五條市教育委員会/中家文書調査報告書

中家文書調査報告書

第三章 解説

第三節 伝馬所

第二項 馬借所争論

 五條側が敗訴した関係上からか中家文書にはその裁許状は見当たらないが、京都所司代によって裁定が下され、以後の大和国の流通や荷物輸送のあり方に大きく影響したと考えられる案件があった。中家文書では〔箱3-349〕と〔箱3-357〕にその訴訟における双方の立論の一端が知られる。享保一九年(一七三四)三月に吉野郡橋屋村重右衛門が杦板三二間を上床に積んだ筏を組んで吉野川を下ったが、五條で「川中ニ而多勢を催し強義を働」き差し押さえられたとして、同年の八月になって吉野郡中惣百姓代寺戸村弥右衛門・中奥村平助・上市村源右衛門らが訴訟をおこしたことから始まり、途中に奈良代官が死去するというアクシデントもあったが、享保二〇年(一七三五)九月に京都所司代によって申し渡しがなされてようやく結審した一件である。大坂釼先船仲間の協力を得たり、紀州藩へも支持を得るべく五條三ヶ村の七名が和歌山会所へ書付を持参したりの努力も潰える結果となった。筏上に吉野郡各地からの板杦皮等の荷物を積み吉野川を下ることが公認されたことは、五條馬借所への影響ばかりではなく、「河州駒谷村・古市村・国分村・和州亀瀬村所々等問屋方江出候釼先船積荷物」の流通への影響も大きかったであろう。酒樽の材料としての杉板片である樽丸技術の吉野への伝来が享保年間であること、吉野川本流の浚渫は一七世紀の終わり頃に川上郷和田村大島まで到達し、これによって本流筋は流筏が可能となったこと(谷彌兵衛『近世吉野林業史』)を念頭に置けば、この訴訟の持つ意味は大きい。灘など酒造業の発展や大坂~江戸間の南海路における樽廻船の繁栄など全国市場の展開の中に意義づける必要があろう。所司代の裁許は、全国的市場を視野に入れた幕閣の意向を踏まえたものだと推測される。なおこの裁許から約百年後の天保一二(一八四一)一二月の文書「檜皮筏上積一件」(「御用留」〔箱1-49〕に書き留められた文書の一つ)は、この筏上積に関連した先馬借問屋五條村久兵衛、五條村庄屋源兵衛らの五條代官の質問に対する返答書である(後述)。
 寛政三年(一七九一)刊行の『大和名所図会』(秋里・竹原編著)に描かれる栄山寺前の吉野川(音無川)を通過する筏には、上荷が何か積まれている。それは檜・杉などの木の皮ではなさそうであるが、板類なのか柴類なのかは判然としない。しかし、筏上の積み荷の風景が違和感なく当然のように受け入れられていたことを物語っている。