五條市教育委員会/中家文書調査報告書

中家文書調査報告書

第三章 解説

第七節 御用留から窺える地域社会

 御用留には出奔(家出)した行方不明者が記録されている。庄屋が村内居住者の動向を把握しておかなければ村政は成り立たない社会であったことが一つの理由である。〔箱1-49〕から三例取り上げる。
 天保一二年(一八四一)七月~同一三年(一八四二)四月のわずかの間に五條村住民の家出の記録が三件ある。無高の二八歳たきが家出して行方しれず、代官所に届け出ると「三十日切」の捜索を命ぜられたため「心当所々精々相尋」ねたがやはり所在はわからない。結句、組合惣代・親類・五條村役人惣代の三者が五條代官所にあらためて報告をした。二例目の家出人「無高百姓夘之助事喜八」の場合は、「舟越駿河守様御知行所同郡御山村幸治方」に対して「滞銀」があって奈良奉行所で係争中の人物である。そこで必要があって五條代官所の「御添翰頂戴仕、一昨十九日南都」へも家出の件を届け出たとの報告書を、組合惣代と庄屋源兵衛が代官所に提出した。この二つの事例は両者とも無高の住人であること、後者は「滞銀」を抱えていることに注意しておきたい。天保の飢饉をはじめ内憂外患が続き、五條地域でも厳しい状況が浸透している中での事態である。「御山村幸治」とは、おそらく御山村の北厚治を指している。三例目は、八年前の事象である。「東大寺領山辺郡櫟本村佐七」から貸金の件で訴えられていた五條村長左衛門が、女房と娘三人の家族を置いたまま行方知れずとなった。「日切尋之上」、結局不明のまま帳外扱い、つまり無宿者となった。それから四年後の天保九年(一八三八)正月、長左衛門が帰村したため蓑笠之助代官に「帰住」の許可を得て須恵村に住む女房の元へ送り届けた。それから更に四年経った天保一三年(一八四二)になって、代官所から長左衛門についての問いただしがあったのである。先庄屋久右衛門らが代官所に以上の経緯を述べた届け書が御用留に書き留められた。天保七年(一八三六)、蓑笠之助代官は「須恵之前より初、鷲家御宿ニ而麦作御見分」を実施したが、「是迄御代官様麦御見分」などは聞いたことがないことであるという。厳しい不作だったからである(「西口町月行事」)。綿作も「大不作」。その上「米穀格別高直」の状況に安石代の年貢収納が認められている。飢饉・大不作・米穀高騰などの影響が無高の町場の居住者を直撃するのは目に見えている。