漁[スル]者・樵[スル]者、耕牧[スル]
者・商賈[スル]者、雜還盤桓[タリ]矣。開[テ][ㇾ]眼[ヲ]人[ト]之与[ㇾ]物倫理炳焉。本[ト]
無[シ][ㇾ]隠[スヿ][二]百姓之(ノ)日用[一]。知者之(ノ)知、仁者之(ノ)仁、先覺覺[ㇾ]之、後
覺[モ]亦覺[ㇾ]之。東西海之聖人同[シ][ㇾ]之。南北海之聖人[モ]亦同[ス][ㇾ]
之。是[ヲ]以[テ]、八政得[ㇾ]用、五倫得[ㇾ]叙(ツイヅルヿ)、四民安[ス][ㇾ]業。是[レ]乃[イ]神之(ノ)歌
詩也(ナリ)。文章也(ナリ)。史論也。経義也(ナリ)。命性道教也(ナリ)。豈[ニ]外[ニ]求[メンヤ]哉。
於乎(アヽ)、神、孰[レカ]無[シ][二]此[ノ]心[一]。一撥轉、一提醒。信[シ][二]其[ノ]所[一ㇾ][ㇾ]信、益[々]知[ル]
 
 
[ㇾ]信。疑[ヒ][二]其[ノ]所[一ㇾ][ㇾ]疑、終[ニ]至[ㇾ][ㇾ]疑。然後、神人以[テ]和[ス]。是[レ]所[二]以(ユヱンニシテ)
我[カ]敬[スル][一ㇾ]神、而所以[ナルカ]神[ノ]助[ㇾ]我歟(カ)。於乎(アヽ)、神、以[二]為(オモフ)何如(イカントカ)[一]。人其[レ]欽[メヤ]
哉。國主、属[シテ][ㇾ]余[ニ]書[セシム][二]斯[ノ]事[ヲ][一]。其[ノ]辤[ニ]曰、
  㨿[二]<ヨリ>海堧(セン)[一]兮封[ス][二]神丘[ヲ][一] 廟貌厳(ヲゴソカナリ)兮遺<ノコス>徽猷(キユウ)
  名[アッテ]而實[アリ]兮人焉痩(カクサンヤ) 敷[テ][二]教化[一]兮使[二ㇾ]民由[ヲ][一]
  綿歴邈(ハルカニ)兮涵(ヒタス)[二]天休[ヲ][一]
 
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 ○圓成院[いま十如院と云。高五十石]
天神の坂口の左、少し引こみて門みゆるハ、十如院なり。
塔中六坊の随一なり。
 
 ○清溪院殿御霊屋
十如院の入口の左に番所ありて、同院の門前をとほり
左へ行ハ土堤あり。是、清渓院殿の御位牌殿なり。
供僧三人ありて朝夕の香花を供すると云。清溪院殿
 
 
御逝去の節、世上に皆いふ、此尊霊は法号を
清溪院とのみとなへて、殿の字をいわすと云。これ何の
故と云ふ事をしらす。貝原翁か俗説贅辨[下巻/十六]をよ
みて其故をしる。彼に云、西山公[これハ水戸府君]所作久昌
寺律儀十七箇条に院号の事をのせて云、院号の下に
殿の字を安す。乃チ叢林ノ禅院傳へ謬る所にして、其義理
なし。官爵ありといへとも、院号に殿の字を安する事を
ゑされと[巳上]。かくハあれと、殿の字を付されハ、言葉慮外の
 
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やうに聞えぬれは、今、時習久しきを以て謬を傳へ、人
皆殿の字を付て云なり[云云]。
 
 ○神主安田兵部少輔古宅
天神より出嶋の方へ出る道より右、山の麓にあり。十如
院の入口よりすこし間ありて左隣なり。安田兵部、
根元ハ菅廟の神主にてありしか、東照宮創建有て
より、高五拾石を加増して八拾石を領し、両社の神職を
 
 
兼帯し、此所に住居す。今ハ住宅を天神山の西の
麓へかへて、古宅にハ東照宮の袮冝弐人ある中の一人、
安田助之進[現米/十石]住居す[今一人の袮宜青葉内記ハ、/現米八石とり、和哥村の内に住す]。問云、
神主袮冝とハなにをかいふや。答云、貝原好古か和尓雅三
[人物]に巫[女の、神に/つかふるもの]、覡[男の、神に/つかふるもの]、祝[説文ニ、祭/主[二]賛祠[一]者]、袮宜[倭俗、称[ㇾ]祝/曰[二]袮冝[一]]と
あり。書言字考[人倫]、袮冝[ハ]神職。続日本紀、作[二]袮義[一][已上]。下
学集[上巻/十四]、神主とありて註なし。鎌倉志[一巻/廿九]に云、鶴
岡社務職次第、建久二年十二月神主ヲ定メラル者ナリと有。
 
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 ○下馬場の際限
安田氏か居宅より出嶋へ行く所に木戸門あり。
下馬の橋より此所まて下馬場なる事をしらしむ。
神領の裏口とも云へし。
 
