五條市教育委員会/中家文書調査報告書

中家文書調査報告書

第三章 解説

第八節 その他

第三項 天誅組の変関連

 〔箱3-409-1・2〕は、三ヶ村役人惣代五條村庄屋源兵衛が、今井村に置かれた天誅組討伐軍藤堂藩陣所からの指示に従って、村々へ伝達した刻付急廻章である。藤堂藩が昨日の九月一四日に「天之川辻」を「乗取」ったから「浪士共いづれえか逃去」った。だから兵糧方人足は安心して出立するようにとの内容である。源兵衛から村々へ回覧した同文の廻章二通が納められ、一通は一八ヶ村、一通は一五ヶ村を回覧して源兵衛の手元に戻された。両方とも九月一五日亥刻(夜十時頃)に出されている。霊安寺・丹原・生子・御山・大野・黒駒・火打野・山陰へと回り、寅刻(明け方四時頃)には大津村まで届けられ、更に田殿・大深・相谷・畑田・上野・新田・犬飼・木の原から最終の下之村へと届けられている。下之村では「九月一六日戌之下刻奉拝見候」と記された。もう一通は野原・牧・嶋野・滝・八田・南阿田と夜中に廻され、一六日早朝小嶋村から宇野・三在・西河内・住川・小山・東久留野・西久留野へと届けられ、最後の北山村では一七日朝八時頃「辰ノ下刻西久留野村ヨリ請取拝見仕、御戻し申候、以上」と認められている。「不限昼夜」、夜を徹して村々へ回覧された様子がよくわかる。
 宇智郡には六二ヶ村余があるが、この二通はその内の幕府の直領以外の旗本知行村三三ヶ村(相給村を含む)への連絡の所為か、用達ではなく「三ヶ村役人惣代」としての立場で廻達されている。管見の限り、宇智郡内の全ての旗本知行村へ順達された文書は他に知らない。私領主の藤堂藩陣所の指示であるため、五條代官所の用達の立場ではないのだろうか。宇智郡内の残り幕領村三二ヶ村余へも同内容の文書が順達されたと考えられるが、どういう立場の人物からかは未詳。
 〔箱3-409-3・4〕は、「五條御用達中屋源兵衛」の名で同文で宛先を変えて出した二通の「急廻章」である。大津石原様(大津代官石原清一郎)からの達書の写しは、一通は吉野郡惣代下市村藤兵衛ら三名宛、もう一通は吉野郡惣代上市村廣助ら四名宛に出されている。ただ石原代官の写しは「別紙」とだけ書かれていて現物は残っていない。しかし、文久三年(一八六三)の「御用留」(柏田家文書)には九月二八日付の石原清一郎からの廻状がそのまま記載されている。〔箱3-409-3・4〕には、用達中屋源兵衛は「子ノ下刻」に廻章を記している。「御用留」(柏田家文書)には「右御廻状亥九月廿八日子ノ下刻須恵村ヨリ受取、同刻二見村江相渡」すと書かれている。新町村庄屋久兵衛は当時の宇智郡惣代ではなかったため、須恵村→新町村→二見村の順路で廻らされたのであろう。この宇智郡内に廻された石原清一郎の廻状と「別紙」とは同じものを指していると考えられる。天誅組の変の混乱で代官所管内はまだ「鎌留」の状態であった。そのため石原代官の廻状は、検見と紀州藩の郷村請取に関する内容である。旧代官所管内村々が紀州藩の預所に置かれるかどうか云々に関わる文書は、〔箱3-409-3〕〔箱3-409-4〕以外にも〔箱3-409-5〕〔箱3-409-11〕〔箱3-409-24〕などがある。
 この〔箱3-409-3・4〕は、五條代官のいわば代理としての大津代官→用達→郡惣代→各村への通達の経路を示している。「浪士ニ被奪取」れた鉄砲・武具・その他の品を報告するようにとの藤堂藩からの通達を中屋源兵衛名で回覧した廻章が三通(〔箱3-409-7・8・10〕)、吉野郡惣代九ヶ村・宇智郡惣代五ヶ村・葛上郡と高市郡八ヶ村にそれぞれ廻されているのは上述と同じ事情か。