五條市教育委員会/中家文書調査報告書

中家文書調査報告書

第三章 解説

第八節 その他

第五項 書状

 紀ノ川(吉野川)沿岸の紀州高野山興山寺領村に流れ着いた吉野郡の材木の取り扱いについて、興山寺から五條代官所に「公儀御定法も有之儀ニ候ハ丶、委細承り候上正路之沙汰申渡度」いとして、書状を出した経緯が述べられている〔箱4-46〕。「去午ノ十月」に流木の事態が生じ、何度かの問い合わせのやり取りがなされたけれども、支配違いの影響で翌年の十月になっても解決していない。漂着場か、現在の流木保管場所での受け渡しかをめぐる対立の中で未解決のまま推移した情況が浮かび上がる。文中の文言「去々巳歳ヨリ右口役銀公儀御直御取立ニ相成候ニ付、却而厳重之御取斗」とある巳歳は、辻甚太郎代官の任期が文化七年(一八一〇)の午年~文政五年(一八二二)の午年だから、「去々巳歳」は文化六年(一八〇九)以外には該当しない。口役銀の仕法替実施の通達が代官所から出されたのが文化六巳年(一八〇九)だったからである。「去々」を文字通り採れば、この書簡が書かれた年次は文化八年(一八一一)の未年となろう。
 大風雨によって散乱した流木が、河岸の村々で拾い揚げられる事態はしばしば発生した。特に五條代官所が設けられ、口役銀制度の仕法替えが実施されたに伴い、流木に関する「公儀御定法」の有無や内容確認が必要となった。流木の処置や扱い方については、代官所はその都度必要に応じて村々へ注意を促していて、嘉永元年(一八四八)九月、嘉永三年(一八五〇)九月、慶応二年(一八六六)八月などの「御用留」にその触が記載されている〔箱1-24・25・26〕。口役銀が納められた材木が散乱していることもあって「右材木拾ひ取、押隠、大材之分ハ挽切挽割又ハ打割、山林或ハ地中江埋置候もの」もあるとの風聞に対しては、それは「不届之至ニ候」と指弾している〔箱1-24〕。