五條市教育委員会/中家文書調査報告書

中家文書調査報告書

第三章 解説

第五節 五條代官所

第一項 代官所

 五條代官所は、例年正月七日頃に初触を管轄領域内に流している。宗門人別帳・五人組帳・出生死失人増減差引帳・村小入用帳・鉄炮証文などの書類提出指示、年貢・博奕・御普請所・無宿者取締・公事出入・荒地起返についての確認など各年ほとんど内容を変えないが、年によってはわずかな変更もある。例えば、天保一四年(一八四三)の初触にある「貯穀之儀、是迄者積替迄之内々半石下ヶ等之儀相願候村方も有之候得共、右者村方非常手当之品ニ付、以来貸下ヶ之儀願出申間敷、当年ヨリ五條郷蔵江皆詰之積可心得」〔箱1-48〕などの文言は他には見られない。初触を順次たどることによって代官所による行政、勧農政策の特徴やその変容を多少なりとも窺えよう。
 前任代官から後任代官への引き継ぎについては、「郷村引渡」「郷村請取」などと称されて前任、後任の代官からその完了の廻状が管内へ順達されている。例えば嘉永元年(一八四八)二月二五日付の廻状で、小田又七郎代官は二月晦日に山上藤一郎代官所へ「諸書物一同引渡」すと告げる触を、「小田又七郎五条御役所」を発給所として流している。後任の山上代官は「今、晦日郷村請取」った由の触を嘉永元年(一八四八)二月晦日に管内に回覧させている。代官所触は、郷村を受け取った段階から「山上藤一郎五条御役所」を発給所として出された。山上代官は「自分病気」で検見の廻村が行えないため、「代検見」として大津代官都築金三郎が山上代官の「手附、手代附添」いの下で実施しているが、それほどに「田方検見」は代官の重要な仕事だった。山上代官は「養生甲斐無」く、早くも翌年(一八四九)三月の「廿三日申刻」に五條で死去している。代官は死去していても、後任への「郷村引渡」しが完了するまでの行政は「郷村引渡候迄者都而是迄之通」に「五條御役所」の名の下で代官所触などが流されている(以上〔箱1-23〕〔箱1-24〕)。なお、山上代官の後を預かった信楽代官多羅尾久右衛門の後任の五條代官内藤杢左衛門が着陣するに当たっては(嘉永二年(一八四九)九月八日)、「大坂江向御越、三日市御泊り」のコースであったため「御用達不残堺迄御迎ひ罷出」たという(柏田家文書)。「不残」が何人かは不明であるが、嘉永三年(一八五〇)は源兵衛・久兵衛・藤助らを指すものと推測される。
【初 触 ― 覧】
典 拠初触記載年次
箱1-49天保13年1/7
箱1-48天保14年1/7
箱1-51弘化2年1/7
箱1-24嘉永元年1/7
箱1-23嘉永3年1/7
箱1-25嘉永4年1/7
箱1-26慶應2年1/7
箱1-26慶應3年1/7