五條市教育委員会/中家文書調査報告書

中家文書調査報告書

第三章 解説

第七節 御用留から窺える地域社会

 五條代官所は、恒例の正月の初触れで「貯穀之儀」について言及するケースが多い。天保一四年(一八四三)正月の初触れにおいても、「是迄者積替迄之内々半石下ヶ等之儀」を願う村があったが、以後はその貸し下げはせずに「当年ヨリ五條郷蔵江皆詰之積」であると通達している〔箱1-48〕。代官所は同年一〇月一四日付で、「当秋新穀を以詰替之儀」をよく心得て同月二九日までに「詰替有石数帳面」を作成して報告するよう村々へ通知せしめている〔箱1-49〕。更にその二日後、「貯穀之儀者凶作之節夫食ニ相成、飯難を逃れ且者非常之備」になるからと諭しつつ、詰替有石数帳面と同日の締め切りで「出穀小前帳」の提出を義務づけている。五條村ではこの年に出穀した分を合わせた米三一石五斗分を「当村貯穀村囲之分」と「五条村郷蔵穀」とに分けて、一六石五斗分は利兵衛持蔵(年寄役利兵衛の蔵か)に積み置き、一六石分は「五条郷蔵」に積み立てることが決まっている〔箱1-49〕。既述したように、慶應二年(一八六六)~三年(一八六七)の「施粥出米名前帳」において白米二五石七斗余、明治三年(一八七〇)の「困窮人救助書上帳」においては三一石余が準備されたことを念頭に置けば、天保一四年(一八四三)のこの貯穀量は、飢饉の切迫度にもよるが、ほぼ一年間の村を維持するに足る量と見なされていたかもしれない。なお、この年の御用留には記載が見られないが、別の年度においては「定例改方出役差遣候上、御用序不時及見分候儀も可有之」〔箱1-24〕、「追々改之もの差遣候間」〔箱1-49〕などとあって、代官所役人が貯穀の現地での村の実情を調査している。「五條村麁絵図〔箱3-339〕に代官所と常楽寺との間に規模の大きな郷蔵が描かれている点については、先述した通りである。