 ○和哥浦片男波
下馬際限の木戸より半町はかり濱の方へ行て、漁村
の人家あるを、和歌の浦の出嶋と云[貝原翁か諸州めくり/に此の出嶋の人家を、
 
 
片男波といふ在所/ありと云ふハ、あやまり也]。出島の人家より濱へ出れハ、右の方ハ海
中へ出はりたる岩山にて、左の方ハ長き洲崎なり。
二十町はかりありと云。此洲崎の一方、西南熊野辺より
の大海をうけたる濱へ、あらき浪のよせくるを、片男波と云。
又一方の後、東北の方ハ入江の大河にて、洲崎より地方
まてハこれも同しく廿町ちかくありて、こふかり山・いもせ山・
玉津島なといへる所なり。洲崎の末々平濱なれとも、
地方へよるほとはゝも廣く、真中は小高きすな山に
 
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て松なと生たり。貝原翁か諸州めくりに、玉津島、妹
背山の南の方ハ、高き砂の岡ありて所々に松生ひたり。此
岡なかし。此の入江のあたり佳景なり。古歌に
  人とハヽ見つとやいわん玉津島かすむ入江の春の明ほの
とよめるハ、此所なるへしといふ[云云]。此の一方の濱へあらき波
のよせくるをかたをなみと云。これに種々の義あり。
了誉上人[武州小石川傳通院の開山。/聖冏和尚。哥道ハ頓阿の弟子也。]古今序註[八巻/十四]云、
かたをなみとハ、一義に云、片男浪也。言ハ、たつ浪を男
 
 
浪と云、引なみをハ女なみと云。みちくる時は、立波はかり寄て
くる故に、片男浪とハいふ[云云]。一義に云、潟面無也。言は、
しほみちくれハかたの面かなき也。なしと云事を、なみとハ
いふ也。ゐん處なみと云へるかことし。上の句ハかやうにかけれ共、
下旬同し意なり。ひかたにはみつる田鶴か、あしへをさして
鳴きわたると也。又此哥を尺教に取る人あり。赤人の秀逸
の哥なるか故に[已上]。季吟か万葉拾穂抄[六巻/三葉]に云、わか
の浦に塩みちとハ、祗か云、塩のみちて潟のなくなると也。
 
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又は、方と用る説あり。いつくともなく芦辺へ鳴行さまなり
[已上]。全長考るに、一義に云、かたをなみとハすなハち、かたも
なしといふ言葉の轉注なるへし。をともと音通し、
[をこそとの/ほもよろお]みとしとも又五音通する故に[いきしちに/ひみゐりい]
しるへし。たゝし案するに、かたもなしと云の義もいまた
理を尽すとハいひかたし。塩の満時、かたのなくなる事ハ、
いつくの浦も同しかるへけれハ、和哥浦の名所奇勝の名
とするに足らす。尤、塩のみつる時ハいつくの浦もよせくる
 
 
浪のしけゝれハ、男波はかりにて女波ハなきやうに見ゆれ共、
別てわかのうらハ荒濱にとなる、浪のあらき砂濱の遠浅な
れハ、塩みつ時、ひくなみも小波もなきにハあらねと見へす
して、よせくる波とのみ見へけるありさまを、赤人ハおなみ
はかりのやうに見なして片男浪とハ詠せしならん。これに依
てむかしより、和哥浦の名所片男浪とハいひ傳へしならん。
されハ、了誉上人の古今の序註にも、二義をあくる中の
第一の義とす。しかるを貝原翁、万葉集の潟面無と書し
 
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を、宗祗か潟のなくなるなりと云ふにかたよりて、諸州め
くりに書すらく、俗説に此浦におなみありてめなみな
し。故に片男浪と云と。此説非なり。男浪とハ大波なり、
めなみとハ小波なり。われもとより其説を信せす。天地
の内、なとてかかるつねの理にたかひぬる事やあるへき、と
思ひしかハ、かえりて後、人にもかたり其迷ひをさとさんため、
わさと此の濱辺にやすらひて、心をとめて久しく見侍り
しに、いささか俗説のことくにハなし。只よのつねの所の
 
 
ことく、おなみめなみともに、いくたひも立来れり[已上]。
全長按するに、貝原翁、心をとめて久しく見侍るとハ
いへと、定て塩のみちくる時にてハなく、引しほ・ひしほの
時にてやありけん。すてに赤人の哥にも上の句に塩みち
くればと云、ばの字にふかく心を付へし。塩のみちくる時ハ、いつ
くも同し事とハ云なから別て浪のあらきわか濱を、赤人
は塩のみちくるを見て、詠せしならん。しかるを貝原翁、折
ふし引塩の時を見て、あめつちの内なとてかなんといへる事ハ、
 
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夏の虫の雪をしらさるとやハいふへき。我かすむ庵ハ、名高
浦、柿本の人丸の紀の海の名高の浦と詠したる[万葉/集十一
柿本人丸、紀の海の名高の浦による波の/おとたかしかもあはぬこゆへに]濱辺にゐつゝ、和哥浦へ
道はわつかに一里はかり、海陸ともに自由なれハ、折々
行て考るに、塩のみちひにちかひあり。塩みちくれは
片男波と云、これそまことに片男浪とおもひし事も、
おほかりしそかし。されハ、つたなき言の葉にて一首。
                    全長
 
