五條市教育委員会/中家文書調査報告書

中家文書調査報告書

第三章 解説

第五節 五條代官所

第一項 代官所

 藤岡家文書「鉄砲稽古之図」と中家の本図〔箱2-7〕とは、背景の山並の有無を除いてその構図はほとんど同じであって、両図は同一の絵師の手になると考えられる。農兵の基本編成は一般的に鉄砲隊・鎗隊・弓隊であるとすれば、本図は主に二四人~二五人ずつ五組に分かれた鉄砲隊一二〇人余と一つの大砲に六人ずつの大筒二砲が描かれる。まさに「鉄砲稽古」の絵図である。藤岡家の図には、慶応三年(一八六七)三月に五條代官中村勘兵衛の下で藤岡長一郎らが稽古をした場面を画いた由の文言が記されている。
 従来、中家の本図は、安政二年(一八五五)に五條代官内藤杢左衛門の下で森田節斎らも加わって農兵を調練した折りの図だとされたり、或いは天誅組に直接関わる農兵調練の図などとして理解されてきた。しかし、中家のこの本図は慶応三年(一八六七)三月に行われた中村代官指揮下の鉄砲訓練の図を描いただろうことは間違いあるまい。同年五月三日には、二万両の上納金と農兵差加金のために五條代官所管内の村々に高一石につき銀二三匁五分宛課税する動きがあった(柏田家文書)。鷲尾侍従高野山隊が五條代官所に接近した時も、中村官兵衛は農兵の動員をかけている。五條代官所において、農兵が組織されたと思われる幾つかの傍証がある。全国にある代官所において、天誅組の変が発生してからわずか数ヶ月後に、伊豆韮山代官所など諸代官所で農兵の編成が指示されていることに注目したい。農兵設置については、文久年間の軍政改革の一環だとされるが、この稿では天誅組の変を契機として幕領支配機構の代官所に農兵を配備することが、初めて具体化したと考えておきたい。新しい陣屋建設を終えて、その費用明細を書き上げた「御陣屋御普請御入用勘定仕上帳」(柏田家文書)が、中村勘兵衛代官に手渡されたのが慶応三年(一八六七)二月のことであるのを念頭に置けば、一ヶ月後の組織的な鉄砲や大砲発射訓練は、天誅組の変後代官所の新しい体制がようやく整ったことの内外への重要な示威であったろう。
 〔箱4-32〕の一二月五日付書状「五條御役所調練稽古取締りに付き」は、書状作成途中の文書で差出人は書かれていない。しかし、文中「私并悴岩太郎」とあるので、差出人は源兵衛だと考えられる。一部紹介すると、「私義も五月以来五條御役所ニ而調練稽古取締頭取被仰付、夫故私并悴岩太郎外雇人共〆三人出勤、日々稽古ニ付昼迄半日宛相懸、役用繁ニ付実家方へ罷出候も自延」などと書かれている。つまり、中屋源兵衛は息男岩太郎・雇人の三人で出勤し、「取締頭取」役として半日間調練稽古をしているというのである。三月から始まった調練が五月には本格化し、一二月まで継続していたらしいことを物語る。その僅か一週間後の一二月一三日には、近隣に七〇~八〇人の浪士風らしい者が現れるとの情報を得て、農兵五〇人が代官によって召集されている(馬場家文書)。「取締頭取」役とは何か、絵図中の指揮官の身分は何か、これが洋式火術、洋式銃隊であるのかそうでないのかなど検討課題は多い。