五條市教育委員会/中家文書調査報告書

中家文書調査報告書

第三章 解説

第三節 伝馬所

第三項 訴訟の主体

 一八世紀の馬借所に関わる訴訟では、大抵の場合、五條村・須恵村・新町村の三ヶ村が共同歩調を採っている。ただし、元禄一六年(一七〇三)の代官辻弥五左衛門による裁許状〔箱2-18〕は五條村と加名生谷村々への申し渡し書であって、その文中において五條村が対象とはなっていても、一度も新町村や須恵村の名は出てこない。一方、元禄一五年(一七〇二)以来の吉野郡加名生谷村々との争論の過程では、辻弥五左衛門代官への願書の主体が「五条町中」・「宇知郡五条村・新町村町中」などと記されているように、須恵村は訴訟に加わらず五條村や新町村が当事者である。しかし須恵村は不参加ではあるが、その理由がわざわざ記されているほどに一体感が強く、馬借所の浮沈が三ヶ村の繁栄の存続に与える影響は大きいとする運命共同体的な三ヶ村の一体意識が持たれてもいる。五條村が不利益の事態にいたれば「須恵村も商共ハ同事」であるのは承知しているが、「須恵村ニハ馬借持候ニてハ無之候」との立場を主張し〔箱1-17〕、この時には須恵村は距離を置いたのである。しかし、「五条村利潤」にならなければ、須恵村・新町村も打撃を被るので、これ以降においては三ヶ村共同で訴訟に当たったという。宝永年間の橋本町との塩の出入り一件においては「和州三箇村」、「和州三箇村商人」、「五條・須恵・新町此三箇所」、「三ヶ村之者共」、「和州五條三箇村」、「和州五條三箇村之商人」、「五條三ヶ村之商人」、「五条三ヶ村馬稼」、「馬借五条三ヶ村」(〔箱1-6〕、『橋本市史』)などと五條側からも橋本町側からも公称されている。享保七年(一七二二)一一月の文書〔箱1-9〕では、馬借所は従来から「三ヶ村一所」で勤めてきたのかどうかとの役所の質問に対して「五条須恵新町三ヶ所ニ而相勤申候、御検地之節ハ三ヶ村一所ニ而、其後相分り申儀ニ御座候、尤御高札ハ五条村請ニ而、勤候ハ三ヶ村ニ而勤申候」と答えている。「御検地之節ハ三ヶ所一所」との返答は、「慶長郷帳」が「すへ五条」で村高が表されていたことを想起させる。
 この点を具体化させるために宝永六年(一七〇九)~享保二〇年(一七三五)の訴訟文書から【馬借所訴訟代表団一覧】を作成した。馬借所訴訟においては、三ヶ村の村役人や惣代らがその主体となって願書提出を敢行し、江戸や奈良へ出廷している。勿論、現実的には公儀免許の高札を掲げる場所・五條村の町並・家数の規模・馬借問屋の選定方法などから見ても五條村が中核であったことは明らかである。また各願書の作成において三ヶ村が並ぶ場合、大抵は五條村が筆頭の位置で記される。
 五條村村役人の場合、庄屋役は堤安左衛門・安助である。 時代は下って寛政六年(一七九四)の様子であるが、「五条・須恵・新町村者入組場所ニ而、制札場之前者相手安助居宅有之、安助裏手筋者須恵五条村段々町場入組有之」との安助居宅についての記述(柏田家文書)は、嘉永二年(一八四九)「五條村麁絵図」〔箱3-339〕にある堤孝亭の居宅の位置と同じ場所を示しているのであろう。ここは「制札有之候場所者五条村中程」であって、長らく世襲的に庄屋役を務めるには恰好の場所にある。須恵村大庄屋伊左衛門と息男庄屋忠蔵父子が作成した文書が多く残っていることは何かを示唆しているが、詳細は不明。新町村役人については省略(『四〇〇年記念誌』一覧参照)。三ヶ村の村役人や町惣代の構成や人数を見ると、大きな訴訟団に映る。訴訟にかかる費用は膨大であったろうが、それについては全く不明である(紀州橋本町が江戸・奈良・和歌山での享保年間の吟味に必要とした経費の捻出に苦労している様子は『橋本市史』でその一端が知られる)。
 【馬借所訴訟代表団一覧】を見ても、五條村を中心とした訴訟や運営であったろうことはすぐ了解されるが、一覧中に惣代や年寄としての立場の源兵衛・四郎兵衛・太右衛門・権三郎・武右衛門らは、一方では地域の有力な商人であったことに関しては、別述の五條商人の項と照合すると明らかである(元禄期において塩・種粕・胡麻粕などを扱う中屋源兵衛・菊屋四郎兵衛・花屋太右衛門ら)。彼らは、中屋源兵衛・菊屋四郎兵衛・犬飼屋権三郎・新屋武右衛門・花屋太右衛門・茶屋太郎兵衛らのことだと判断して間違いあるまい。馬借所の支配人や請負制の成立や変容についてはここでは触れない。
【馬借所訴訟代表団一覧】
①宝永6年11/②享保4年5/③享保4年8/④享保7年10/⑤享保8年11/⑥享保20年1/
宛て所扱い人光恩寺※a奈良奉行奈良奉行※b奈良代官
五條村惣代太右衛門
惣代源兵衛
惣代四郎兵衛
年寄藤右衛門
年寄太左衛門
年寄七右衛門
年寄甚左衛門
年寄半四郎
庄屋安左衛門
年寄与三五郎
年寄太左衛門
年寄半四郎
年寄四郎兵衛
年寄藤右衛門