 
  見ぬ人に何とかたらむ片男波
        みちひにかハる浦のけしきを
此濱の内、出嶋の人家より左ヘ壱町はかりに、
東照宮の御旅所あり。
 
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 ○東照宮御祭禮御旅所
出島の人家ある所の濱辺を、左へ壱町はかり行きて、海の
方正南にむかひたる鳥居のある所なり。鳥居の内、北の
方の岡に、御旅の基址石ありて、その左右に二三宇有
ハ、御祭礼の用物を入れ置所なり。當日にハ支度等
の場所とす。南紀略志に云、東照宮、毎歳四月十七日、
[二]祭事[一]。豊潔荘麗、整齊嚴肅。見者駢(ナラへ)[ㇾ]肩[ヲ]、累(カサヌ)[ㇾ]足。𧥄々(シウシウ)如[二]
魚頭[ノ][一]。神輿出[‐二]幸濱[ノ]社[ニ][一]、及[ㇾ]晩而還[リマス]。九月十七日、有臨時
 
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祭。歌舞以[テ]饗[ㇾ]神。又一盛舉也[已上]。南紀雜集略に云
東照宮、四月十七日、毎歳祭事有り。九月十七日臨時の
祭、法花経講あり。翌日、能[佛の原と/いふ謡]ありしか、今はなし。
十七日に相撲あり[已上]。
神前にて佛の原と云謡能ありし故を考るに、大君言行録上巻/十二葉云、元和二年正月、織田常真、江戸人、年始の御礼に御下候とて/駿府へ御立寄、三四日逗留。
権現様御馳走、御能有之。頼宣公へ、佛の原を被遊候へ。見物被成度旨、/常真公御所望。頼宣公、いまた佛の原御相傳不被成ニ付、
権現様、御残念に被思召、佛の原を御習ひ被成、正月廿一日に、/権現様ハ田中藤枝へ御鷹野に御越候砌も、御留守中に仏の原
 
 
御ならひ被成候へと、被仰置候故、御稽古被成候。正月廿四日に、田中にて/権現様、御煩付被成、二三日過て駿府へ御帰被成。御病氣ことの外重ニ付、
御子様方、宇都宮近く御迎に御出被成候。御駕の内ゟ常陸ハ仏の原/習請候哉と御尋。中々、成就仕候と被申上。
権現様御意にハ氣色本復次第、佛の原、御見物可被成と仰せられ候。其後/御氣色重り、終にハ御能も無御座、四月十七日に御他界なり。
頼宣君、是を御残念に思召、紀州へ御入部、和歌
御宮御建立の後、此事を不及忘思召、九月十八日に臨時の秋祭被/仰付、毎年御神拜の能不怠。初二三年ハ毎度、仏の原を被
仰付候。去程に、此の九月十八日の御神事能ハ御国末々萬歳迄も/無退轉筈に御定候旨、其後、御目付贄市郎太夫其外へ被/仰渡候。
 
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  毎年四月十七日御祭礼行列渡物の次第
御経筥○御榊○鬼面の棒振壱人○獅子舞壱○
田楽法師六人〇御旗矛七本○神子壱人○長刀
振壱人○赤幌おひ[鎧鉢巻/ニテ]七人○白幌三人[短衣/鉢巻]
○れんしやく五人○山伏十八人[螺吹]○鬼面先向棒
振六人○雜賀踊拍子太皷[奴一人一本打・/若衆一人二本打]○征打二
人○笛吹三人○螺吹山伏三人○雜賀踊跡向棒
振四人○雜賀踊つゝらすり五十人○唐舟一つ○
 
 
笠鉾壱つ○猿十二疋○面かけ三十九人○鎧武者
拾人[指物赤白/色々交]○町湊大年寄[数人]○御先乗組五人
○御神馬三疋[鞍なし。馬衣をかけ、/頭と胸に幣をたれ]○御矛三本○御鉄
炮三梃○御弓三振○御槍三筋○御長刀三振○
楽人廿人[舞童四人、笛四人、ひちりき四人、/笙四人、磬ニ弐人、大皷ニ弐人]○児十六人[小童子/二人、中
童子二人、大童子/二人、小結十人]○御幣三人○御太刀三人○神主安
田兵部[中納言ノ/装束ニテ]騎馬○和歌郡奉行二人○代官
壱人○神輿練鉦三つ○同練太皷三○第一神輿
 
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[頂上ニ/鳥アリ]○第二神輿[頂上きほうしゆ]○第三神輿[頂上に鳥あり]
○町奉行二人○雲蓋院僧正[乗輿]○僧衆騎馬拾騎
○警固四人○道具持六人[鐵把二、長脚/二、狼牙俸二]○町与力
三人○御目付二人○押者二人[以上]
右行列次第、人數渡物等、時によりて増減あれハ、一定
にハ定めかたし。今ハたゝ大概をしるすのみ。
 
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