五條市教育委員会/中家文書調査報告書

中家文書調査報告書

第三章 解説

第三節 伝馬所

第四項 吉野川通船

 吉野川を利用した船には二種類ある。吉野川の上流~下流間を往来する通船と対岸へ渡す横渡し船であるが、馬借所の経営と密接に関連しているのは吉野川通船の方である。重要な案件なのでここで触れておきたい。
 和歌山方面から橋本町を越えて五條村まで紀ノ川を利用した船を通すことが禁止されたために五條伝馬所が設立された経緯については前述。また、橋本町より下流への五條の積み荷の通船も禁止の措置が取られた。それは寛永二一年(一六四四)のことで、五條馬借所の設置に伴い橋本の馬の通行が制限されたために、その対抗的措置として荷積船の橋本町絵堂前浜より以下への流下を差し止めたのだとしている点についても記述済である。
 〔箱3-346〕「馬借所出入裁許状写」には吉野川通船に関わる二つの文書が記載されているが、宝暦一二年(一七六二)五月の下済証文と明和五年(一七六八)四月二五日付の奈良奉行所裁許状である。後者には吉野川通船の輸送についての原則が述べられているので、長くはなるが先ずこれを引用しておく。「右寛永年中御傳馬宿ニ相立、夫ヨリ橋本之船も橋本ヨリ上江不登、五条・須恵・新町三ヶ村之船も橋本ヨリ下江不下、猶又五条ヨリ上ハ古来ヨリ荷物通無之、川筋村々ニ柴船ハ所持之村方有之」る。これが伝馬所の開始や紀州橋本町絵堂前浜での積み替え以後の吉野川通船のあり方であるという五條村・須恵村・新町村の認識であった。
 二文書の内の宝暦一二年(一七六二)五月の下済証文の内容を簡約すると、以下のようである。吉野郡下市村商人五人の大坂へ向けた送り荷物が、新規の船に積んで五條村へ下ってきた。商品荷物が船で輸送されることは違反だとして藤堂藩古市役所へ訴えられたが、和談が成立した。その結果はやはり柴船以外の荷積み通船の禁止ルールは守られた形である。須恵村役人と五條村役人が争論の当事者となっているが、何故か新町村は加わっていない。
 もう一通の文書は、第三節の馬借所争論に関連して先述した奈良奉行酒井丹波守が明和五年(一七六八)四月に下した裁許状である。川筋で船を所持している他の村方が、諸荷物を積み下すことはないこと、船賃で諸荷物を運ぶことを認めると「人馬之駄賃ヨリ船積賃下直」であるため「馬借所往来之人馬并駕籠等之渡世営候者家業を失」うばかりか「御傳馬筋」に与える影響も大きいことなどの理由をあげて、「柴割木之外」の積み下り荷は禁止するとした裁許である。
 前後の事情は不明であるが、明治時代になって直後「御一新之折柄」、須恵村の佐兵衛は吉野川通船の経営刷新を図った為に「五條村龍蔵・源吉・久兵衛」の三人と争論が生じた。「往古よりの船株」を所持して通船の営業をしているかどうかをめぐって、双方に対立が生じたようである。ただし、船株については「下方ニ而申合候而已迄之事」であって「株立候筋」の株ではないという。明治二年(一八六九)三月のこの文書は、須恵村や佐兵衛からの引き合せに対する三人の返答書である〔箱3-347〕。
 龍蔵・源吉・久兵衛からする相手方への反論書であるため、一方の主張に偏るのは避けがたいが、吉野川通船の歴史的経緯の一端が知られる貴重な文書である。紀州橋本町絵堂前浜でストップがかかった条件の下での通船と馬借所の経営は、車の両輪の関係があったのだと考えられる。五條地域の吉野川通船を「三ヶ村進退之船」として管理下に置いてこそ、馬借所経営や伝馬所御用の勤めが可能だと考えられた。「三ヶ村進退之船」「三ヶ村支配船」とされるが、同時にそれは何よりも「御傳馬所第一之備江船」でなければならなかった。「通船之義者自侭身勝手ニ相稼候訳ヶニ而者無之、第一御傳馬所之備江船」の役割を持って運営されたと述べている。だから、芝村藩預り時代は江戸勘定所で吉野川筋の「通船新規ニ致シ候とも三ヶ村より差留メ」の訴訟を起こして中止させ、藤堂藩古市役所預りの時も紀州藩領の下市村や越部村の船を役所へ訴えて止めさせてきたという(上記宝暦年一二年下済証文を判例として適用)。また「往古より船株と唱」えて来ており、特権の保持と三ヶ村以外への通船の拡大を防いできた。吉野川通船を営むことは「三ヶ村御益筋」に繋がり、「三ヶ村江御奉公筋ニも相成」るという意識を生んでいる(地域形成の進展)
