五條市教育委員会/中家文書調査報告書

中家文書調査報告書

第三章 解説

第三節 伝馬所

第二項 馬借所争論

 伝馬所は、「諸方荷物并賣買荷物、五条より運送仕候助成」によって「御大名様方諸御役人様方御朱印之人馬附送り」の御用の務めを果たすことができる〔箱1-18〕と主張しているように、御用だけではなく一般の諸荷物をも運送することによって経営の維持が成り立った。五條村の馬借所は、その時期は確定できないものの、「五条村利潤ニ不相成候而者、須恵村・新町村相痛候ニ付、三ヶ村一躰」という認識の下、町場として一体化が進展していた須恵村・新町村との三村で運営していた。従ってその馬借所の浮沈は「町中滅亡」〔箱1-17〕という町場の存亡に直結するという強い自覚を伴っていた。また、対抗的に特権を得たという急な設立の経緯からも橋本町など周辺地域とトラブルを発生させる条件を当初から負っていたといえよう。しかし、それぞれが特権を得て強い意志の下で自己主張を展開し、それを梃子に地域の基盤強化を促進させた面を忘れるわけにはいかない。むしろ、これら特権維持の努力によって地域社会の近世的な形成・発展を方向付け、近代に繋がる地域の核を形作ったとも言える。享保九年(一七二四)の評定所の裁許状〔箱2-19〕において、「橋本并両郷より数年令往来所、其侭打捨置油断之至ニ候」と勝訴した五條側をも厳しく指弾しているように、所持している特権の維持の努力や責任が求められていたのであって、それを放置することは公法的立場からは非難されるべき事態ですらあった。地域の利権の衝突は、また一方で全国的な市場の動向とも結びついている。吉野川、紀ノ川を流下した商品物資は和歌山城下・大坂・堺へ繋がり、大和川の釼先船によって輸送される物資の流れも大坂・堺と結びついている。それぞれの既得権の維持・管理とそのための訴訟は一方で地域のエゴ意識を増幅させたが、他方で全国的商品市場の展開の構造の中に根付かせる地域社会を育んだとも言えよう。幕府の裁許状に見られる特色を最後に一つあげておく。勝訴の判決を得た側にも何らかの落ち度やあるべき姿を大抵指摘している。訴訟方・相手方の両者の不公平感を少しでも和らげ、御上の御威光によって仁政が布かれたことを示そうとしているかのようである。
【五條馬借所争論関係年表】
年  代事        項典拠史料
天正15(1587)年・応其上人が秀吉に願い出て紀州伊都郡橋本町は塩市の特権を得る。一ヶ月に6度の市日を開き、塩の独占的販売を行う(後に月12回)
天正年間・五條村商人と紀州東家村が直取引を図り橋本町と争論。豊臣秀長の奉行衆が橋本町の特権を認める
寛永8(1631)年7月・荷船は橋本町から上流への航行が禁止される。和州からの下り船の直通しは許可
寛永9(1632)年・五條伝馬所の事実上の運営がはじまる(大和郡山藩主松平下総守忠明による)①、④、⑤
寛永16(1639)年4月・五條伝馬所の公儀による認可(伝馬定の高札)
寛永21(1644)年・五條船の橋本町より下流への直通しが禁止され、橋本町船継ぎ所(絵堂前浜)での積み替えが強いられる
延宝3(1675)年・五條村商人と東家村商人との塩の直接取引が開始される。東家村と橋本町が訴訟。橋本町を経由することで落着する
延宝9(1681)年10月・奈良代官国領半兵衛による伝馬の制札が五條ヘ下りる
元禄11(1698)年7月2日・五條への雑賀塩96俵送り状(元禄15年10月16日には雑賀塩50俵、17年7月18日には阿波塩34俵を五條村犬飼屋市兵衛へ送る)
元禄15(1702)年・吉野郡加名生谷村々・橋本町が、坂部郷法師ヶ坂を開削して恋野~橋本間の脇道を作る
元禄16(1703)年2月・加名生谷法師ヶ坂馬道訴訟の判決が下りる(奈良代官辻弥五左衛門裁許)①、④
宝永4 (1707)年9月・橋本町佐兵衛・長三郎不調法に付き一札を提出
宝永5(1708)年・橋本町塩仲間が和州へ塩を直通しをしたため伊都郡奉行から橋本町塩仲間が処罰を受ける
宝永5(1708)年・須恵村、五條村、新町村三ヶ村の商人が和歌山で播磨塩を購入し、直通しを図ったとして橋本塩問屋と争論となる①、⑤
宝永6(1709)年11月・紀州塩は橋本町塩市にかけ(直取引はしない)、五條商人が他国や和歌山で購入した他国塩は「蔵敷」(保管料)を出して塩市にはかけないなどとり決める(紀州小倉光恩寺仲介による取替申出入済証文)①、④
宝永6(1709)年11月・直通し塩の蔵敷の一分増し済証文
宝永8(1711)年2月・塩出入につき須恵村大庄屋竹田伊左衛門より紀州光恩寺宛の書状
正徳3(1713)年・橋本町では、五條への送り荷は馬差の差配で順番に送ることとする①、④
享保3(1718)年・暮れ頃、五條商人が橋本町側へ馬順番制を廃止してほしいと要望する①、④
享保4(1719)年10月・五條3ヶ村は、橋本町の牛馬が川南の道を使用して積み荷を運送することに抗議する①、④
享保7(1722)年・野原村民が抜け荷を行うとのことで訴訟
・中村番所か襲撃をうける
①、④
享保8(1723)年・橋本町商人が奥吉野から中村経由の新道を使い荷物の中継ぎを行う
享保9(1724)年2月・享保3年以来の訴訟の判決、江戸での裁判に五條側三ヶ村の勝訴(幕府評定所による裁許)①、④、⑤
享保20(1735)年・吉野郡118ヶ村山川稼ぎ惣代と五條伝馬所と対立(筏上床の積み荷一件)。五條側の敗訴③、④
元文3(1738)年8月・和州下市村半三郎、名倉村で漆一駄を買い、馬主東家村久四郎の直通しが咎められて荷物の差し押さえ。翌年11月、久四郎が詫びを入れて五條村問屋半九郎へ荷物を送る
宝暦12(1762)年・下市村の送り荷につき、五條村・須恵村と下市村の下済証文(古市役所)
明和元(1764)年・中村番所の番人丈助が殺害される
明和5(1768)年4月・宇智郡滝村善右衛門の渋柿船荷物につき、五條・須恵・新町船頭が訴訟し勝訴する(奈良奉行酒井丹波守裁許)
明和7(1770)年12月・馬借問屋忠右衛門による訴訟(奈良奉行小菅備前守与力中条太郎右衛門・同心鏑木官左衛門担当)
天明4(1784)年・中村番所を火打村久兵衛が請け負いを申し出て認可される
・5月、中村番所で吉野郡奥郷材木組合商人と霊安寺村庄次郎と問屋口銭で争う

