五條市教育委員会/中家文書調査報告書

中家文書調査報告書

第三章 解説

第五節 五條代官所

第一項 代官所

 五條村外五ヶ村役人が、弘化二年(一八四五)二月二九日に小田又七郎五條代官所に興味深い請書を差し出している〔箱1-51〕。代官所の修復が終わり且つ門外への木戸の設置をきっかけに、以後代官所の門前の往来を「御陣屋江罷出候儀ハ勿論之儀、教諭所江出入」を除いて制限することを代官所は求めたらしい。代官所に隣接する極楽寺の脇や代官所の裏手にも通路の道筋があるので、農業の邪魔にはならないはずである。だから「肥桶等相携通路いたし候儀見合」せも可能であるという。また子供達が植え込みを踏み荒したり、土塀等に落書きをするので、これからは木戸内へ立ち入らないようすべきであるなどと要求した。五條村と「外五ヶ村役人」は、それらを受諾した由の請書を代官所に提出したのである。
 近隣の百姓が肥桶を担いで頻繁に門前を通行していたことや、子供達が代官所の植え込みを走り回ったり土塀への落書きをしていたというのも興味津々である。百姓らが代官所(陣屋)内にある教諭所(郷校主善館)へ通って学んでいたことも判明する。教諭所の教授佐野煥については、中いととの繋がりも含めて別に触れる。なお、森田節斎はこの一件よりわずか二年前の天保一四年(一八四三)頃、ここで講じている(『森田節斎全集』)。陣屋の修復とその費用については、郡中入用や陣屋元村との関係など検討すべき課題が多いことを指摘しておく。
 なお、代官所の建物に関しては〔箱3-339〕「五條村麁絵図」に塀や門で囲われた敷地図が描かれている。また代官所から北東の方角の西川に近い場所には、半左衛門の家が描かれる。しかし、敷地内の建物や間取り図は省かれている。〔箱2-12〕には、何の間取図かは記されていないが、以下の点から「陣屋間取図」と判断した。①図面には「白砂」、「御門」などと墨書がある。②剥がれているが貼紙二枚に「御本陣入り口」「御役所入口」と朱書されている。③同様に剥がれた貼紙に「鯰江」「富田」「浅尾」「森谷」と朱書されているが、この人物は内藤杢左衛門代官の下僚ではないか。④同じく「篠崎」「高木」「浅井」と墨書された貼紙が三点あって、この三人の名は松永善之助代官の下僚の人物に該当する。全国各地にあった陣屋の敷地内には、稲荷社が存在したことも参考になる。