五條市教育委員会/中家文書調査報告書

中家文書調査報告書

第三章 解説

第五節 五條代官所

第三項 掛屋・用達・郷宿

 「城州・河州・摂州・和州大川筋御普請」に必要な工事費を、「五畿内村高」に応じて臨時に各村に課税されるのがこの入用銀で、京都新町通六角下ル町に所在する役銀受取所三井三郎助方へ納付される。京都町奉行所が大和国各村の「改出新田高」等の調査を三月前後に行い、それに基づき、奉行所からその年の国役銀の百石宛ての額が五條代官所へ通達された(三月「大和国宇智郡村々高附帳」、一一月「大和国宇智郡村々役高帳」の作成)。村々が拠出するこの入用銀が納付される過程において、やはり掛屋が重要な一翼を担っている。五條代官所の設立以前は、芝村藩を預所とする新町村などの村々の場合は、宇智郡の年預へ納め、ここから更に国中年預へ納入した。領主を大坂谷町代官所とする五條村などの村々は、南都押小路道具屋清九郎へ納めた。五條代官所が設けられた寛政七年(一七九五)の一〇月、郡中代久兵衛・順治郞の両名が、代官所設立以前の「大川高掛国役銀納方之儀」に関しては、「郡中村々組惣代方え取集、南都御用達善十郎方へ相渡、御支配所一諸ニ仕、右善十郎方より京都三井三郎助方へ相納、請取書取之、御役所様へ善十郎より差上」げてきたと従来の方法を述べて、従前通りの遣り方を認めてほしいとの願書を五條代官所に提出している。つまり、組合村ごとに取りまとめた分を奈良の用達へ渡し、五條村を含む代官所管内は、一括して京都三井三郎助方へ納付してきた。また受取書は奈良の用達吉野屋善十郎から役所へ提出したということなどが述べられている。翌年の寛政八年(一七九六)、前年卯年分の納入についてもこの方法を採用している。郡中代が九月一日付の五條代官所の廻状(宇智郡十七ヶ村宛)を五條村に持参してきたので、五條村はその写しを取った上、次の新町村へ回覧した。その内容は、九月二三日までに京都の受取所へ大川入用銀を納めることができるよう、九月二〇日までに奈良の吉野屋方善十郎方へ納付すべしとの通達である。しかし、郡中代、掛屋であり、かつ新町村庄屋の森脇屋久兵衛は、九月一六日付で「大川懸り銀、村別ニ遣し候ヘハ費等も懸り申候ニ付、一所ニ仕持せ遣し可申候」と「村々宛」に連絡を取ってその返事を九月二〇日まで待つとしている。しかし、「幸便も御座候而別ニ御遣被成候」場合も想定されている(以上は一覧中の③の寛政八年の説明)。なお付け加えれば、この時期では宇智郡にある二見村・岡村・今井村など幕領村の半数弱がまだ五條代官所の支配下に入っていないため、宇智郡の場合は一七ヶ村宛て一通の廻状で事足りた。
 五條代官所管内の村々が、五條の掛屋に納付する制度が定着した時期がいつ頃かは、現段階では確定しがたい。寛政一〇年(一七九八)においても、用達代から五條村へ代官所の廻状が渡され、宇智郡内一七ヶ村に回されたが、その納付のコースが不明瞭である。しかし、五條代官所管内における大和国支配高から無地高分を差し引いた残りの支配役高六万千五百石三十石余の村々から大川筋入用国役銀を受納したことを表す帳簿「大川入用銀取立帳」(柏田家文書)が存在し、文化一一年(一八一四)の「大川入用銀取立帳」の掛屋は宗八、文政元年(一八一八)のそれは久兵衛であることから、少なくともこれ以前にはこの制度が軌道に乗っていたようである。前述したように文政初年頃、御用金掛改用達久宝寺屋藤助を経て三井三郎助へ納付されるコースが確立した。一方慶応三年(一八六七)二月一日付で「京都表より御達御座候趣御役所様より被仰渡候間、此廻章披見次第、御懸所五条村栗山藤助殿江、相納メ可被成候」という内容の廻章が「宇智郡惣代新町村庄屋久兵衛」によって、宇智郡内一四ヶ村に順達されている(柏田家文書)。宇智郡の残り約半数の幕領村にも宇智郡惣代から同様の廻章が回されたであろうし、吉野郡など他の郡でも郡惣代から同種の廻章が順達されたと推測される。
 なお、嘉永元年(一八四八)分の久宝寺屋藤助が扱った大川入用銀については、嘉永四年(一八五一)「国役銀請取一札」(『吉野林業史料集成』)で知ることが出来る。五條代官所支配村だけではなく、宇智郡内にある一部の旗本知行村分も扱っている。国役銀を京都三井三郎助へ正金で渡すよう銭屋清兵衛に依頼し、かつ請取書と勘定書を要望している。
 以上、五條代官所の設置直前と以後に区別しつつ、京都町奉行所に始まって村役人に伝達されるまでの触の経路と、各村から京都の納付所へ送られるまでの国役銀の経路を検討した。
【五條村の大川筋入用銀:三ヶ年分】
文書年次課税対象年100石宛(匁)村役高(石)負担額(匁)納入用(匁)計(匁)支配所役高(石)役銀(匁)
文化10年文化9年11.947381.24445.550.91(2%)46.4661,533.10037,351.36
文化11年文化10年7.37381.24428.10.56(2%)28.6661,533.10034,534.989
文政元年文化14年26.166381.24499.762.99(3%)102.75
備考○典拠:「大川入用銀取立帳」柏田家文書 ○文書年次は賦課年、村役高は五條村の役高、支配所役高は大和国支配高から無地高388.708石分を除いた高、納入用の%は前後からの筆者の推定値を表す。 ○文化10年分には一覧以外に利息が付加されている。 ○文化11戊年の掛屋は宗八、文政元年は久兵衛の記述か有る。 ○文化9年分には京都新町通六角下ル町三井三郎助役銀受取所へ金115両(64換の代銀7,360匁)を納付した由の記述がある。 ○※の箇所は何故か式上・宇陀・宇智の三郡だけの役高21,029.7973石と役銀5,502.66匁が記載されている。ちなみに、宇智郡は31ヶ村10,122.636石分の2,648.69匁が計上されている。

【五條掛所扱い大川入用役高・役銀】(嘉永元年分)
領主abcde
村数宇智郡
31ヶ村
葛上郡
34ヶ村
忍海郡
2ヶ村
葛下郡
15ヶ村
平群郡
7ヶ村
吉野郡
201ヶ村
宇智郡
5ヶ村
宇智郡
5ヶ村
宇智郡
2ヶ村
宇智郡
1ヶ村
6郡
303ヶ村
役高(石)9,929.7758,221.218828.2978,833.8412,819.04738,143.7871,505.11976.75451,5003072,787.8295
役銀(匁)3,135.4262,595.932261.5432,789.374890.14212,044.282475.254308.42473.649.47322,983.486
備考○典拠:嘉永4年「国役銀請取一札」『吉野林業史料集成』所収(筑波大学農林学系) ○a=五條代官支配所、b=船越駿河守知行所、c=庄田為次郎知行所、d=畠山長門守知行所、e=金剛山領(寺領)○計算上、100石につき31.576匁の負担○aの合計は68,775.965石、21,716.699匁 ○計は筆者の算出値 ○「三井納入用」として銀160.88匁が別に計上されている。