五條市教育委員会/中家文書調査報告書

中家文書調査報告書

第三章 解説

第八節 その他

第一項 中いと

 中いとに関係した文書が四点現存している。富商の家であったり、庄屋、掛屋、用達などを歴任する地域の名望家であったりする家を支える女性の立場や生き方を理解するのに適した文書である。
 〔箱4-44〕「香奠帳」の表書きには「俗名いと、享年六拾六才」「天保十三寅年十月四日夜七ッ時命終」などと書かれている。一方森田節斎『中賢女伝』は一〇月五日に「病没」とし、桜井寺墓碑にも「香誉妙戒禅定尼 天保十三年寅十月五日」(『宇智郡誌』)とある。香奠帳とは日付が異なるが、命日を一〇月五日としたのであろう。享年から逆算して中いとの生誕年は安永六年(一七七七)であり、寛政二年(一七九〇)「家内諸事格式控」(〔箱4-43〕)は一四歳、文化九年(一八一二) 「中糸女伝並序」(〔箱2-6〕)は三六歳の時の文書であることがわかる。前者の「家内諸事格式控」は、「安永五年(一七七六)より何角格式」を中いとが写し取った文書である。正月から一二月までの年間の節句や様々な祭りの食膳の様子、あるいは「夜なべ」や休暇日など中家や地域の生活暦がわかって貴重である。後者は「賢姉糸女」の簡単な伝を記してあり、「中氏長女名糸、資質賢貞」「早喪双親」「自鍼縫紡績、以至百般家事」「可謂女中賢者」などと中いとを高く評価している。
 中いとが二七歳の時の池田仙九郎代官による享和三年(一八〇三)七月の褒詞状、五四歳を迎えた時の矢嶋藤蔵代官による天保元年(一八三〇)の褒詞状がともに中家文書に現存せず、『宇智郡誌』に両方が、『五條市史』には前者のみが収録されている。〔箱2-5〕は前者の表彰が行われた時の請書の写であろう。父娘だけではなく、五條村の庄屋ら村役人が連署している点も留意しておきたい。
 「香奠帳」は様々な情報をもたらす。全貌は紹介できないが、いくつかの特色や注目を引く点を挙げておく。「香奠帳」は、当時の地域社会の多様な出自からなる実に三〇〇余の人々の名で埋められている。人数の多さもさることながら、宇智郡の村だけでも野原村・二見村・住川村・今井村・近内村・安生寺村・三在村・上中村・大嶋村・須恵村・小山村・御山村があり、他郡では西北窪村・林村・池ノ内村・六田村・重坂村の名が記録されている。五條代官所の元締二名(小田又七郎代官の手附増田雄右衛門、木村左右蔵)、掛屋、郷宿、馬借問屋、郷校主善館の教授佐野煥、森田節斎の兄文作や地域の名望家、有力商人、豪農らに当たる磯田・四郎兵衛・中清・久藤・当宗・当七・森久・常楽屋・紙又・吉野屋・二見村源右衛門・水掫・小林道隆外多数の地域の著名な人々が名を列ねる。と同時に、大工勘兵衛をはじめ瓦屋・鍛冶屋・左官屋・畳屋・味噌屋などの生活に密着した屋号を持つ人々も多い。参考までに記しておくと、大工勘兵衛は二〇年後の文久二年(一八六二)四月において、宇智郡大工組織犬飼組五〇人弱の大工組織の「組内惣代」となる人物であると考えられる。馬借所を請け負った日高屋長兵衛、材木口役銀簾村御改所の牧野正朔と下市御改所の高嶋芳太郎らの名も列記されている。更に、御山村の北厚治や天誅組の変の見聞記を後に著すことになる『本城久兵衛日記』(五條市立図書館蔵)の著者本城(松屋)久兵衛の父、あるいは本人かと推測される松屋久右衛門の名もある。他に寺院関係では井上院・称念寺・宝満寺・大悲院・持(地)福院がある。これらは、中家の貸家、庄屋、用達、掛屋のいわば家業としての仕事上の幅広い交際関係の一端を示すものである。当時の習俗を垣間みせるのが御香料であるが、線香大巻一把・上丸せん香一把・らうそく中八丁・小蝋八丁・大蝋燭三丁目方百・豆腐二丁・金百疋・金二朱・銭百文・白銀など各人別に供えたらしい。特に多いのが銀一匁で、過半を占めている。
 中屋源兵衛が入札によって庄屋役に就任したのは、中いとが亡くなる前年七月のことであった。長らく家を支えてきたいとの胸中はいかばかりであったか。