 ところで近世初期の五條の川船は四艘であったが、「壱両年之内ニ舟多ク出来」て「只今ハ(正保元年)五條船拾四、五艘」に急増した(『橋本市史近世史料Ⅰ』)。時期は不明であるが、「五條村~橋本間の上下船は一九艘、船主五條一七、須恵一、新町一」(『五條市史』)であったという。そうとすれば、増加したばかりの五條の船持ち・船頭・水主などは紀州藩のこの通船禁止政策によって、渡世難の厳しい立場に立たされたはずである。〔箱3-347〕によれば「往古より船株と唱、拾八艘吉野川通り紀州橋本迠荷積船拾八艘」があったが、享和年間(一八〇一~〇四)になって須恵村の佐兵衛は「右通船拾八艘株之内、九艘之株所持」し、その内一株は野原村へ貸して残り八艘で「作間稼」を営んでいる。佐兵衛は「三ヶ村ニおいても身元之ものニ而、酒造稼仕りもの」であるとしているが、当然であろう。近世社会における重要な船輸送において、先代の佐兵衛も含めて長期間にわたって地域三ヶ村の半数に当たる九艘を差配している存在である。五條村の龍蔵・源吉・久兵衛らが、三ヶ村支配下にあるはずの船を三ヶ村以外の野原村へ佐兵衛が貸したことについて、「一己之我意」「自侭身勝手」の稼ぎであるとして批判し、吉野川通船は「三ヶ村万代古宝」である「御傳馬所格式」を発展させる役目があると主張して、つまり地域社会への寄与を名目として自らの立場を正当化している。龍蔵ら三人は「船株」を所持せずいわば無免許での通船営業ではないかとする須恵村・佐兵衛らとの両者の見解の相違自体は、一九世紀半ばの前後の時期において、吉野川通船が三ヶ村共通の管理下にありつつも、個別経営や、より拡大した地域形成へと重心が移りはじめていることを示唆するものである。
 陸上の馬借所運送と通船の輸送と共同歩調を採用しなければ、馬借運送は限定され生活を支える営業は困難であり、伝馬御用の備えと活動の維持も実際問題として難しかったと思われる。両方が五條村・須恵村・新町村の統括下に置かれるようになったのには必然性があった。しかし、三ヶ村一体のはずの馬借所運営が、前述のように三ヶ村それぞれの思惑が生じて衝突が生まれたこと、説明は省くが、三年間隔で五條村馬借問屋が交代したこと、須恵村の住人を中心に陸上輸送の私的運営(当然当時は不法である)の活動が見られたことなど近世中期以前とは異なる事態の芽が生じていた。「一己之我意」・「我侭之致方」・「自侭身勝手ニ相稼」・「自侭ニ貸渡」などと非難される活動が浸透し、既存の特権の充満する社会がほころびはじめていたのである。
 近世後期からすでに始まっていた新しい動向が、御一新に伴って一層表面化しつつあったが、新時代は別の形で一挙に実現することになった。「今般和歌山藩廰江懸合之上、橋本駅ニ而積替」は廃止されることが決まったのである〔箱1-50〕。明治三年(一八七〇)閏一〇月~翌四年一月にかけて、五條県から村々へ布告が出されている。通船業の希望者は、従来から営業していた者も新規の者も「新古之差別」はなく、「川筋ニ而便利之場所等見込」んで願い出るようにとの内容の布告である。その際には「橋本駅之舟持并か子とも」の生活が難渋に至らないよう配慮することなども触れられているが、五條村・須恵村・新町村三ヶ村の馬借への配慮や三ヶ村への御益を考慮する必要はなく、便利の場所を選定し「一己之我意」で営業の許可を得る時代の到来への転換を告げた。佐兵衛と五條村三人との争論から一年半後の事である。
 吉野川通船に比して吉野川の横渡し船や架橋については、中家文書からの情報量は多くはないが、以下簡単に紹介する。『五條市史』によれば、中家文書の五條古絵図の裏面に「元文ノ比迄野原村ヨリ五條南之町裏、毎年柴橋懸タル事ニ候。(中略)今ハ板橋五條ヨリ掛コトナリ」と書かれているという。これに限らず、五條村~野原村間の「大川橋」(「西口町月行事」)についての記録は、地域の他の史料でもしばしば見られる。中家文書の別の絵図にも五條村~野原間に橋が描かれている。最も著名な記録は、祇園南海の「野原柴橋」の漢詩であろう。しかし、柴橋は川の水量次第で崩壊する。五條村~野原村間の渡船の設備は不可欠であって、安永二年(一七七三)「村鑑明細帳:大津村」(『五條市史』史料編)には「五條野原之両境」「黒駒村二見村之境」に船渡しがあるなどと五條村から離れた他村の明細帳にまで記載されるほど、五條村~野原村の船渡しは重要であった。「黒駒村、二見村之境」の船渡しは、表野村・大津村・中村・黒駒村など河南道沿いの村々と二見村・新町村・五條村とを短距離で繋ぐ重要な機能を担った。この二つの横渡し船が「馬借通路絵図」の中の黒駒村河岸と五條村河岸に描かれている(この絵図については別述)。船頭・船渡し料などについても述べなければならないことが多いが、今これ以上紙面を割くことは控えておきたい。