五條市教育委員会/中家文書調査報告書

中家文書調査報告書

第三章 解説

第五節 五條代官所

第三項 掛屋・用達・郷宿

 〔箱3-378〕「覚」はその年次が不詳ではあるが、僅かとはいえ郷宿に関わる貴重な情報を提供してくれる文書である。郷宿常楽屋久兵衛(一月・八月・一〇月)、常楽屋善兵衛(二月・四月・五月)、米屋廣吉(三月・六月)、犬飼屋善右衛門(七月・一一月)、米屋新右衛門(九月・一二月)の五人で、申年の一年間を月番交代で当たるらしい。米屋新右衛門は、「御用向諸控并綴込共」〔箱1-27〕の明治二年(一八六九)一一月の項の願書面に現れる「須恵村郷宿新右衛門」と同一人物と考えられる(この件と関連して、宇智郡内村々の訴訟と繋がりの深い石川屋助十郎・吉野屋善市郎らも含めた南都郷宿二〇名が奈良県役所宛に嘆願書を作成している)。文政九年(一八二六)一二月のことであるが、差出人用達五條村宗八と高取藩預所年預葛上郡西北窪村助左衛門の両名が、各幕領の惣代に開催予定の集会への出席を呼びかけたその場所が、「五條郷宿常楽屋久兵衛方」である(谷山正道「近世大和における広域訴願の一形態」)。「引替所五條常久」と刻印された銀札も存在している(米田家文書)。また常楽屋久兵衛は、慶応年間に五條村で塩商を営んでいる人物であるが、農政家大蔵永常と交流があり櫨栽培や蝋燭製造に携わった常楽屋東兵衛と姻戚関係があるのではないかと考えられる。次に米屋廣吉は、須恵村の庄屋・他村との兼帯庄屋・地域社会の揉め事の噯人になるなど、幕末~明治初期における地域の有力者である。嘉永四年(一八五一)一一月の事であるが、吉野郡五郷材木方惣代が集合して協議し、意見書を五條代官所へ提出したが、その時に集まった場所が「五条米廣方」であった(『近世吉野林業史』)。別に触れた安政六年(一八五九)一二月の「材木方済口証文」〔箱3-354〕において、代官所からの指示で扱い人(差加扱人)の一人となっているのがやはり須恵村年寄廣吉である。訴訟や願書の作成・提出の局面において、郷宿は訴訟人当事者の宿泊や訴訟手続きの案内者であるばかりではなく、代官所と村や地域の各組織との交渉や問題解決の必要な局面で仲介的な諸種の役割を果たしたものと考えられる。代官所所在地において、代官所と管内村々との仲介機構として不可欠の郷宿ではあるが、五條の郷宿の実態はほとんど不明な現状において、五名の郷宿が交代で仕切っていたらしい事実は、興味深い。なお、天誅組の変で代官所役人の一人木村祐次郞が傷を負いながら最初に逃げ込んだ家が廣吉宅であった事実も付け加えておきたい。