五條市教育委員会/中家文書調査報告書

中家文書調査報告書

第三章 解説

第六節 吉野材木方口役銀と代官所

 近世における幕府による林業育成政策の一つであるが、吉野郡内各郷から切り出される材木のうち、吉野川~紀ノ川を使って和歌山まで流し下したものに対して、川上・黒滝両郷が吉野川河岸に材木改め役所(池田郷飯貝村・御領郷下市村・官上郷広橋村・天川郷日裏村・賀名生郷和田村・黒滝郷寺戸村・川上郷寺尾村)を置き、木材値段の一割を徴収する制度を口役銀制(十分一銀制)と言う。その両郷徴収銀額のうちから毎年金一〇〇両(銀では五貫四四〇匁、後に五貫六〇三匁二分)を幕府に上納し、残りは両郷の助成に充てられた(『東吉野村史』)。
 ところが、川上・黒滝両郷以外の小川郷などによる運動があり、文化六年(一八〇九)になって川上・黒滝郷が従来取り立ててきた口役銀を、「公儀御直御取立」とする仕法替えが行われることになった。川上・黒滝郷には、当分の間は「定式被下置」銀として三六貫六〇三匁二分の額(上納冥加金五貫六〇三匁二分含むため、実質は定式下付銀三一貫目)と、口役銀惣高の内から幕府への運上銀を差し引いた残りの一割七分の銀額、更に口役惣代の経費として銀一貫目が下付されること、両郷以外の他郷には取立高の十分一の助成がなされるといった内容である。〔箱4-46〕の書状(興山寺→辻甚太郎手附増井左門太)の「吉野郷村々材木之儀者、同郡川上郷・黒瀧郷村々江口役銀取立、右両郷より口役運上銀、其御役所江納来候所、去々巳歳(文化六年)ヨリ右口役銀仕法替を公儀御直御取立ニ相成候ニ付、却而厳重之御取斗」とある文言は、この事を指している。しかし、その具体的な運用は、小川郷からの改革仕法実施の歎願が五條代官所へ行われるなどして、ようやく文化一一戌年(一八一四)幕府普請方役人の検分があって実施される運びとなったという。
 中家文書総点数の半数近くを占める〔箱3〕に納められている「口役銀」「口役取立銀」「口役十分一銀」「口役方預ヶ銀」「壱歩七厘銀」などと表現される口役銀関連の多数の一紙文書は、干支と月日の年次のみで、元号が記されていない。そこで若干の時代考証が必要になる。
 イ.〔箱3-1~334〕の文書の日付の干支は子・丑・寅・卯・辰・巳・午のいずれかである。
 ロ.文書の差出人である奈良丈太夫、奈良丈右衛門、鈴木小弥太、斎藤勝平、上村井善蔵らは、辻甚太郎五條代官の下僚(手付・手代)である(柏田家文書、北山家文書、栗山家文書)。
 ハ.〔箱3-95・99〕は卯年で閏四月付の文書である。五條代官所設置以後で卯年、かつ四月に閏月を置く年は文政二年(一八一九)のみである。
 ニ.〔箱3-15〕は午年で閏一月付の文書である。五條代官所設置以後で午年、かつ一月に閏月を置く年は文政五年(一八二二)のみである。従って帯封で纏まっている〔箱3-1~24〕の年次(午年)は、文政五年(一八二二)の文書である可能性が大である。
 ホ.辻甚太郎代官の在任期間は、文化七午年(一八一〇)~文政五午年(一八二二)である。在任期間の干支は午年~午年であるから、午年のみ重複する。しかし、口役銀の「公儀直御取立」の実施は文化一一戌年(一八一四)以後であることから文化七午年(一八一〇)ではあり得ず、この午年は全て文政五午年(一八二二)を指しているはずである。
 【結論】〔箱3-1~334〕の文書は、文化一三年(一八一六)~文政五年(一八二二)の文書で、子年(文化一三)の文書が最古であること、最新は午年(文政五)の文書であること、辻甚太郎五條代官所の発給文書であることなどが判明する。同時に、宛て所がすべて掛屋(中屋)源兵衛となっていることから、この期間の掛屋の任務は中屋源兵衛が担っていたであろうことも示唆している