五條市教育委員会/中家文書調査報告書

中家文書調査報告書

第三章 解説

第五節 五條代官所

第一項 代官所

 中家に代官所の支配や行政に関わった史料があまり見られないが、表題がないので「大坂・五條代官心得書」と名付けた文書〔箱4-49〕は、特に貴重な文献だと考えられる。
 この心得書の「目録」(目次)は、一~九〇の項目に分けられ、そのうちの一~八八は大坂代官所での判例・行政事例が、八十九と九〇は大和国の事例が記されている。心得書の目録番号一「借金銀売懸出入之事」~目録番号八八「大坂町奉行所白洲へ手附帯釼之義申立書付」は、大坂代官所の受け継ぎ文書であるが、本文の冒頭部分は「貴様御役宅附先支配ヨリ之申送者無之候得共、早速御取斗之御心得ニ可相成儀ニ付、借金銀出入其外定式取斗之儀拙者心得之趣相認、右墨書者夫々留書を集メ、朱書ハ万年七郎右衛門ヨリ室賀山城守・京極伊豫守へ駈合、奉行所ヨリ之挨拶之趣七郎右衛門へ承合置候ニ付打混左ニ認入候」とあって、「大坂御代官所諸取扱申送書写」(慶應義塾図書館幸田文庫所蔵)の冒頭部に書かれた文章とまったく同文である(安竹貴彦・上山卓也「大坂公事方問合伺留」)。別の箇所の文言からも、安竹・上山両氏の指摘のように、大坂代官羽倉権九郎→鈴木新吉→篠山十兵衛→池田仙九郎へと代々引き継がれてきたことがわかる。つまり、この心得書の大半は、大坂代官が統治のために引き継いできた文書である。
 一方、心得書の目録の八九の題名は「和州村々借金銀出入取斗一件」、八九の本文の方の題名は「和州村々借金銀出入、奈良奉行所へ問合日限取斗書写、但五条代官河尻甚五郎問合之事」と書かれている。八九の本文の文章の最後尾には、差出人として「河尻甚五郎元手代玉田松蔵」、受取人として「小堀縫殿様御手代林田民右衛門殿・一柳對助殿」とそれぞれ書かれていて、「右者奈良御奉行加藤伯耆守様へ甚五郎ヨリ問合候處、書面之通申来候ニ付写引渡申候、以上」と結ばれる。つまり八十九の項目は、初代の五條代官河尻甚五郎が、これまでの和州での判例や行政的処置の準則を確認し準用するために奈良奉行へ問い合わせを行い、その返答書が河尻代官の離任後に五條代官所の管内を預かった京都代官小堀縫殿へ引き継がれたことを示している。年次は戌年、享和二年(一八〇二)九月である。この引き継ぎ文のすぐ後に、更に亥年三月一五日付の小堀縫殿から池田仙九郎宛てに「右引渡申候、以上」と書かれた文面が記されている。亥年は享和三年(一八〇三)に当たるが、「亥三月、此度大坂表ヨリ御代官池田仙九郎様、当三月廿一日御所町御泊りニ而、翌廿二日御陣屋ニ御入被遊候、当町上下を着し須恵之前迄御迎ニ参」(「西口町月行事」)と記録されているように、その日付から丁度一週間後に池田仙九郎は五條代官所に着陣している。代官から代官への引き継ぎのことを「郷村引渡」「郷村請取」と称されているが、その「郷村引渡」の具体的内容に、こうした文書が入っていた可能性がある。
 目録番号九十の題名は「和州公事方裁許取斗問合書」、本文の方の題名は「大和国公事方裁許取斗問合書」と書かれている。本文文章の最後尾には「右御取捌之趣御附札ヲ以被仰知被下度奉存候、以上」とあり、また朱書で「右南都奉行加藤伯耆守へ問合」とも書き添えられていて、日付を「辰四月」とする河尻甚五郎から奈良奉行への問い合わせとその返答書であるのは明らかである。河尻甚五郎が五條代官任期中でしかも辰年に当たるのは寛政八年(一七九六)である。「~哉」との質問を河尻代官が行い、加藤奉行が逐一「~候」と返答している。ただし、この心得書は「御附札」の代わりに加藤奈良奉行の返答文言六〇ヶ条余が朱書されている。京都の内藤代官から河尻五條代官へ郷村引き渡しの手続きが終わったのが寛政七年(一七九五)五月二七日、河尻代官が五條に着任したのが八月九日だから(『五條社会歴史研究』第二集)、まだそれから一年も経たない間に問い合わせが行われたことになる。結論、「大坂・五條代官心得書」〔箱4-49〕は、大坂代官の引き継ぎ書と五條代官の引き継ぎ書の二つを、池田代官の下で一つに纏められた文書である。
 大坂代官については「大坂公事方問合伺留」「浪花公的例」「大坂代官竹垣直道日記」などを下に徐々に研究が進んでいるが、五條代官については、奈良奉行や京都町奉行などとの関係、大和国の支配組織における位置など、その研究は数少ない。大和国が京都町奉行所の支配国にあたるため、その触書が日常的に村々へ届けられているのは当然としても、例えば公事の際の両奉行所の管轄領域がよくわからない。宇智郡の村々が京都町奉行所で訴訟を争っている場合もよくある。領分違いの争論において奈良奉行所と京都町奉行所との権限範囲はどうなのか、五條代官所との取り扱い範囲の異同など不明な事が多い。この文書がそうした疑問点を解く糸口にでもなればと思う。