五條市教育委員会/中家文書調査報告書

中家文書調査報告書

第三章 解説

第八節 その他

第五項 書状

 書簡〔箱4-31〕は、差出人は「多賀靭負家来」、宛て所は「五條御陣屋御執事衆中様」、日付は「正月十六日」である。鷲尾侍従高野山隊が戊辰戦争勃発直後の慶応四年(一八六八)一月六日に五條代官所を接収している点を考慮すると、その新政府軍の五條役所の御陣屋御執事衆中へ宛てたものであろう(一月十日に鷲尾侍従本隊は大坂方面へ去っている)。「辰之御年貢半減」「御軍役上納」「外ニ別段靫負献納」などとあって、戊辰戦争勃発の間もない時期の書状であろう。文中にもある多賀靫負(兵庫助)は二千石の旗本で、当時和州高市郡曽我村などの領主であった。『柳営補任』・『続徳川実紀』によると、文久三年(一八六三)一月「御書院番小笠原志摩守組より御使番」を拝命し、元治元年(一八六四)八月一〇日「長州征伐ニ付軍為目付被遣」、次いで慶応二年(一八六六)七月「御進発御供早々上坂」したが、まもなく慶応三年(一八六七)一〇月「御役御免」となっている。大和国の比較的上位クラスの旗本が、戊辰戦争の時期において新政府軍にどう対応したかを示す一つの事例となるのではないか。「御軍役」・「献納米金」・「玄米」の上納を請け負ったのである。同様に、五條役所宛の「鷲尾殿へ上金口上書」〔箱1-56〕からは、桑山舎人の領地竹ノ内村外五ヶ村(桑山氏は采地が二千石の旗本)が慶応四年(一八六八)一月に鷲尾侍従に上納金を差出していることが分かる。前述したように、〔箱3-288〕によれば、代官所から「多賀左近殿」に金百両が貸し付けられている。旗本多賀氏と五條代官所との繋がりは、貸付金との絡みで少なくとも辻甚太郎時代には存在していた。