五條市教育委員会/中家文書調査報告書

中家文書調査報告書

第三章 解説

第四節 五條商人

 飢饉や災害などの地域社会の危機に際して、五條村商人がどのような活動を行い社会的役割を果たしていたのかについて示唆を与えるのが「施粥出米」活動である。〔箱1-42~45〕「施粥出米名前帳」や御用留からその様子を見ておく。
 慶応二年(一八六六)は、既述のように日本の社会全体が「世直し」状況と称されるほどに物価騰貴が激しく、一揆が頻発するなど世相が沸騰した不穏な年である。五條地域でも狂乱物価の状態が現出し、代官所が何度も沈静化させようとしたのは前述した通りである。〔箱1-42~45〕の「施粥出米名前帳」などは、こうした事態を反映した資料である。既に『五條市史』が一部紹介しているが、以下補足しておきたい。
 慶応二年(一八六六)五月二八日から九月二七日までと慶応三年(一八六七)二月一日から五月二〇日までの間、都合二一九日間に施粥米が供出され続けた。その合計高は白米二五石七斗四升である。九月で終わるのは、稲の収穫が本格化した時期、五月が転機をなすのは、麦の収穫時期であることと密接な関係があろう。五條村の商人ら三八人が白米を拠出したが、一人で二石以上を提供したのは、上位から久宝持屋藤助・銭屋佐太郎・当麻屋七兵衛・河内屋九兵衛の四人で、その合計は一〇石を越えている。続いて多く拠出しているのは岡屋重次郎・大坂屋利吉・中屋源兵衛・槙野屋仁兵衛・当麻屋宗八らである。ここには掛屋を務めた、あるいは務めている久宝持屋・銭屋・当麻屋・中屋らすべてが出揃っている。
 明治三年(一八七〇)の「困窮人救助書上帳」〔箱1-45〕は、困窮人・老人・病人・一五歳以下の子供ら三一一人を対象として、二月五日から麦の取り入れまでの期間、毎日一人宛一合ずつ施与するというもので、施米三一石が用意される。その通りだとすると、二月から麦の収穫期までのほぼ百日間の三一一人分の米穀量となり、計算上は合致している。「男女打込、一日壱人籾四合ニ而日数百日分」が「囲置」く量の目安だった〔箱1-51〕。三一一人のうち、病人・老人・子供を除いた困窮人百七三人とは「農業日雇荷物稼、女ハ糸并木綿稼等」をなりわいとする生活者であり、彼らは物価高騰で余儀なく困窮している住民である。米価などの上昇で厳しい生活が強いられるのは、町場における日雇層や賃銀奉公人である。五條村だけでこの人数である。財力のある商人らが救済しなければ、社会の秩序が保たれなくなろう。当時は名望家や有力層が社会的貢献を果たすのは当然視されていた。明治三年(一八七〇)二月一三日、維新政府下にある奈良県は、宇智郡の村々へ通達を出している〔箱1-50〕。「郡内之窮民被為有御救助度」いとの趣旨で、村の「身元之者共えも分限」に応じて「出米」を命じている。その際、「怠惰ニ打過き悪事を工ミ、剰心なき者迄相誘、人気を動揺」させ、「徒党ヶ間敷不筋之振舞」をする者は召し捕らえて「厳敷可処罰科候」との文言を書き添えている。江戸時代以来の「徒党」観を引き継いだままの維新政府は、百姓一揆を警戒しているのである。