庄屋安助
商人太右衛門
商人権三郎
商人伝十郎
商人太郎兵衛
年寄四郎兵衛
惣代源兵衛
惣代太郎兵衛
惣代太右衛門
惣代久兵衛
惣代藤九郎
年寄四郎兵衛


庄屋安助
源兵衛
太郎兵衛
太右衛門
権二郎
武右衛門



安助
町惣代武右衛門
町惣代権三郎
町惣代太郎兵衛
年寄四郎兵衛




庄屋安助
須恵村惣代平七
年寄九郎右衛門
年寄孫十郎
大庄屋伊左衛門
年寄孫十郎
年寄吉十郎

庄屋伊左衛門
商人甚五郎庄屋忠蔵忠蔵年寄善九郎


庄屋忠蔵
新町村惣代六兵衛
年寄宇右衛門
年寄長太夫
庄屋六右衛門
年寄文右衛門
年寄長八

庄屋平六
商人孫兵衛庄屋平六年寄長八
備考○典拠①〔箱1-6〕(『橋本市史近世史料1』 p509)②〔箱3-348〕、※a 相手橋本町年寄・古佐田村庄屋・肝煎ら7名の書状の宛先③〔箱3-348〕④〔箱1-57〕⑤〔箱1-20〕、※b 江戸へ赴いた代表⑥〔箱3-349〕 ○五條村の年寄や惣代が四人であったり五人であったり多人数になる理由の一つに、南之丁・申之丁・北之丁・西囗丁などそれぞれ丁の代表という測面があるのかもしれない。

 訴訟の経過をたどってみると、交渉相手の選び方、駆け引き、根回し、執拗な交渉、立論の組み立て方など驚くべきことが多い。享保七年(一七二二)~九(一七二四)年の橋本町との一件について、いささかこの点に関連して触れておきたい。
 享保七年(一七二二)の紀州藩橋本町との争論に関連して、五條の代表等は奈良奉行所に対して次のように主張している。「紀州よりハ御役人様方数多御越」であるが、「此方ヨリ御代官様御壱人様迄ニ御座候由」、しかも紀州の役人は「此出入始終之義御存知」であるにもかかわらず、「御代官様ニハ此度初而」であって「出入之品無心元歎ヶ敷奉存候」と不安や疑念を露わにしている。天領である五條三ヶ村の領主に当たるのは奈良代官である〔箱1-18・66〕。実際問題として、会田伊右衛門は享保六年(一七二一)七月に奈良代官に任ぜられてから確かにそう日は経っていない(江戸へ訴える口実としている。江戸での訴訟が有利に働くと判断して行動しているようではある)。また、かつて公儀から許可を得て設けた中村番所の管理を野原村の不法な行為の前に放置すれば、自分たちが「後々蒙御咎メ」り、「私共越度ニと成可申哉と無心元歎ヶ敷」と五條三ヶ村の訴訟の正当性を幕府の裁許の権威を盾に奈良奉行に訴える。しかし同時に「然共其段御訴奉申上候得者、御番所様御意を奉相背申様」の結果を招来することになってしまうのだと奉行所への一定の配慮の姿勢を示しつつも、「此段も恐多迷惑」であると主張することも忘れない〔箱1-18・57〕。その上「乍恐」「以御慈悲」などと平身低頭姿勢でありつつ、執拗に有利な展開へと向けて論陣を張る。相手が格式の高い御三家の一つ紀州藩であることから、奈良代官や奈良奉行に対しても「若御遠慮之思召ニも御座候哉」などと揶揄するような発言をして、逆に奉行所から「御遠慮之思召ニも御座候」との三ヶ村側の発言の真意を問い質されている。また、「江戸ニ而之御評義ニ成候得者、極而五条村利分ニ相成候事ニ候得者、何とそ江戸評議ニいたし度」いとの認識の上で、膨大な費用や労力の捻出が待っているにも拘わらず、江戸への出訴を意図的に敢行している様子である〔箱1-20〕。訴訟に懸ける三ヶ村の強靱な目的的な意志を見る思いがする。
 しかし、五條村・須恵村・新町村が対外的な紛争においては共同で事に当たったが、馬借所の運営においては、三ヶ村が必ずしも対等な関係であった訳ではない。寛政六年(一七九四)に五條村を相手取り、須恵村と新町村が訴訟を起こしていて、「馬借所出入被仰渡書付写」(柏田家文書)には、その間の貴重な情報が詳細に記されている。