五條市教育委員会/中家文書調査報告書

中家文書調査報告書

第三章 解説

第八節 その他

第四項 教育

 明治の初期、日本の学校の区分では奈良県管内は第三大学区とされ、宇智郡はその中の第一五中学区に属したが、既に明治七年(一八七四)中には宇智郡地域内に二一校の小学校が建てられている。五條村では「第十五番中学区内宇智郡第九十七番五條村小学知新舎」が明治七年(一八七四)五月に大悲院で開校している。教員二名と生徒一五〇名という(『五條市史』)。
 〔箱1-34・40〕には、知新舎の明治七年(一八七四)「五月ヨリ八月迠之学校諸入費」が細目に亘って計上されていて、近代最初の小学校が運営されていく際の様子が記されている。「生徒掛札代」「箱火鉢代」「手桶代」「掃除并小使工数代」「筆墨代」「書籍代」「イス代」などの代金やその受取人が記されているばかりではなく、「フラフ」(旗)、「タワフル」(テーブル)などとオランダ語で表示されていて、英語への転換以前の雰囲気が醸し出される。「月給五月六月分金拾四円」が佐野煥に手渡されているが(七月八月分も一四円)、実は佐野煥はかつて五條代官所が設立した郷校主善館の教授であった。『孝経蠡測註釈』、『宋文天祥正気歌句解』などの著作があり、地域社会の各方面のリーダー等の師となった人物である。主善館の教授が近代最初の小学校の教員となっていたことを示す貴重な証言である。なお、この二年後の明治九年(一八七六)の事例であるが、三在村の諄誘舎においても教員の給料額は知新舎の佐野煥と同じである(米田家文書)。
 〔箱1-38〕は、明治七年(一八七四)五月付、七歳の児童が「性素虚弱等之故」の理由を付した奈良県知事(権令)宛の「壮健」になるまでの就学猶予申請文書である。〔箱1-39〕は、日課・科目・束脩など近代の小学校が開始される以前の手習塾の内容が窺いしれる。明治九年(一八七六)に須恵、新町の学校と合併して五條小学校となり、同二〇年(一八八七)に五條尋常小学校となる。〔箱1-35・37〕はこの折りの文書である。ちなみに〔箱1-35〕は、桁棟用・庇タル木・野隅木・柱・板・雪隠用・杉皮など杉材、ハリ・鴨居・火打梁などの松材の合計七四点とその代金四四六円二〇銭の明細書である。
 奈良県下では、明治八年(一八七五)には五條師範学校が奈良(寧楽)師範学校とともに開校されており、また、堺県の通達によれば、明治一〇年(一八七七)二月二六日には、五條に設立の女紅場の教員が既に二名任命され、生徒が募集されている。近世後期から近代にかけて、後の旧制中学校や高等女学校などを含めての奈良県下における教育の先導的活動を展開した五條地域にあって、これら近代最初期の史料は貴重であろう。