五條市教育委員会/中家文書調査報告書

中家文書調査報告書

第三章 解説

第八節 その他

第二項 森田節斎関連

 間接的とは言え、森田節斎に関連する文書が何点か含まれているので取り上げておく。『中賢女伝』において森田節斎が「余家與中氏、隔壁而住」と述べている通り、中家と森田家はいわば隣家どうしである。また「賢女與先妣、交最善、其共蒙賞也」と記述しているように、安永九年(一七八〇)生まれの節斎の母千代と中いととは僅か三歳しか違わず、大変懇意にしていたらしい。更に二人は天保元年(一八三〇)に同時に五條代官矢嶋藤蔵によって「蒙賞」るほど浅からぬ因縁がある。森田千代の褒状にいわく「大勢の子供の養育が行き届き、家事取締方」が優れていると。母親と夫との違いはあっても早くに亡くし、幼児の養育・家事取締万般を仕切って家を守った中いとと森田千代である。
○〔箱1-27〕「御用向諸控並綴込共」
 郡政下用掛に任命されていた中源兵衛が綴った文書類であるが、そこに含まれる奈良府出張所宛ての文書の一つに森田仁庵の人物像の一端が述べられている。奈良府が置かれた期間が明治元年(一八六八)七月二九日~翌二年(一八六九)七月一七日の間であることやこの文書の前後に配置された文書の日付を勘案すると、明治二年(一八六九)六月頃に作成された文書だと推測される。それは、五條村庄屋を差出人として「奈良府出張五條御役所様」宛てに作成され、当時五七才で五條村生れの「御料宇智郡五條村医師仁庵」の人物像を報告した内容となっている。「祖父之代、寛政五年(一七九三)ヨリ 同国吉野郡塩野村ヨリ当村江移住いたし、医業三代仕居候」と森田家の由緒を述べ、医業については「本道」と「外科」を兼務する医者だとする。森田仁庵は森田文庵の三男で、二男森田節斎の弟にあたる。前年の明治元年(一八六八)に文化八年(一八一一)生まれの兄節斎が五八歳で死去しているので、仁庵は二つ違いの文化一〇年(一八一三)生れになるはずである。ところが『森田節斎全集』年譜は弟仁庵を文化一一年(一八一四)生、兄文作を文化五年(一八〇八)生としている。一方『森田節斎之生涯』(武岡豊太講述)が引用する五條村の宝満寺「旦那宗門御改帳」は、天保一五年(一八四四)において文作は三八歳、仁庵は三二歳としているので、文作は文化四年(一八〇七)生、仁庵は文化一〇年(一八一三)生となる。森田節斎は、兄文作とは四歳、弟仁庵とは二歳違いとなる。たぶん『森田節斎全集』年譜が誤っていると考えられるが、ここでは異説があるとしておこう。
○〔箱1-31〕「森田節斎書五篇写」に書写されている収録作品は「古岳庵記」「與土井某書」「左衛門楠公髻塚碑」「南渓林先生墓碣銘」「題志道和尚頭陀囊」で、『森田節斎全集』年譜によればこの五篇はすべて慶応元年(一八六五)と慶応二年(一八六六)の作品である。
○〔箱3-381〕中屋源兵衛から森田文作宛ての銀一貫目の預かり書である。この名宛人の森田文作は、節斎の兄であろう。この文書から五年後、森田文作は嘉永二年(一八四九)八月九日に病死している。未亡人照・その遺児貞次郎(正義)・たつゑ・牛之助(弘道)がいる(『森田節斎全集』年譜)。
○〔箱4-3~14〕森田貞斎関係文書
 森田貞斎の人物を、〔箱4-3〕は「宇知郡五条村医師森田貞斎」、〔箱4-14〕は「森田文作亡長男森田貞斎事正義」と紹介している。〔箱4-7〕では「上野地村寄留」としているが、原籍を五條村とするこの医者貞次郎(正義)は、森田文作の長男で森田節斎の甥にあたる人物であろう。〔箱4-3〕~〔箱4-14〕はこの森田貞斎に関係した文書。〔箱4-3〕は明治六年(一八七三)三月三〇日に度会県木本出張所(三重県熊野市)を出立してから四月九日に奈良県五條出張所(帳面上は肘塚村、現奈良市肘塚町)へ到着するまでの紀伊半島横断一一日間の旅費記録帳である。〔箱4-3〕~〔箱4-6〕は「右之者(森田貞斎)、過日度會縣ヨリ当縣江引渡相成候」一件に関連した文書。
 〔箱4-7〕以下は種痘免許状一件に関連する文書である。明治六年(一八七三)七月付の〔箱4-7〕では「僕家(森田貞斎家)ハ牛痘大和開化之再始シテ三十年以来、至今種痘施術致候之者」と述べられている。三〇年来「種痘施術」が事実とすれば、それは弘化年間初頃以来ということになる。『森田節斎全集』年譜では「嘉永三年(一八五〇)、京都の医師日野鼎斎に対し種痘の妙術を称揚し七絶を贈る」とあり、また同書によれば井沢宜庵(医師広瀬元恭の塾時習堂に弘化元年冬に入門)も「蕃國傳」の「種苗」「妙術」を心得ていた形跡がある。五條地域に「種痘施術」が行われたことを強ち否定することはできないが、〔箱4-7〕は森田貞斎が官許を得るべく提出した願書であることは考慮しておく必要がある。ただ、これらは地域社会の医学の発展の社会史的研究を促していると同時に、森田節斎の人物像についても、尊王攘夷論者一辺倒のみの観点からではなく、長崎において試みられて有効だと見做された「ガルバルと申西洋之工風、中風スベテ麻候病を治し候器」(『森田節斎全集』)へ関心を示していた視点からも考察する必要があろうことを示唆している。