寛政元(1789)年・紀州上田村牛方の油粕6駄が、中村番所で口銭不明だとして没収
寛政2(1790)年・馬借所問屋規定の作成
寛政6(1794)年・「馬借所出入被仰渡書写」
文化3(1806)年8月・青物、果物等申合せの定書
文化10(1813)年・橋本町商人が、表野村に荷物中継ぎの出店を作るが廃止される
・三名郷、十二村郷、船川郷と五條馬借所との争論(辻甚太郎五條役所)
文化13(1816)年・五條村と霊安寺村庄次郎、野原村と送り荷につき争う。紀州西小窪村、坂巻村、福巻(富貴)村役人の仲介で約定を結ぶ

文政4(1821)年12月・橋本問屋中荷物運送調べ方覚
・五條村が橋本町に対して、吉野川水運による輸送ルート(橋本町~下市間の通船)の開拓を提案する
①、②
文政7(1824)年閏8月・和州船の荷物積戻り不許可の通達
文政12(1829)年7月・五條村銭屋佐太郎行きの塩100俵が差し押さえられる
天保12(1841)年12月・檜皮の筏上積荷につき、小田又七郎五條代官からの問い合わせに対し先馬借問屋・庄屋らの返答
天保15(1844)年・7月、久野丹後守御普請用木につき疑念、五條代官所へ訴える①、④
・この頃には五條馬借所が請負人制度になっている
天保15(1844)年10月・雑漁一荷の差し押さえ
嘉水7(1854)年7月・和州田原本村喜助の干瓢一駄差し押さえ
安政6(1859)4月・葛上郡南佐味村、東佐味村の者が大豆を馬荷で輸送して上之村九兵衛へ売却したことが馬借問屋彦兵衛に咎められて違約金が徴収される(居伝付~近内村~東久留野村~上之村)③、④
・7月「請負馬借規定」、「本荷拾荷仕訳」
安政6(1859)年12月・材木方一件済口証文(吉野郡材木方の分裂)
明治2(1869)年3月・吉野川通船につき、五條村龍造らと須恵村佐兵衛との争論
明治3(1870)年閏10月・吉野川通船の自由営業を認める(五條県)
備考:典拠①『橋本市史:近世史料Ⅰ』、②『和歌山県史:近世史料二』、③『五條市史』、④『中家文書』、⑤『柏田家文書』